4-1 最後の難関が残っています
お兄様のお部屋を無事に攻略した翌朝。
朝食を終えた私は、自分の前に置かれた空の皿を眺めながら、これまで掃除してきた部屋を頭の中で一つずつ数えていた。
私の部屋から始まり、客室、家族が集まる居間や食堂、普段はあまり使われていない部屋。そして昨日は、屋敷の中でもかなり手強いと思われていたお兄様の部屋を攻略した。
まだ細かな場所はいくつも残っているけれど、家族が日常的に使っている部屋に限って考えれば、残されている大物はあと一つだけだった。
「チャチャ。先ほどから何を考えているんだ?」
向かい側の席から、フェリクスが不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
昨日までなら、その動きに合わせて甘い花や香水の匂いが漂ってきたはずだ。しかし今朝は、焼きたてのパンと紅茶の香りを邪魔するものが何もなかった。
お兄様自身も、その違いが気に入っているらしい。
昨夜は、久しぶりに朝までぐっすり眠れたと、食事が始まってから何度も口にしていた。
「まだ、一番手強いお部屋が残っていると思いまして‥‥‥」
「一番手強い部屋?」
お兄様は首を傾げたあと、すぐに何かを察したように動きを止めた。
二人の視線が、ほとんど同時に食卓の上を移動する。
その先に座っているのは、お父様だ。
お父様は私たちの会話など聞こえていないという顔で、優雅に紅茶を口へ運んでいた。
けれど、カップを傾ける角度が少しだけ不自然で、視線も先ほどから手元の新聞に固定されている。
「お父様」
「私は、これから仕事がある」
まだ何も言っていないのに‥‥‥
「お父様のお部屋をお掃除したいのですが‥‥‥」
「‥‥‥執務室だ」
「はい?」
「あそこは私の部屋ではなく、仕事をするための執務室だ。ほかの部屋と同じように考えてもらっては困る」
お父様は紅茶のカップを置くと、いかにも重大なことを説明するような顔で続けた。
「大切な書類がある。途中まで確認した物もあれば、すぐに返事を書かなければならない物もある。本も資料も、私が使いやすいように置いてある。勝手に動かされれば、仕事に支障が出る」
言いたいことは分かるが 私だって必要な書類を何も考えずに捨てたり、勝手に置き場所を変えたりするつもりはない。
けれど、問題はそこではなかった。
「お父様。机の上だけでなく、床にも書類が置かれていると聞きましたが‥‥‥」
「‥‥‥誰から聞いた?」
「マリアネーゼです」
食堂の壁際に控えていたマリアネーゼが、お父様から向けられた視線を涼しい顔で受け止める。
「正確には、書類だけではございません。書物、空になったインク壺、使いかけの羽根ペン、封蝋、贈答品の箱などもあるとお聞きしましたが‥‥‥」
「‥‥‥すべて必要な物だ」
昨日のお兄様と同じようなことを仰っておりますが‥‥‥
「三年前に空になったインク壺もでしょうか?」
「新しいインクを入れれば、まだ使える」
「新しいインク壺が、すでに五つほど並んでいると伺いましたが‥‥‥」
マリアネーゼが淡々と付け加えると、お父様は答えなかった。
三年前に空になった物を、いつか使うかもしれないという理由だけで取っておく。それが悪いとは言わないけれど、少なくとも机の上に並べておく必要はないと思う。
隣で聞いていたお母様が、困ったように微笑んだ。
「あなた、あの箱も、まだ置いてあるのですか?」
「‥‥‥どの箱だ?」
「何が入っているのか分からないけれど、決して触ってはいけないと、皆に言いつけていらっしゃる箱でのことです」
「あれには、とても重要な物が入っている」
「そうおっしゃって、もう二年になりますわ。一度くらい、中を確かめたほうがよろしいのではなくて?」
お母様からまで指摘され、お父様は気まずそうに新聞へ視線を落とした。
お兄様が小さく噴き出す。
「父上、諦めたほうがいいですよ」
「フェリクス。お前はどちらの味方なんだ」
「もちろん、チャチャの味方です」
お兄様は迷うことなく答えた。
お父様が呆れたように眉間を押さえる。
「昨日までは、お前も掃除から逃げていただろう」
「だからこそ申し上げているのです。掃除を終えた部屋は快適ですよ。昨夜は香りに邪魔されることもなく、朝までぐっすり眠れました」
「掃除が終わった途端、ずいぶん偉そうになったものだな」
「経験者からの助言です」
「昨日、経験したばかりだろう」
「新鮮で信用できる経験でした」
お兄様は堂々と胸を張った。
自分も昨日まで同じように抵抗していたことを、もうすっかり棚へ上げているらしい。
けれど、今のお兄様ほど頼りになる援軍はいない。
「お父様。書類や本を、私たちの判断で捨てたりはしませんよ」
私はお父様の顔をまっすぐに見た。
「必要な物かどうかは、必ずお父様に確認します。置き場所も、お父様が使いやすいように決めていただきます。ただ、そのままでは埃を払うことも、床をきれいにすることもできませんし‥‥‥」
「使用人に任せればよいだろう」
「お父様が、何も動かしてはいけないと仰るので、皆さんが手を出せないのです」
「必要な物だから動かしてはならないのだよ」
「動かせないので、お掃除もできないのです」
「だから、無理に掃除をする必要はない!」
「埃が溜まります」
「私は困っていない」
「お父様が困っていなくても、埃は困らずに溜まり続けます」
私が答えるたび、お父様の眉間の皺が一本ずつ増えていくようだ‥‥‥
そこで、お父様は何かを思いついたように新聞を畳んだ。
「それなら、なぜ私の執務室なのだ」
「なぜ、と申しますと?」
「家族の部屋を順番に掃除しているのなら、先に掃除するべき部屋があるだろう」
お父様の視線が、ゆっくりとお母様へ向かう。
「どうしてクララベルの部屋は掃除しないんだ?」
「まあ、わたくしですか?」
突然、話を向けられたお母様は、目を丸くした。
「そうだ。私の執務室ばかり問題にしているが、君の部屋だってあるだろう。チャチャ、順番に掃除するのなら、まずはクララベルの部屋を確認するべきではないのか?」
どうやら、お父様はお母様の部屋を盾にして、自分の番を先延ばしにするつもりらしい。
私はマリアネーゼを見上げた。
「お母様のお部屋は、どうなっていますか?」
「奥様のお部屋は、季節が変わる前に一度、大がかりな掃除を行っております。寝具や衣類も定期的に手入れされておりますし、日頃から不要になった物を選り分けていらっしゃいます」
「窓も毎日開けておりますわ」
お母様がにこやかに付け加えた。
「花を飾るときも、香りの強い物をいくつも一緒には置かないように気をつけています。チャチャが香りに敏感になったと分かってからは、香水も自室ではほとんど使っておりません」
「では、お母様のお部屋は、今すぐ大掃除をしなくてもよさそうですね」
「もちろん、必要であればいつでも見てもらって構いませんよ」
お母様は余裕のある笑みを浮かべている。
「隠しておかなければならない物も、触られて困る物もございませんもの」
その言葉に、お父様の眉がわずかに動いた。
お母様の合いの手は、微笑ましいほど優しいのに、時々驚くほど鋭い。
「それでは、お母様のお部屋は後日、簡単に確認させていただきます」
「ええ、お願いね。せっかくですから、わたくしも新しいお掃除の方法を教えてほしいわ」
「はい!」
「待ちなさい」
話がまとまりかけたところで、お父様が慌てて口を挟んだ。
「それならクララベルの部屋を先に確認してもよいだろう?」
「お父様のお部屋から逃げる理由にはなりません」
「逃げてはいない。順番の話をしているのだ」
「お母様のお部屋は、以前大掃除をしています。日頃からお手入れもされています。それに対して、お父様の執務室は‥‥‥入ろうとしただけで‥‥‥」
チャチャは、鼻をつまんで見せた。
「‥‥‥仕事をしている」
「おとうじは、じて、いませんよね‥‥‥」
チャチャは鼻をつまんだまま、答えた。
「仕事をする部屋なのだから、仕事が優先だ」
「仕事をしやすくするために、お掃除をするのです」
お父様は今度こそ黙り込んだ。
お母様は扇の陰に口元を隠しながら、お父様へとどめを刺した。
「あなた。最近、執務室から戻ってくると、よく咳をしていらっしゃるでしょう。わたくしも気になっておりました」
「咳など、誰でもするだろ」
「お父様は、執務室へ入ったあとに多くなります」
「僕も気になっていました」
いつの間にかお兄様まで加わり、お父様は完全に孤立してしまった。
それでも、私はお父様を責めたいわけではない。
窓を開ければ書類が飛ぶ。書類を動かせば、どこに何があるのか分からなくなる。使用人たちは大切な物を勝手に触ることができない。
それが何年も積み重なった結果、誰にも手をつけられない部屋が完成してしまったのだ。
「お父様、勝手に捨てませんから‥‥‥勝手に場所も変えません。必要な物と不要な物を、お父様と一緒に分けるだけです」
「私も参加するのか?」
「お父様にしか判断できませんので」
「私は忙しいんだ」
「わたくしも手伝いますわ」
お母様が楽しそうに言った。
「君まで来るのか?」
「ええ。例の箱に何が入っているのか、以前から気になっておりましたの」
「母上、ぼ、僕も気になります」
「私も!」
私もすかさず、右手を上げる。
「箱の中身を見るための催しではないぞ!」
お父様は大きく息を吐いた。
けれど、これだけ家族に囲まれては、もう逃げられないと悟ったらしい。
「‥‥‥午前中だけだ」
「はい!」
「必要な書類は絶対に捨てないこと。机の上の物も、私に確認せず移動させてはならない」
「分かりました」
「それから、窓を開ける前に書類を片づけること」
「もちろんです」
お兄様が席を立ち、私の隣へやってくる。
「チャチャ。僕は何をすればいい?」
「まずは、お父様が逃げないように見張ってください」
「任せてくれ」
「フェリクス。お前は昨日、同じことをされていたのを忘れたのか?」
「忘れていません。だから、父上にもこの快適さを知っていただきたいのです」
「ずいぶんと早く寝返ったものだな」
「チャチャの味方になるのに、時間をかける必要はありませんから」
お父様は、もう一度深いため息をついた。
大量の書類と本。正体の分からない箱。何年も使われていない文房具。そして、部屋の中で複雑に混ざり合っているという、香木や香水の匂い。
どうやら、お兄様のお部屋より簡単には終わらないらしい。午前中だけでは、終わらないかもしれない‥‥‥
「それでは、お父様」
私は椅子から下りると、スカートの裾を整えた。
「執務室を攻略しに参りましょう」
使用人総出で執務室に挑むことを決めた。




