3-4 さて、お兄様のお部屋を攻略です!
「お兄様、チャチャです。入ってもいいですか?」
扉の向こうから返事が聞こえるまでに、少し間があった。
「チャチャ?」
やがて、中から慌ただしく椅子を引くような音がする。
「もちろんだ。今‥‥‥開けるよ」
扉が開いた瞬間、部屋の中に溜まっていた濃厚な香りが、一気に廊下へ流れ出してきた。
甘い花の香り。鼻をつくような香水の匂い。さらに、香木を焚いた煙のような重たい香りまで混じっている。
一つ一つは高価で、きっと評判のよい香りなのだろう。けれど、それらが同じ部屋の中で混ざり合えば、話は別だった。
「おはよう、チャチャ。どうしたんだ? 何か欲しいものでも‥‥‥」
満面の笑みで妹を迎えたフェリクスは、途中で言葉を止めた。
チャチャが扉の前に立ったまま、部屋へ入ろうとしないからだ。
しかも、その後ろにはマリアネーゼだけでなく、なぜか数人の侍女と使用人まで控えていた。彼らはまだ何も命じられていないにもかかわらず、掃除道具や大きな籠をしっかりと抱えている。
この二日間、屋敷中で繰り広げられてきた大掃除を、フェリクスが知らないはずはなかった。
「‥‥‥まさか」
フェリクスの笑顔が引きつった。
「お兄様」
チャチャは両手を胸の前で組み、できるだけ可愛らしく小首を傾げた。
「お兄様のお部屋を、お掃除させてください」
「断る!」
答えは、驚くほど早かった。
「まだ、何も説明してないですよ!」
「説明されなくてもわかる。この二日間、屋敷中の家具や絨毯を運び出させていただろう。僕の部屋まで空っぽにするつもりだな?」
「空っぽにはしないですよ。全部きれいにしたら、必要なものは戻すもの」
「その『必要なもの』を決めるのは誰だ?」
「私と‥‥‥お兄様に決まっているではありませんか!」
「今、一瞬、お前だけで決めようとしなかったか?」
「していないですわよ?オホホ‥‥‥」
チャチャはにっこり笑った。
嘘、ではない。‥‥‥
勝手に物を捨てるつもりはないし、本人の大切なものまで取り上げるつもりもなかった。
ただし、それが本当に必要なのか?一つずつ確認するつもりではいる‥‥‥
フェリクスはしばらく妹の顔を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「とにかく、僕の部屋は毎日きちんと掃除されている。わざわざ大がかりな掃除をする必要はない」 「でも、窓は閉まったままですよね?」
「今日は、風が強いからだ」
「今日は、ほとんど風はないですよ?」
「朝は、まだ冷えるからな!」
「廊下より、お兄様のお部屋の方が暖かいですけれど‥‥‥?」
「‥‥‥チャチャ」
「それに、この匂い!」
チャチャが鼻の前で小さく手を振ると、フェリクスは信じられないものを見るように目を見開いた。
「‥‥‥匂い?」
「扉を開ける前から、廊下まで届いていましたよ」
「そんなはずは、ない。これは、今、王都で最も流行している香りだ」
「一つだけなら、いい香りなのかもしれないけれど‥‥‥」
チャチャは開いた扉の隙間から、もう一度部屋の中を見回した。
窓辺には、花の香りがするらしい匂い袋が吊るされている。机の上には香水の小瓶が並び、寝台の近くでは香木が細い煙を上げていた。
さらに、衣装棚の中にも香りを移すための香料が入れられているのだろう。
これだけの香りが混りあえば、部屋の持ち主が何を身につけていようと、すべて同じ匂いになってしまいそうだった。
「お兄様、最近、よく眠れておりますか?」
「眠れているが‥‥‥」
「朝、起きたときに頭が重かったり、喉が痛かったりしませんか?」
「‥‥‥少しくらいなら、誰にでもあるだろう?」
「部屋を出ると、頭がすっきりしない?」
「それは、目が覚めたばかりだからだ‥‥‥」
フェリクスはすぐに否定したものの、声には先ほどまでの自信がなかった。
毎朝、目を覚ましたときに感じる重たさを、眠気のせいだと思っていたのだろう。部屋を出てしばらくすると楽になることにも、特に疑問を持っていなかったらしい。
「私も、ずっとそう思っていたの。でも、お部屋を掃除して、香りのするものを減らしたら、昨日は朝まで一度も起きませんでしたよ」
「‥‥‥本当に?」
「はい!とても気持ちよく眠れました。だから、お兄様にもぜひ、試してほしいのです」
自分のためだけに掃除をしたいのではない。
チャチャが本気で自分の身体を心配しているのだと気づいたのか、フェリクスの表情が少しだけ和らいだ。
けれど、すぐに何かを警戒するように目を細める。
「掃除をするだけだな?」
「‥‥‥はい」
「僕の物を、勝手に捨てないな?」
「そんなことしませんよ。洗ったり、干したり、埃を払ったりする、だけです、よ!」
「香水も?」
「それは‥‥‥お兄様と一緒に確認します」
「確認したあと、どうするつもりだ?」
「必要なものだけ残します」
「やっはり、捨てるつもりではないか!」
「全部では‥‥‥ない、です!」
兄妹の声が廊下に響いた。 後ろに控えていた使用人たちは、揃って視線を床へ落としている。笑ってはいけないと、必死に堪えているようにも見えた。
「お兄様が大切にしているものは、勝手に捨てません。でも、香りが変わってしまったものや、使っていないものまで、ずっと置いておく必要はないでしょう?」
「香水の香りは、そう簡単に変わらない」
「では、一つずつ確認していきましょう」
「今からか?」
「今からです!」
チャチャが力強く頷く。 ここで断ったとしても、チャチャが簡単に諦めないことくらい、兄である彼が最もよくわかっていた。それどころか、今日を逃れても明日また来るだろう‥‥‥
そして明日も断れば、今度はお父様かお母様を味方につけて戻ってくるに違いない‥‥‥
「‥‥‥わかったよ」
長い沈黙のあと、フェリクスがとうとう扉の前から退いた。
「ただし、僕も立ち会うからな。勝手に物を動かすなよ」
「もちろんです!」
許可を得たチャチャは、嬉しそうに部屋へ足を踏み入れた。その瞬間、濃密な香りに全身を包まれ、思わず息を止める。扉の前で感じていた香りなど、まだ序の口だったらしい‥‥‥
閉め切られた室内には、目に見えない香りの壁でもあるかのようだった。
「最初に、窓を開けてもいいですよね?」
「掃除をするなら、そのくらいは構わない」
フェリクスの許しを得ると、チャチャは真っ先に窓へ向かった。
厚いカーテンを開き、大きな窓を左右いっぱいに開いた。
朝の新鮮な空気が部屋へ流れ込み、薄暗かった室内に光が差した。
それだけでも、重たく淀んでいた空気が少しずつ動き始める。
「香炉の火も消しますね」
「ああ」
マリアネーゼが香炉の火を消し、使用人が慎重に蓋をした。
煙が止まっても、一度染みついた匂いはすぐには消えない。 チャチャは部屋の中を確認しながら、何から始めるべきか考えた。
フェリクスの部屋は、決して散らかってはいなかった。寝台はきれいに整えられ、机の上の書類や本も種類ごとに並べられている。床にも目立った埃はなく、毎日掃除されていることは一目でわかった。 しかし‥‥‥見える場所がきれいだからといって、部屋の隅々まで清潔とは限らない。
「まずは、寝具を全部運び出して、風に当てましょう。シーツと枕の覆いはお洗濯をお願いします」 「それ昨日、取り替えたばかりだぞ?」
「それでも洗います」
「‥‥‥なぜだ?」




