3-2 屋敷中のお掃除へ出発です!
チャチャは久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさなかった。窓から入る夜風が、ゆっくりと部屋を通り抜けていく。
重たい香の匂いも、鼻を刺す香水もない。
息を吸うたび、胸の奥まで新鮮な空気が入ってきた。
「‥‥‥気持ちいい」
布団の中で、小さく笑う。
「やっぱり、お部屋は気持ちいいのが一番だね」
そんなことを考えているうちに、そのまま静かに眠りへ落ちていった。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、マリアネーゼ」
翌朝、朝食を終えたチャチャは、自室へ戻ると鏡の前でふと足を止めた。
「あら‥‥‥?」
鏡の中の自分を、思わず見つめ、頬には少しだけ赤みが戻っていた。
青白かった顔色が、昨日よりずっと健康そうに見える。
「お医者様のおっしゃる通り、本当に回復してきておりますね」
「ええ。でも、それだけじゃありませんよ」
チャチャは鏡へ近づき、額から肩へ流れる髪を、そっと一房つまむ。
光を受けて、柔らかなプラチナブロンドが揺れた。
「……私の髪って、こんな色でしたっけ?」
「え?」
マリアネーゼも鏡を覗き込む。
「綺麗なお色ですよね」
「私‥‥‥こんな髪だったんですね」
お茶会では、重たい鬘だったし、記憶が戻ってからは、病気で寝込んでいた。鏡を見る余裕もなかった。
改めて自分の髪を、ゆっくり眺めた感じがした。
チャチャは少しだけ笑った。
「鬘をつけなくていいって、なんて気持ちいいものなんでしょう」
チャチャは自分の髪を指先でそっと梳いた。
「こんな綺麗な髪を、毎日隠してしまうなんて‥‥‥みんな、なんてもったいないことをしているのでしょうか!」
そう呟くと、ぱん、と手を合わせる。
「さあ!」
マリアネーゼがびくっと肩を震わせる。
「今日も、お掃除へ出発しますよ!」
「はい、お嬢様!」
「まずは客間です!」
窓が開かれる。
家具が運び出され、絨毯は庭へ。使用人たちは昨日よりも動きがとても軽かった。
「窓は全部開けてください!」
「こちらの椅子、運びます!」
「絨毯も干しましょう!」
チャチャは部屋へ入るなり、ぴたりと止まる。
「‥‥‥なんだか目が痛いですわ」
使用人長も苦笑した。
「香を焚きすぎたようでございます」
棚を見ると、香炉がいくつも並んでいた。
「お客様を歓迎するほど、香を増やす習わしでして」
「歓迎される前に涙が出そうです」
部屋中から小さな笑いが起きた。
香炉も一緒に庭へ並べられた。
「次は応接室です!」
「まあ……」
チャチャは棚いっぱいの小瓶を見て目を丸くした。
「全部、香料ですか?」
「季節ごと、来客ごと、時間帯ごとに使い分けるんです」
「そんなに種類が必要なのです?」
「昔からの決まりでございますので‥‥‥」
チャチャは一本持ち上げて匂いを嗅ぐ。
くしゅん!‥‥‥
可愛らしいくしゃみが響いた。
「失礼しました」
「お嬢様!」
「‥‥‥この棚も、風に当てましょう」
「廊下です!」
長い絨毯が何人もの使用人によって丸められていく。
持ち上げた瞬間‥‥‥
「うわっ!」
「これは……!」
床が真っ黒だった。
チャチャが目をぱちぱちさせる。
「床って、こんな黒かったですか?」
「違います!」
使用人長が慌てて答えた。
「長年の埃でございますね!」
一瞬静まり返えった‥‥‥
「徹底的に掃除いたしましょう!」
「はい!」
全員が一斉に動き始めた。
「最後は書庫です!」
本棚から本を少しずつ取り出し、窓際へ並べていく。チャチャは一冊開いて、ふわりと鼻を近づけた。
「少し湿った匂いがします」
本を開いた瞬間、小さな点がちょろちょろと動いた。
「‥‥‥あら?‥‥‥埃では、ありませんね?虫さんです」
「長年、窓を開けておりませんでしたので‥‥‥」
「たまには換気しないと、本が傷んでしまいますよ」
窓を開けると、風がページを優しくめくった。
昼を過ぎる頃には、使用人たちの声が変わっていた。
「こちらの部屋、家具はもう運び出しております!」「絨毯も干しました!」「次はこちらですね!」誰かに指示される前に、自然と身体が動いている。
昨日まで戸惑っていた空気は、もうどこにもなかった。
チャチャは満足そうに頷いた。
「皆さん、とても楽しそうです」
「不思議ですね」
使用人長も笑う。
「ここまで屋敷中の窓を開けたのは、私も初めてでございます」
「風って、こんなに気持ちよかったのですね」
夕方。
屋敷の見取り図を広げたチャチャは、小さく丸を付けていく。
「客間、終わり」
「応接室、終わり」
「廊下も終わり」
「書庫も終わりました」
赤い丸が、屋敷のあちこちを埋めていく。
残っている部屋は、たった二つ。
チャチャは見取り図を見つめて、にっこり笑った。
「いよいよ最後の難関ですね」
マリアネーゼも視線を落とす。
「お兄様のお部屋と、お父様のお部屋‥‥‥」
「屋敷で一番の強敵です」
チャチャは腕まくりをした。
「さて、どちらのお部屋から攻略いたしましょうか?」
想像しただけで、鼻をつまみそうになった。
使用人たちは顔を見合わせる‥‥‥
そして、誰からともなく笑い声が広がった。
この屋敷で一番手強い二つの部屋だろう‥‥‥
その扉の向こうで、一体どれほどのお掃除が待っているのだろうか?
楽しみでもあり、楽しみではない気もする‥‥‥




