2-7 お部屋をきれいにしたいんです
病に伏せて以来、久しぶりに家族そろって昼食を囲んだ。
食卓には、私のために消化の良い料理が並び、それとは別に家族のためのいつもの料理も用意されている。
温かな野菜のスープに、柔らかく煮込まれた鶏肉。焼きたてのパンに、彩りを添える果物の煮込み。
見ているだけで、お腹が鳴りそうになった。
「消化のいいものも用意してもらっているけれど、無理はしないのよ、チャーちゃん」
母だけは、昔から私を『チャーちゃん』と呼ぶ。私の本当の名前はチェチェーリアだ。
小さい頃、お兄様は『チェチェーリア』がうまく言えなくて、『チャチャ』と呼ぶようになった。それがそのまま家族の愛称になり、私をチャチャやチャーちゃんと呼んでいる。
お父様だけは、今でもきちんと『チェチェーリア』だけれど‥‥‥
「はい、お母様。でも、もう大丈夫です」
私はそう答え、小さくスープを口へ運んだ。優しい温かさが、すっと体に染み渡る。
「おいしいです」
思わずこぼれた言葉に、お母様がほっとしたように微笑んだ。お父様も静かに頷いた。
「食欲が戻ったようで何よりだ、チェチェーリア」
「ありがとうございます。お父様」
病み上がりとは思えないほど元気に食事をする私を見て、家族みんなの表情が柔らかくなる。ずっと心配をかけてしまっていたのだろう。
そんなことを考えながらパンをちぎっていると、ふと隣のお兄様に顔を向けた。
「お兄様!」
「どうした?」
私は思わず微笑んだ。
「臭くなくなりましたね。よかったです!」
一瞬、食卓が静まり返る。
「く、くさっ‥‥‥そ、そうか」
兄は何でもないことのように返事をしたけれど、耳がほんの少し赤い。
フェリクスは、そっとテーブルの下で拳を握りしめた。念入りに汗を拭き、着替えまで済ませた努力は無駄ではなかったと思った。
くぅっ‥‥‥と目をつぶり、嬉しさを噛み締めているのが伝わってくるきた。兄は、とても満足そうな表情だった。
一方、お父様とお母様は顔を見合わせる。
「フェリクス、何か香水でも変えたのか?」
父は全くわかっていないようであった。
「いえ、特にはかえていません。母上の教えを守っただけです」
涼しい顔で答えるお兄様を見て、私は首をかしげる。
香水の匂いではないが、無臭とまではいかないものの許容範囲ではある。
さっきまでよりも、ずっと自然で安心する匂いになっていた。
「とても、安心する匂いになりました」
そう言うと、お兄様は危うく口元が緩みそうになり、慌てて水の入ったグラスに口をつけた。
食事が終わり、温かいお茶が運ばれてきた頃だった。
私は湯気の立つカップを両手で包み込みながら、お母様を見つめた。
「お母様」
「どうしたの、チャーちゃん?」
少しだけ緊張する。でも、こう言えば、きっと受け入れてもらえるはずだ。
「お願いがあるんです」
その一言で、お父様もお兄様も私へ視線を向けた。病み上がりだからだろう。みんな少しだけ心配そうな顔をしていた。
「お願いとは?」
お父様が静かに尋ねる。私は姿勢を正した。
「家中のお部屋を掃除したいんです」
「「「‥‥‥掃除!?」」」
三人の声がきれいに重なった。
「はい」
私は頷いた。
「病気になってからでしょうか‥‥‥前より匂いが敏感になってしまって‥‥‥先生にもご相談したんですが」
「‥‥‥それで?」お母様がやわらかく問い返してくれる。
「はい‥‥‥前は、気づかなかったのですが、匂いが気になってしまっていて‥‥‥」
お兄様が首をかしげたあと、ふと自分の袖口に鼻を近づけてくんくんと嗅いだ。
「‥‥‥俺、まだ臭いか?」
「お兄様は、もう大丈夫です。ただ、部屋を閉め切っていると、なんとなく湿っぽい匂いがして‥‥‥でも、窓を開けると少し楽になるんです。それに、先生は全然匂わなくて‥‥‥だから、自分の部屋もそうしたくて‥‥‥掃除するのが大事だと教えていただいたので、できれば家中もきれいにしたいんです」
「なるほど‥‥‥」 お父様が腕を組み、考えるようにうなずいた。
「それで、掃除して改善するのであれば、したいと思いまして‥‥‥窓は、ずっと閉めたままですし、カーテンも布なので匂いが残りやすいと思うんです」
「確かにそうね」お母様が頷く。
「寝具も、長く使っていると湿気を含みますし‥‥‥お日様に干したら、もっと気持ちよく眠れると思います。絨毯やクッションも同じで、空気を吸い込んでしまうと思うんです」
「ふむ‥‥‥」
「それから、家具の後ろや棚の奥など、普段あまり触らない場所には埃もたまりますし‥‥‥」
私は少し考えてから、付け加えた。
「窓や収納も含めて、一度全部きれいにしたいんです」
「全部、というと?」
お父様が確認するように尋ねる。
「はい。カーテンも、寝具も、絨毯も、クッションも、家具の後ろも、窓も、収納も‥‥‥カツラ箱も全部です」そして、少しだけ遠慮がちに言う。
食卓が静まり返る。お父様がゆっくりと口を開いた。
「そこまで、掃除が必要なのか?」
私は首をかしげる。
「だって‥‥‥」
一度言葉を探してから、少しだけ視線を落とす。
「もしこのままだと、また、体調を崩してしまうかもしれません‥‥‥それでもいいのですか?」
小さく息を吸ってから、続けた。
「自分のお部屋も、少し臭うんです‥‥‥」ぴたり、と空気が止まった。
お兄様の肩がぴくりと震える。
(もしかして、俺も?‥‥‥)
そんな声が聞こえてきそうなほどの表情を兄はしていた。
「あっ‥‥‥お部屋ですよ?誰のお話でもありませんよ」
お母様がくすりと笑う。
「ふふっ‥‥‥わかっているわよ」
「それで、チャーちゃんは、その匂いをなくしたいのね?」
「はい!」
私は元気よく頷いた。
「せっかく元気になりましたし、気持ちよく過ごしたいと思いまして‥‥‥」
「なるほど‥‥‥」
お父様が小さく息をついた。しばらく考えていたお父様が、小さく頷いた。
「そこまで言うなら、好きにしてみなさい」
私は、ぱっと顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。ただ侍女だけでは大変だろう。必要なら使用人も手伝わせよう」
「お父様、大好きです。ありがとうございます!」とチャチャが言うと、珍しく父は、ちょっとにやけたような顔をした。
嬉しくて、思わず立ち上がりそうになった。その様子を見て、お母様が優しく笑った。
「無理は禁物よ、チャーちゃん」
「はい!」
昼食を終えた私は、自室へ戻った。
部屋の真ん中で、ぐるりと見回す。
カーテン。
寝具。
絨毯。
棚。
家具。
カツラ箱‥‥‥
病気になる前は気にならなかった匂いが、今は少しだけ鼻につく。私は窓へ歩み寄った。重たいカーテンを開き、窓を大きく押し開ける。
春の風が部屋いっぱいに吹き込み、閉じ込められていた空気を外へ連れ出していく。
深く、深呼吸をした。
「やっぱり新鮮な空気は、違いますねぇー」
思っていた以上に気持ちが良かった。
私は思わず笑みをこぼした。
「まずは自分のお部屋改革からですね!」
けれど、この部屋をどう変えていくかは、これから色々、決めていかなくてはならない。
私は、もう一度、深く深呼吸をした。




