2-6 チャチャの一言が刺さった日
「お、お兄様、ちょっと汗の匂いが‥‥‥」
チャチャは申し訳なさそうに鼻を押さえた。
悪気がないことは、フェリクスにも分かっていた。だからこそ、胸が少しだけ痛んだ。
「あ、ああ‥‥‥訓練帰りだからな」
笑って返したのは、チャチャを安心させるためでもあり、これまで通り頼れる兄でいようとする自分なりの振る舞いだった。
チャチャも安心したように笑い、その場は何事もなかったかのように穏やかに終わったかに見えた。
なのに‥‥‥
『汗の臭い‥‥‥』あの一言だけが、頭から中々離れなかった。
チャチャがおしゃべりができるようになってから今まで、一度も言われたことがなかったんだ。
『臭い』なんて‥‥‥
フェリクスは廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。
今思えば、チャチャは昔から、『兄さま、大好き』とよく抱きついてきたし、訓練帰りでも、汗だくでも、鎧を着たままでも‥‥‥
「お兄様!」
と笑って飛び込んできて、そのまま抱き上げるのが当たり前だった。
木剣を振れば、「すごい!」と目を輝かせた。
肩車をすれば、「もっと高く!」とはしゃいでいたな‥‥‥
あの頃のチャチャは、汗の匂いなんて気にしたことがなかった。
それどころか、「お兄様の匂い」そう笑って頬を寄せてきたことすらある。
そんな、めちゃくちゃ可愛い妹だったはずだ‥‥‥
だから今日、鼻を押さえられたことが、思った以上に堪えていた。
臭いと嫌われたか?
そこまでじゃないはずだ!チャチャはそんな子じゃない!
頭では、わかっているんだ。だけど‥‥‥
少しだけ。
ほんの少ーしだけ。
今まで当たり前だった距離が、一歩遠くなってしまった気がしてしまったんだ‥‥‥
それが、無性に寂しかった。
そうだ、病気をしてからだ。お茶会で倒れた日から、全部、変わってしまった。
あの日‥‥‥
顔色を失って倒れ、そのままベッドに横たえられているチャチャの姿を見た瞬間、頭が真っ白になった。
呼んでも返事をしない。
目も開かない。
何をしていいか分からなかった。このまま目が覚めないんじゃないかと思うと、どうしようもなく怖くなった。
医師が駆け寄り、侍女たちが動き、父が指示を飛ばし、母が付き添う。
自分だけが、何もできなかった。
部屋へ入ろうとしても止められた。
安静にしないとだから、今は休ませてあげてと母上にも言われた。
わかっているんだ!
全部正しい。
それでも、兄としては何一つ役に立てなかった。
熱が下がったあとも、安心はできなかった。
チャチャは以前より匂いを気にするようになった。
家族を一人ずつ部屋へ呼びたいと言った。
部屋へ入るなり、匂いを確かめるように鼻を動かす。
そして今日だ‥‥‥とうとう自分は、汗臭いと言われてしまった‥‥‥
病気のせいなのだろうか?
何かの後遺症でも残ったのだろうか?
心配と、不安と、少しの寂しさが胸の中で入り混じった。
そしてその夜、フェリクスは珍しく、自分から母の部屋を訪ねた。
「母上!」
本を読んでいたクララベルが顔を上げる。
「あら、どうしたの?」
フェリクスは少し言いづらそうに頬をかいた。
「‥‥‥俺」
「うん?」
「そんなに臭いかな?」
クララベルは目を丸くした。
「‥‥‥えっ?」
「今日、チャチャに汗の匂いがするって言われたんだ。鼻まで押さえられたし‥‥‥」
その言い方があまりにも真剣で、クララベルは思わず吹き出しそうになる。
しかし、本人は至って真面目だった。
笑ってはいけないと思いつつも少し笑いながら‥‥‥
「ふふっ‥‥‥そうねぇ‥‥‥以前よりは、すると思うわ」
「……えっ!」フェリクスは固まった。
「思春期ですものね。男の子は汗の匂いも強くなるものよ」
「‥‥‥そうなのか?思春期は、みんな臭くなるものなのかぁー」
「みんなというわけではないと思うわよ。だって、先生は昔から匂わなかったし、もちろん運動は苦手のようだったから、その辺もあるのでしょうけれど‥‥‥以前から運動した後は、汗を拭きなさいとか着替えなさいとかそれとなく言ってきたでしょ」
「‥‥‥うん」
「聞いていなかったでしょう?」
「‥‥‥は、い」
肩が少しずつ落ち、視線もだんだんと下へ向いていった。
母上には、苦笑された。
「別に汚いという話ではないのよ!っていうわけでもないのかしら?体が大人になってきた証拠なんだから‥‥‥でも、そのままだと匂いは強くなるわ。汗の臭いって乾くとよけい匂うのよねぇー」
フェリクスは自分の袖口を持ち上げ、恐る恐る匂いを嗅いだ。
「‥‥‥うん?わからん」
母上は声を上げて笑った。
「自分ではわからないものよ」
「‥‥‥」
フェリクスはぽつりと漏らした。
「チャチャに嫌われたかと思って、ショックだった」
その一言に、クララベルの表情がふっと柔らかくなる。
「違うわ」
母上は、きっぱりと言った。
「あの子は、今でもあなたが大好きよ。病気をしてから、匂いにとても敏感になってしまっただけよ。だから、あなたを避けたんじゃないの。汗の匂いが少し辛かっただけ」
あんまり、フォローになっていないような?‥‥‥フェリクスはゆっくり息を吐いた。
少し話しただけなのに、気持ちがふっと上向きになったように感じた。
「‥‥‥そう、かな?」
「ええ‥‥‥だから、チャチャに嫌われたくなかったら、次からは汗を拭いて、着替えて、できれば、水浴びなんかしたら最高ね!そうしたら、またチャーちゃんは昔みたいに抱きついてくれるわ」
フェリクスは少し照れくさそうに笑った。
「‥‥‥よし!ちゃんと着替え、汗も拭く。風呂も入る。全部、チャチャに嫌われないようにするためだ」
その真剣な宣言に、母上はくすくすと笑っていた。
「とりあえず、やってみなさいな。それでもダメだったら、また相談に来ればいいわ」
チャチャが安心して抱きついて来られるように、いつでも受け止められるよう準備しておくんだ。
その願いは大人になってからも変わることはなかった。
――将来、シスコンも過ぎると拒否されるとも知らずに‥‥‥




