2-5 家族の温かい香り
扉の向こうで、小さく人の動く気配がした。
診察を終えた先生は、部屋の隅へ静かに下がってくれた。
マリアネーゼが扉を少しだけ開け、廊下で待っていた家族へ向かって一礼した。
「それでは、お一人ずつお願いいたします」
「まずは奥様から」
廊下には、お父様とお兄様の姿が見える。
すぐ外から「えーなんで?また、母様から?」と不満げな声が響き、続けて「順番だ、落ち着け」と低くたしなめる声も聞こえた。
マリアネーゼはそんなやり取りを一瞥すると、無情にも静かに扉を閉めた。
今にも部屋へ飛び込んできそうなのに、ぐっと我慢して待っているようだった。
思わず頬が緩んだ。みんなにかなり心配をかけてしまっていたようだ。
父と兄とは、熱を出してからほとんど顔を合わせていなかった。お母様とマリアネーゼに阻止されていたようだったし‥‥‥
そのとき、ふわりと扉が開くよりも先に、やさしい香りが部屋へ流れ込んできた。
淡い花の香り。
その奥にあるのは、陽だまりに干した布のような、やわらかな香りもあり、幼い頃から何度も抱きしめられるたびに感じてきた、安心する香りがした。
「お母様‥‥‥」
クララベル・フォン・クラウゼン。
三十歳前半で、小柄ながらとてもきれいで可愛らしい容姿をした、私の大好きなお母様だった。
そして、この世界でただ一人、私を『チャーちゃん』と呼ぶ人だ。
「チャーちゃん!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。お母様は私のそばまで来ると、何度も何度も顔を見つめる。
涙をこらえているのが、すぐにわかった。
「本当に……本当に良かったわ」
震える声でそう言って、そっと私の頬に触れる。
「ご心配をおかけしました」
そう言うと、お母様は小さく首を横に振った。
「そんなこと、気にしなくていいの。チャーちゃんが元気になってくれた。それだけで十分よ」
そう言って、私を優しく抱きしめる。近づくと、安心する香りが少しだけ濃くなる。
香水だけではない、お母様自身の香りがした。私は、この香りが大好きだった。
「もう大丈夫なのね?」
「はい。先生からも、普段どおり生活していいと許可をいただきました。お庭のお散歩もできるそうです」
「あの時は、どうなることかと思ったわよ。殿下があなたを抱えて来るんですもの。でも……よかったわ。よくなって」そうだったんだ、と胸の奥がじんわりと温かくなった。
凄く心配をかけてしまったようで申し訳ないです‥‥‥
「でも、まだ無理しないでね」お母様の表情がぱっと明るくなる。
そう答えると、お母様は本当に嬉しそうに微笑んだ。母親ながら、なんて可愛い人なんだろう。その笑顔は最強で、見ているだけで私まで嬉しくなった。
コンコン。控えめなノックが聞こえた。
「奥様、お時間でございます」
マリアネーゼの遠慮がちな声がした。
「えっ‥‥‥もうそんな時間なの?」
お母様は少しだけ名残惜しそうに私の手を包み込んだ。
「チャーちゃん。またすぐ来るからね」
「はい、お母様」
お母様は最後にもう一度だけ私の頭を優しく撫でると、ゆっくりと立ち上がった。
扉が開く。
「母様! やっと──」
廊下から元気な声が飛び込んでくる。
「えー! なんで俺が最後なんだよ!」
「順番だ。落ち着け、フェリクス」
低く落ち着いたお父様の声が続く。
「だって父様だって早く会いたいでしょう?」
「……否定はせん」
思わず吹き出しそうになる。
お父様まで、そんなことを言うなんて、お母様はくすりと笑いながら振り返った。
「二人とも、ちゃんと約束を守ってちょうだいね」
「はいはい」
「……分かっている」
返事はしたものの、二人とも扉の向こうからこちらを覗き込みたくて仕方がない様子だった。
その姿がおかしくて、自然と笑みがこぼれた。
熱を出してからずっと会えなかった家族が、ようやく帰ってきた。そんな気がした。
「それでは、旦那様」
マリアネーゼが静かに扉を開き、お父様を部屋へ案内した。
お父様が静かに部屋へ入ってきた。
エーヴェルハルト・フォン・クラウゼン。背が高く、軽めの鬘を被っているが、その下は一体何色なのだろうとつい気になってしまった。
お腹も出ておらず、引き締まった体つきで、いわゆるイケオジという言葉がぴったりの、三十代後半くらいに見えるクラウゼン公爵家の当主であり、誰もが一目置く立派な公爵様だ。屋敷の使用人たちはもちろん、領民からの信頼も厚い。
私にとっては、少し怖いけど、とても優しいお父様だ。
「……元気になったようだな」
いつものように低く落ち着いた声。けれど、その声はどこか少しだけ掠れて聞こえた。
「はい。ご心配をおかけしました」
そう言うと、お父様はゆっくりとうなずきながら、こちらへ一歩、また一歩と近づいてくる。それだけなのに、ほっと肩の力が抜けたようにも見えた。
その時、ふわり‥‥‥
私は思わず鼻をひくりと動かした。
葉巻の香りがした。お父様はもともと葉巻を嗜まれる。
だから、この香りは嫌いではない。
むしろ、お父様らしい香りだと思っている。
でも‥‥‥
今日は少し違った。いつもより、ずっとずっと濃かった。
葉巻の甘い香りの奥に、少しだけ苦みを帯びたヤニの匂いが残っている。
「あれ‥‥‥?お父様」
「なんだ?」
「葉巻‥‥‥吸い過ぎですよ!」
その一言に、お父様の肩がぴくりと震えた。
「なっ‥‥‥」
ちょうどその時、扉の外からお母様の声が聞こえた。
「あなた、この数日ずっと執務室で葉巻ばかり吸っていたじゃありませんか」
「‥‥‥」
少しだけ気まずそうなお父様だった。
「チャーちゃんが心配で仕事も手につかないものだから、気を紛らわせるために何本吸ったことか」
「……余計なことは、言わなくてよい」耳まで少し赤くなっている。そんなお父様を見るのは初めてだった。
私は思わずくすっと笑ってしまう。
「心配をお掛けして、申し訳ございません」
「よくなれば、それでいい。無理はするなよ」
「はい!」
そう返事をした、その瞬間だった。
「もう我慢できるかーっ!」
バタンッ!
勢いよく扉が開いた。
「フェリクス様! まだ旦那様が――」
マリアネーゼが止めようとするが、一歩遅い。
「チャチャー!」
お兄様は満面の笑みで部屋へ飛び込んできた。
「お、お兄様!」
「元気になったんだな!」
ベッドまで一直線に駆け寄ろうとして――。
「フェリクス」
お父様の低い声が部屋に響く。
「‥‥‥あっ!」
ぴたり、と足を止めるお兄様。
「順番を守れと言ったはずだ」
「だって、もう待てなかったんだよ」
「しょうがないなぁー」
お父様は小さく息をつくと、どこか諦めたように肩をすくめた。
「では、私は仕事へ戻る」
「父様、ごめん」と口では言いながら、手はしっしと追い払うように振っていた。
「元気な顔は見られた。それで十分だ」
そう言って私の頭を優しくひと撫ですると、お父様は先生へ軽く会釈をした。
「先生、娘をよろしく頼みます」
「はい、承知しております」
お父様は静かに部屋を後にする。
入れ替わるように、お兄様がベッドのすぐそばまでやって来た。
「チャチャ!」
その瞬間だった。
むわっ‥‥‥思わず、人差し指で鼻をガードした。
私は必死に瞬きを繰り返し、香りを紛らわした。
汗の臭い、革の香り、そして木剣に染みついた木の匂い。
そして、庭の土と草の香り。
全部がお兄様の周りで混ざり合っていた。
私は思わず、人差し指をそのままにしたまま、くすっと笑ってしまった。
「お、じい、さま……」
「ん?」
「ずごく、あぜをがきましたね」
人差し指で鼻を覆っていたせいで、くぐもった変な声になってしまった。
「え?今、なんて言った?おじいさま‥‥‥?」
お兄様は目を丸くした。
「匂いです」
そう答えると、お兄様は自分の服の袖をくんくんと嗅いだ。
「俺、臭うか!?」
部屋の隅で見ていたマリアネーゼが、小さくため息をつく。
「ですから、お着替えをなさってからと申し上げたではありませんか」
「うっ‥‥‥」
「ですが、お待ちになれませんでしたね」
図星だったらしい。
お兄様は頭をかきながら照れ笑いを浮かべた。
フェリクス・フォン・クラウゼン。
私のお兄様、四つ年上で、クラウゼン公爵家の跡継ぎだ。
勉強も剣術もよくできて、領地の人たちからも期待されている自慢のお兄様だ。
淡い金髪、いわゆるプラチナブロンドっていうやつなのかな?鬘は被っていなかったので、もしかしたら自分も同じ髪色なんだろうか?そうだったらいいな、と少しだけ期待してしまう。
‥‥‥ただ。
思ったことがすぐ顔に出る。少しせっかちで、待つのも苦手。そして、私のことになると周りが見えなくなる。ちょーっとシスコン気味だ。少しだけだと思いたいが‥‥‥
子どもの頃から、私が泣けば真っ先に駆け付けてくれた。
転べば抱き上げてくれたし、お菓子をもらえば半分こしてくれた。私にとっては、世界で一番優しいお兄様だ。
普段、家の中では鬘を外している。
陽の光を受けると、まるで銀糸が混じっているようにきらきらと輝く髪。
そういえば、自分の頭も軽くて鬘を被っているようには感じないけれど、まだ鏡を見ていないから実際のところはわからない。
あっ‥‥‥ふと、思い出した。
髪色は、お兄様より少し濃い金髪だった。なんだか急にテンションが上がる。そういえば前世では、金髪にちょっと憧れていたんだよね。
そんなことを考えながら見つめていると、お兄様がベッドのすぐそばまでやって来た。
「坊ちゃま」
マリアネーゼが一歩前に出る。
「汗でお召し物が濡れておりますので、椅子にはお座りにならないようお願いいたします」
ぴたり、とお兄様の動きが止まった。
「‥‥‥」
「こちらの椅子はお嬢様がお使いになっております。汗で汚れてしまいます」
「‥‥‥ああ」
お兄様は自分の服を見下ろし、少しだけ気まずそうに頭をかいた。
「だって、もうチャチャに会いに行ってもいいって聞いたんだぞ?着替えていたら遅くなるだろ!」
少しも悪びれた様子はない。私は思わず笑ってしまった。
「お兄様」
「ん?」
「ずっと、お稽古をしていたんですね」
「‥‥‥ああ」
「素振りだけじゃないですよね?木人相手の体術も‥‥‥それから、走り込みもしましたよね?」
お兄様は目を丸くした。
「な、なんでそこまでわかるんだ!?」
私は少しだけ得意そうに笑う。
「匂いますから‥‥‥革の匂いが強いから木人を使ってますし、土の匂いも新しいですし、それに汗の匂いも運動したばかりの匂いです。だから、お兄様、ずっと体を動かしていたと想像しました」
お兄様はしばらくぽかんとしていた。やがて照れくさそうに頭をかく。
「心配でさ。部屋でじっとしてると、悪いことばっかり考えちまうからな。気を紛らわすために剣でも振ふらないと‥‥‥」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。この汗の匂いは、頑張った匂いなんだね。
私を心配してくれた、お兄様の優しい香りだったんだ。




