第76話 主馬の講義——「三好の敗戦」
元和七年(1621年)初夏
学び舎の午後は、いつも同じ調子で過ぎていく。
秋津主馬は座した若者たちを前に、地図を広げていた。典之、一馬、新九郎、直之。四人とも、もう子供と呼べる年ではない。だが主馬の前では、まだ稽古中の顔をする。
その日の講義は、木津川口の陣立てについてだった。ひとしきり話し終えたところで、直之が手を挙げた。
「先生は、殿に出会う前は何をしておられたのですか」
主馬は筆を止めた。
珍しく、すぐには答えなかった。四人が顔を見合わせる。
「……今日は、負け戦の話をしよう」
いつもと違う声だった。四人が居住まいを正した。
———
元亀三年、阿波。
当時、主馬は二十八だった。三好家中の片隅で、日置修理亮という若い武将の下に付いていた。日置は家柄も武勇も申し分なかったが、机上の策というものを信じない男だった。
「主馬、お前の策はいつも面白い。だが、机の上の戦は、いくらでも勝てような」
それが、日置の口癖だった。
その年、織田方の圧力が畿内に及び始め、主馬たちが守る小城にも兵が向けられた。兵力は敵の半分にも満たない。主馬は地図を広げ、日置に献策した。
「正面からぶつかれば、必ず負けます。後方の谷筋に伏兵を置き、敵の補給を断てば、時を稼げます。時さえ稼げれば、援軍が来る見込みがあります」
日置はしばらく地図を睨んでいたが、やがて笑った。
「三好武士たるもの、城に籠って穴熊のような真似はせぬ。打って出て、名を上げる」
「修理亮様、それでは——」
「主馬、お前は策を練るのが仕事だ。戦うのは俺だ」
それで話は終わった。
———
出陣の朝、主馬はもう一度だけ食い下がった。
「せめて、後詰めだけでも谷筋に」
「くどいぞ」
日置は聞かなかった。身分の差というものが、主馬とその男の間に厚い壁を作っていた。策がどれほど正しくとも、その声を届ける道がなければ、無いのと同じだった。
日置隊は寡兵のまま打って出た。
主馬は城に残され、遠くからその様子を見ていた。最初は押しているように見えた。だが敵は数で押し戻し、じわじわと日置隊を包囲していく。
主馬は地図を握りしめたまま、ただ見ていることしかできなかった。
日置修理亮は、その日のうちに討ち死にした。城も、程なく落ちた。
主馬は辛くも城を脱し、落ちのびた。
———
主馬はそこで一度、言葉を止めた。
典之が小さく息を呑んだ。一馬と新九郎は黙って続きを待っている。直之は、拳を握りしめていた。
「策は正しかった。今でも、そう思っている」
主馬は静かに続けた。
「だが、それを容れる耳がなければ、策など絵に描いた餅だ。あの日、俺は初めてそれを思い知った」
三好家はほどなく瓦解し、主馬は仕える先を失った。京の片隅で、誰も聞かない策を抱えたまま、腐りかけていた日々——それが、殿に出会うまでの主馬だった。
「六条河原で腐っていた俺の話は、前にしたな」
「はい」
一馬が頷いた。
「あの時の俺は、日置様の下で死んだ味方の顔を、まだ忘れていなかった。策は正しくても、人が容れなければ、それだけの命が消える。それを、身をもって知っていた」
———
一馬が、しばらく考えてから聞いた。
「その策、殿になら通りましたか」
主馬はわずかに間を置いた。
「殿は、話を最後まで聞く人だった」
それだけで、十分だったのだと、主馬は思う。
「木津川口の時も、四段構えの策を出した時も、殿は一度も途中で遮らなかった。最後まで聞いて、それから『主馬の策の通りに動く』とだけ言った。それがどれほどのことか、あの人たちには分からんだろうな」
直之が小さく頷いた。
「日置という方は、なぜ話を聞かなかったのでしょう」
「怖かったのだと思う」
主馬は静かに答えた。
「己の武勇を信じることでしか、立っていられない男だった。他人の策に頼れば、己の値打ちが下がると思っていたのかもしれん。だからあの人は、勝つことより、名を上げることを選んだ。兵の命は、その次だった」
新九郎が眉をひそめた。
「殿は、違ったのですか」
「まるで違った」
主馬はそこで、少し身を乗り出した。
「殿の策は、いつも同じところから始まった。『何人生きて帰れるか』——それだけだ。勝てるかどうかより、まずそれを聞かれた」
典之が筆を止めて顔を上げた。
「越前の一向一揆討伐の話は、聞いたことがあるか」
「はい。那須軍の戦死者がゼロだった、という」
一馬が答えた。
「あの時、佐々様の軍に伏兵の恐れがあると分かった。並みの将なら、物見を出し、隊を割いて備えを固める。それだけで、時と兵を使う。だが殿は違った」
主馬は当時を思い出すように、目を細めた。
「殿は、一人で先に行った。伏兵の場所を突き止め、単身で片付けてしまわれた。後から来た本隊は、何も知らずに素通りしただけだった。誰も傷つかず、誰も死ななかった」
「一人で、ですか」
直之が驚いた声を上げた。
「一人でだ。他の将なら、手柄を独り占めにしたと思われるのを恐れて、そんな真似はしない。だが殿は、手柄がどう見えるかなど、初めから気にしていなかった。ただ、兵が死なずに済む道を選んだだけだ」
主馬は一馬たちを見回した。
「日置様は、名のために兵を使った。殿は、兵を生かすために名を捨てた。俺が仕えるべき器を見誤らなかったのは、その違いを、この目で見たからだ」
四人はしばらく黙っていた。
「策より先に、人を見よ——お前たちに、いつも言っていることだな」
主馬は地図を丸めながら言った。
「あの負け戦が、俺の全ての始まりだった。忘れるな。策がどれほど正しくとも、それを聞く者がいなければ、意味を成さない」
———
講義が終わり、若者たちが下がっていく。
直之だけが、戸口で振り返った。
「先生、その日置様のことは、今も覚えておられるのですか」
「忘れたことはない」
主馬は短く答えた。
「毎年、あの城が落ちた日には、一人で酒を飲む。それだけだ」
直之は小さく頭を下げて、去っていった。
主馬は一人になった学び舎で、丸めた地図をしばらく見つめていた。
窓の外、弥十郎の窯の煙が、いつものように真っ直ぐ空へ上っていた。




