第74話 足尾の火薬——直之の初陣
元和六年(1620年)秋
銀の道を塞いでから、半月が過ぎた。
浪人たちの多くは山を下り、散っていった。一馬からの報告はそう伝えていた。だが、全員ではなかった。
新九郎が最後にもう一度、上野の拠点跡を見に行った時、まだ十人ほどが残っていた。頭らしい男を中心に、小屋の一つに立てこもっている。
新九郎は木の陰から中を窺った。すでに出来上がった火薬の樽が、小屋の奥に積まれているのが見えた。銀が運べなくなっても、すでに作ってしまった分は残っている。
男たちの話し声が、風に乗って切れ切れに聞こえてきた。
「……江戸へ、直に……」
「……足尾の陣屋を、焼けば……」
新九郎は息を止めた。
———
「足尾の陣屋を襲うつもりのようです」
一馬が資景に報告した。直房と直之も同席していた。
「頭の男について、分かったことは」
資景が聞いた。
「香取平三郎という名だそうです。元は大坂方についた小大名の家臣で、大坂の陣で主家が潰れた後、行き場を失ったと」
六之助が付け加えた。
「残った十人も、似たような身の上でしょう。国を失い、禄を失い、行くあてもない。銀の道を塞がれて、最後の稼ぎ口も断たれた。あとは、何かを壊すことでしか、自分たちの存在を示せなくなったのかもしれません」
資景はしばらく黙っていた。
「哀れではあるな」
「はい」
「だが、それで陣屋を焼かれ、人が死ねば、哀れでは済まぬ」
「今度は、話し合いでは済まないな」
直房が言った。
「はい。火薬はすでに出来上がっています。十人といえど、火薬を持って陣屋を襲えば、死人が出ます」
「直之、行けるか」
直之は即座に頷いた。
「行きます」
直房が横から言った。
「今度は私も行く」
「殿はどうお考えですか」
一馬が資景に聞いた。
「六之助殿には、もう一度お二人を出していただく。直房殿にも同行してもらう。ただし——」
資景は直之を見た。
「今回は、直之が前に立て。直房殿は後ろに控えよ」
直房は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
———
足尾の山中、浪人たちの小屋は、以前より警戒が厳しくなっていた。
見張りが四人に増えている。小屋の周りには、罠らしい縄も張られていた。
五人——直之、直房、一馬、新九郎、そして今回は六之助も同行していた——は、少し離れた場所から様子を窺った。
「正面から踏み込むのは無理だな」
六之助が言った。
「火薬に火がつけば、周りごと吹き飛ぶ」
「では、どうする」
直之が聞いた。
「まず、火薬を外に出す」
新九郎が言った。
「小屋に近づいて、樽を運び出す隙を作れれば」
「見張りが四人だ。気づかれずには無理だ」
一馬が首を振った。
六之助がしばらく考えて、口を開いた。
「囮を使う。誰かが表から近づいて、見張りの目を引く。その間に、別の者が裏から火薬を運び出す」
「囮は誰が」
「俺がやる」
直之が言った。
直房が初めて口を挟んだ。
「危険すぎる」
「兄者。今回は、俺が前に立てと殿から言われている」
直房は直之を見た。しばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……無理はするな」
「分かっている」
———
夜、直之は一人で小屋に近づいた。
わざと枝を踏み、音を立てた。
「誰だ!」
声が飛んだ。松明の灯りが揺れながら近づいてくる。直之は身を隠さず、姿を見せた。
「道に迷った」
「嘘をつけ」
松明を持った男が、直之の顔を照らした。目つきが変わった。
「お前、先だっての道普請の一味か!」
叫び声が響いた。小屋の中から、次々に人影が飛び出してくる。四人。全員、直之に向かってきた。
これで小屋の裏が空く。直之はそこまでは分かっていた。だが、四人を相手にしながら、無事にこの場を切り抜ける算段までは、正直、なかった。
一人目が、間合いを詰めるなり刀を横に薙いだ。直之は身をかがめて避けた。頬のすぐ上を、刃が空を切る音が通り過ぎた。
息をつく間もなく、二人目が突きを繰り出してくる。直之は横に転がりながら躱した。土と落ち葉が口の中に入った。
立ち上がろうとした瞬間、足首を何かが掴んだ。罠の縄だった。体勢が崩れる。
「かかったな!」
三人目が斬りかかってきた。直之は転びながら刀を上げ、辛うじて受けた。腕に重い衝撃が走る。刃と刃がぶつかる音が、耳の奥まで響いた。
四人目が回り込み、退路を塞いだ。
完全に囲まれた。
直之は縄を絡めた足のまま、片膝をついた姿勢で刀を構えた。息が上がっている。心の臓が、耳のすぐ後ろで鳴っているように感じた。
「一人で来るとは、間抜けか勇者か、どっちだ」
槍を持った男が笑いながら言った。
「小僧、動きは悪くないが、一人じゃ、勝てんぞ」
槍が突き出された。直之は縄のせいで大きく動けない。体をひねって切っ先を逸らすので精一杯だった。切っ先が着物の袖を裂いた。冷たい感触が二の腕を掠めた。
次の突きが来る。
もう躱しきれない、と思った瞬間——
「一人ではない」
横合いから声が飛び、槍が弾かれた。
直房だった。
直房は槍の男の懐に一気に踏み込み、峰打ちで一撃のもとに倒した。もう一人が斬りかかってきたが、直房は最小限の動きでそれをかわし、鳩尾に拳を入れて崩れさせた。
「兄者……」
「約束を破った。無理はするな、と言った」
直房は直之を庇うように前に出た。
「これは、俺の判断だ」
「分かっている。だが、これは俺の初陣だ」
直之は縄を刀で切り、足を自由にすると、立ち上がって刀を構え直した。
「兄者は、後ろにいてくれ。今度こそ」
直房は一瞬、直之を見た。荒い息、震える手、それでも引かない目。それから、少し下がった。
「……好きにしろ」
———
残った見張りの一人が、直之と向き合った。年嵩の男で、構えに無駄がなかった。他の三人とは、明らかに動きの質が違う。
「若造が。俺は、賤ヶ岳から生き残った男だぞ」
男が言った。
直之は答えず、間合いを計った。
男の太刀筋は速く、重かった。振り下ろされた一撃を受けた瞬間、腕全体が痺れた。刀が飛ばされそうになる。両手で柄を握り直し、押し返した。
二撃目、三撃目と、男は畳みかけてきた。直之はただ受けるだけで精一杯だった。後ろに下がる。また下がる。木の根に足を取られそうになる。
これが、本物の戦いか。
頭のどこかで、そう思った。稽古とは違う。相手は本気で自分を殺そうとしている。殺気というものが、これほど重いとは知らなかった。
四撃目が振り下ろされた瞬間、直之は下がるのをやめた。逆に、一歩踏み込んだ。
男が驚いた顔をした。踏み込まれるとは思っていなかったのだろう。間合いが詰まり、太刀の勢いが殺される。
直之は体を沈め、刀を下から振り上げた。
手応えがあった。
男が呻き、膝から崩れた。急所は外していた。だが、確かに斬った感触が、柄を握る手のひらに残っていた。
直之はしばらく、その場に立ち尽くした。息が荒かった。手が震えていた。
———
同じ頃、小屋の裏では、一馬・新九郎が火薬の樽を運び出していた。
見張りが表に引きつけられている間に、樽を一つずつ外へ運ぶ。重い。二人がかりでも、一つ運ぶのに時間がかかった。
「まだ半分残っている」
新九郎が言った。
その時、小屋の奥から、香取平三郎が出てきた。異変に気づいたらしい。
「何をしている!」
男は刀を抜いた。六之助が前に出た。
「お前が頭か」
「……忍びか」
平三郎は六之助を睨んだ。
「もう若くない身で、こんなところまで出てきたか」
「息子たちに、無理はさせられん」
六之助は静かに言った。
「大坂で主家を失ったそうだな」
「知った風な口を利くな」
平三郎が吠えた。
「俺たちは、何も悪くない。ただ、勝った側に生まれなかっただけだ」
「それで、陣屋を焼くのか。それで、何が変わる」
「変わらんでもいい。ただ、このまま野垂れ死ぬよりはましだ」
平三郎が斬りかかってきた。六之助はそれをかわし、小さな動きで男の腕を取り、体勢を崩した。長年の経験が、無駄のない動きに出ていた。
「もう終わりだ」
六之助が言った。平三郎は抵抗したが、一馬と新九郎が加勢し、ほどなく取り押さえられた。
———
夜が明ける頃には、決着がついていた。
残っていた浪人たちは全員捕らえられるか、逃げ散った。火薬の樽は無事に運び出され、その場で処分された。小屋には火が放たれ、痕跡は焼け落ちた山火事として片付けられることになった。
直之は、自分が斬った相手を見下ろしていた。
死んではいなかった。急所は外していた。だが、それでも、初めて本気で人を斬った感触が、まだ手に残っていた。
「大丈夫か」
直房が近づいてきた。
「……分かりません」
直之は正直に答えた。
「思っていたのと、違いました」
「そうだろうな」
直房はそれだけ言った。
「稽古で何百回振っても、分からないことがある。今、お前はそれを知った」
「兄者も、初めての時は」
直房は少し間を置いた。
「同じだった。手が震えた」
直之は自分の手を見た。まだ、少し震えていた。
「香取という男は、どうなりますか」
「江戸へ送られるだろう。他の者たちも同じだ」
「哀れだと、殿は仰っていました」
「哀れだろうな」
直房は短く言った。
「だが、哀れだからといって、火薬を持って陣屋に火を放っていいわけではない。それだけは、忘れるな」
「はい」
「これで、終わりだ」
直房は直之の肩に手を置いた。
「よくやった」
その一言だけで、直之は何も言えなくなった。
———
資景のもとに報告が届いたのは、数日後だった。
「足尾の一件、片付きました。死者は出ておりません」
六之助が言った。
「直之は」
「よくやりました。初めての実戦にしては、上出来です」
資景は頷いた。
「江戸へは、今回もそう伝える。内々に処理した、とだけ」
「はい」
「六之助殿、無理はしないでくれ。もう若くないのだから」
六之助は少し笑った。
「殿にそう言われると、こそばゆいものですな」




