第73話 陸奥の噂——一馬と新九郎
元和六年(1620年)夏
窯の煙が、朝から真っ直ぐ上がっている。
弥十郎は窯の前に座り、火の様子を見ていた。マーはもう窯には入らない。今日も少し離れた場所で、木箱に腰掛けて煙を見ているだけだ。
「今日はどうだ」
「悪くない」
弥十郎はそれだけ答えた。マーは頷いて、また黙って煙を見る。
二人とも、それ以上は話さない。
———
同じ日の朝、資景は烏山城の書院で、江戸から届いた文を読んでいた。
差出人は秀忠様の側近だった。文の内容は簡潔だ。
上野の山中で新しい銀の鉱脈が見つかったらしい。そこに大坂の陣で主を失った浪人たちが集まり、無断で坑夫を使って銀を掘っているという。銀だけならまだいい。問題は、その銀を元手に鉄砲と火薬を作り始めているという知らせだった。
さらに、陸奥の方でも不審な動きがある。禁教令のあと身を隠しているキリシタンの鍛冶職人たちが、その浪人たちと接触しているらしい、という噂だ。
幕府は正面から兵を出したくない。まだ大坂の陣から五年しか経っていない。ここでまた兵を動かせば、諸大名が身構える。だから、内々に、目立たぬ形で片付けてほしい——それが文の趣旨だった。
「那須殿になら任せられる」と書いてある。
資景は文を閉じた。
どう動くべきか、しばらく考えた。
———
昼過ぎ、六之助を呼んだ。
六之助はもう若くない。だが、資景の前に座る姿勢は昔と変わらなかった。
「陸奥と上野です」
資景は文を六之助に渡した。六之助は黙って読む。
「殿はどうお考えですか」
「六之助殿に任せたい。だが、今回は六之助殿自身が動くのではなく、若い者を使ってほしい」
六之助は少し間を置いた。
「一馬と新九郎ですか」
「そうだ」
「まだ実戦は少ないですが」
「だからこそだ。いつまでも六之助殿一人に頼るわけにはいかない。次に任せる時が、そろそろ来ている」
六之助はしばらく黙っていた。それから、小さく頷く。
「分かりました。呼びます」
———
一馬と新九郎は、六之助と鵜飼家の娘との間に生まれた息子だった。
一馬は兄で、二十二歳。慎重な性格で、集めた情報を整理するのが得意だった。新九郎は弟で、二十歳。身が軽く、忍び込んで様子を探る役に向いている。
二人とも忍びとしての修行は積んでいたが、大きな仕事はまだ任されていなかった。
六之助が二人を呼び、資景の書院で事の次第を伝える。
「上野の鉱脈と、陸奥の鍛冶集団を調べてほしい」
「父上は行かないのですか」
新九郎が聞いた。
「今回はお前たちだけで行け」
一馬と新九郎は顔を見合わせた。
「分かりました」
一馬が答える。新九郎は何も言わず、ただ頷いた。
———
同じ頃、赤井直勝の屋敷でも、似たような話が持ち上がっていた。
直房のもとに、資景から使いが来る。
「上野で浪人たちが火薬を作っているらしい。もし戦いになれば、援護に出てほしい」
「私が、ですか」
「いや」
使いの者は首を振った。
「殿は、直之殿を出してほしいとのことです」
直房は少し驚いた。
「直之は、まだ十九です」
「殿はそう仰っていました。直房殿は後ろから見ていてほしい、と」
直房は黙って、しばらく考える。
———
直之は、直勝の次男だった。
兄の直房とは、性格がまるで違う。直房は物静かで、慎重に考えてから動く。直之は逆だった。まず動いてから考える。子供の頃から、そういう性分だ。
資景の使いから話を聞くと、直之はすぐに立ち上がった。
「行きます」
「気負うな」
直房が言う。
「これは戦ではない。火種を消しに行くだけだ」
「分かっています」
直之はそう言ったが、目は既に江戸の方を向いていた。
———
数日後、一馬と新九郎は陸奥に入った。
目当ての鍛冶集団は、山の奥に小さな集落を作って隠れ住んでいる。新九郎が先に単身で近づき、様子を探った。
夜、新九郎は集落の裏手から中の様子を窺う。焚き火の周りに、鍛冶職人らしい男たちが数人いた。そこに、見慣れない一団が現れる。身なりは浪人だが、動きに統制が取れていた。
浪人たちの頭らしい男が、鍛冶職人の一人と話している。
「銃身の作り方を教えてほしい。銀なら払える」
鍛冶職人は迷っている様子だった。
新九郎はそれ以上近づかず、その場を離れる。
———
翌朝、一馬のもとに新九郎が戻った。
「浪人が、鍛冶職人に銃身の作り方を求めています。銀で買収しようとしています」
「人数は」
「浪人は十人ほど。鍛冶職人は五人ほどでした」
一馬はしばらく考えた。
「まだ取引は成立していないようだな」
「はい。鍛冶職人は迷っています」
「なら、まだ間に合う」
一馬は文を書き、六之助宛に送る。上野の直之たちとも合流する必要がある、という内容だった。
———
上野では、直之が浪人たちの拠点に近づいていた。
山中に、急ごしらえの小屋が並んでいる。中から金属を打つ音が聞こえた。火薬の匂いもする。
直之は木の陰に隠れ、しばらく様子を見た。見張りは二人。交代の時間も分かる。
このまま踏み込めば、一人で何とかなるかもしれない。直之はそう思った。
だが、直房の言葉を思い出す。
「これは戦ではない。火種を消しに行くだけだ」
一人で踏み込んで騒ぎになれば、火種はかえって広がる。
直之は動かず、そのまま様子を見続けることにした。
———
数日のうちに、一馬・新九郎・直之の三人が、上野の山中で落ち合った。
三人とも、烏山で共に育った顔ぶれだ。子供の頃は主馬の学び舎で同じ机を並べ、直之が居眠りをして典之に叱られるのを、一馬と新九郎が横で笑って見ていたこともある。
「直之、また遅刻か」
新九郎が先に軽口を叩いた。
「山道が悪かっただけだ」
「言い訳が学び舎の頃と同じだな」
一馬が笑う。
「兄者は元気か」
「相変わらずだ。お前の親父殿は」
「今回は口を出すなと言われたらしい。珍しく大人しくしている」
軽口はそこまでにして、一馬が地面に木の枝で簡単な図を描き始めた。すぐに真顔になる。
「陸奥の鍛冶集団は、まだ取引を決めていません」
一馬が言った。
「今のうちに、上野の浪人たちの動きを止められれば、取引自体がなくなります」
「どうやって止める」
直之が聞いた。
「銀を、動かせなくすればいい」
新九郎が言う。
「鉱脈から掘った銀を、江戸へ運ぶ道が一つしかありません。そこを塞げば、浪人たちは金を作れなくなります」
「戦うのか」
「いえ」
一馬が首を振った。
「道を塞ぐだけです。ただし、ただ木を倒しただけでは怪しまれます。仕組んだと分かれば、浪人たちは別の道を探すか、警戒を強めるだけです」
三人はその日から、二日かけて山を歩き回る。
新九郎が調べると、運搬の道は表向き一つだが、獣道に近い間道がもう一つあることが分かった。浪人たちも用心してその間道に見張りを一人置いている。表の道だけを塞いでも、間道から銀を運ばれては意味がない。
一馬が浪人たちの動きを数日見張り、銀の運搬が三日に一度、決まった刻限に行われていることをつかむ。運搬の日は、拠点に残る見張りの数が減った。
直之は、道の上手にある沢の水を堰き止められないか、地形を見て回った。堰き止めた水を一気に落とせば、表の道に本物の土砂崩れを起こせる。仕組まれたものではなく、山が崩れたようにしか見えない。
「間道の方はどうする」
直之が聞いた。
「そちらは、俺が塞ぐ」
新九郎が言う。
「見張りを別の場所に誘い出して、その隙に岩を落とす。見張りが一人なら、できる」
三人で段取りを決めた。運搬の日、直之が沢の水を落として表の道を崩す。同じ刻限に、新九郎が間道の見張りを誘い出し、一馬が合図を出して岩を落とす。一馬は少し離れた場所から全体の様子を見て、何かあればすぐに二人に知らせる役に回った。
当日、直之が堰を切ると、水は思った以上の勢いで道を削る。表の道は完全に埋まった。同じ頃、新九郎は見張りの男に「怪しい獣の足跡がある」と別の場所へ誘い、その隙に一馬が仕込んでおいた岩を落とし、間道も塞ぐ。
見張りの男が戻ってきて、道が塞がれていることに気づいた。しばらく辺りを歩き回っていたが、崩れた土砂と倒木を見て、ただの山崩れだと判断したらしく、拠点へ戻っていく。
銀が運べなくなったことで、浪人たちは鍛冶職人への支払いができなくなった。取引は自然に立ち消えになる。
鍛冶職人たちは、山を下りて別の土地に移った。浪人たちの一団も、次第に散っていく。
誰も傷つかなかった。刀を抜くこともなかった。
———
直之は、直房に事の次第を報告した。
「一人で踏み込まなかったのか」
「はい。三人で相談して、道を塞ぐことにしました」
直房はしばらく黙っていた。それから、短く言う。
「良い判断だった」
直之は少し驚いた顔をした。褒められることに、あまり慣れていない。
———
一馬と新九郎も、六之助に報告した。
「刀は使いませんでした」
「それでいい」
六之助はそう言っただけだった。だが、その言葉には、いつもより力がこもっていた気がする。
———
資景のもとに、事の顛末が届いた。
資景はそれを読み、江戸へ報告の文を書く。「上野・陸奥の件、内々に処理いたしました」とだけ書いた。詳しい経緯は書かない。
これでいい、と資景は思う。
父上のやり方と、同じだった。目立たず、痕跡を残さず、火種だけを消す。
———
夕方、弥十郎の窯場では、また煙が上がっている。
マーが木箱に座って、煙を見ていた。弥十郎が窯の前から離れて、隣に座る。
「今日で終わりか」
「ああ」
「見に来て、良かったよ」
マーはそう言って、少し笑った。
二人は、それ以上何も話さない。ただ、煙が空へ上っていくのを見ていた。




