第72話 軍師の余生
【第一閑話】主馬の話——「軍師の余生」
元和三年(1617年)春
筆を置いたのは、庭で鵯が鳴いたからだった。
秋津主馬は文机の前で、しばらく指先の墨を見ていた。典之に頼まれた「軍学論」の増補は、もう三月も同じところで止まっている。書けないのではない。書くべきことが多すぎて、どこから手をつけるか決めかねているだけだ。
窓の外、学び舎の庭に若い者たちの声がする。典之が誰かに何かを教えている。声変わりしたばかりの、まだ甲高さの残る声だった。
主馬は硯の墨を磨りながら、ふと思う。
三十年以上仕えて、こうして一人で庭を眺める朝が来るとは、若い頃には考えもしなかった。
筆を持ち直し、白紙に一行目を書く。
「軍学とは、人を活かす術である」
それだけ書いて、また止まった。
どこから語ればいいのか。
目を閉じると、まず浮かぶのはあの男の顔だった。
———
天正元年、六条河原。
あの日、主馬は三十歳を目前にして、京の片隅で腐りかけていた。三好家が滅んで以来、仕える先を失い、隠棲という名の無為な日々を過ごしていた。策はいくらでも浮かぶ。だが誰も、その策を聞こうとしなかった。
隣に座っていたのが玄妙だった。
比叡山の焼き討ちを生き延びた元僧兵。寡黙で、多くを語らない男だった。二人でいる時、玄妙が口を開くことは滅多になかったが、主馬が策を語る時だけは黙って聞いていた。誰も聞かなかった策を、玄妙だけは聞いていた。
あの男が現れたのは、そんな時だった。
「南蛮船で海賊退治をしないか」
初対面でそう言われた時、主馬は正直、頭のおかしい若造だと思った。しかし目を見た瞬間、それが違うと分かった。この男は本気で言っている。そして——この男になら、俺の策が通じるかもしれない、と思った。
玄妙が先に立ち上がった。あの男が仕官を口にするより先に、玄妙の方が「仕えます」と言ったのを、今でも覚えている。主馬はそれを見て、少し遅れて頭を下げた。
三十年以上前の話だ。
あれから、殿——資晴様は主馬にとって「仕えるべき器」であり続けた。策を持っていく先を、初めて手に入れた。それがどれほどの安堵だったか、当時の主馬にはまだ分かっていなかった。
———
木津川口の戦いの夜を、主馬は今でも鮮明に思い出せる。
毛利水軍と対峙する南蛮船団の陣立てを、四段構えで組んだ。前衛の囮、中段の圧力、後段の包囲、そして最後段の追撃。地図を睨みながら、頭の中で敵の動きを何度も先回りした。策が的中し、毛利水軍が崩れていく様を見た時の感覚は、今も体の奥に残っている。
殿はあの時、ただ「主馬の策の通りに動く」とだけ言った。
それが、どれほど重い言葉だったか。
多くの主君は、軍師の策を聞いても最後には自分の判断で覆す。だが殿は違った。一度任せたら、最後まで任せた。だから主馬も、全力で応えるしかなかった。
———
天正十年、正月。
あの夜のことは、忘れようとしても忘れられない。
殿が主馬と典膳だけを呼び、酒と干し柿を用意して切り出した。
「今年、信長様が謀反で死ぬ」
沈黙の後、主馬は聞いた。「確信ですか」「確信だ」「誰がやりますか」「明智光秀だ」「丹波で共に戦った方ですな」——それで殿は、あの時も止めなかったのか、と気づいた瞬間の重さを、主馬は今でも覚えている。
殿は最初から知っていた。丹波で光秀殿と肩を並べて戦っていた時から、この人の未来を知っていた。それでも止めなかった。
「羽柴秀吉だ」という答えに、主馬は乾いた笑いを漏らした。「猿が、ですか。なるほど、道理で」
あの時、主馬は初めて理解した。この殿は、ただの武将ではない。何か途方もないものを背負って生きている。そしてその重さを、誰にも背負わせようとしない。
「殿は、止めないのですか」
「止めない」
「……なぜ」
「歴史を大きく変えたくない。それだけだ」
主馬はあの日から、自分の役目を少しだけ変えた。殿の策を追いかける軍師から、殿が背負うものをできる限り軽くする軍師へ。それが自分にできる、唯一のことだった。
———
関ヶ原の霧の中で、玄妙が生きていたことを、主馬はよく覚えている。
その年の暮れ、玄妙は朝稽古に現れなかった。直勝が家を訪ねると、穏やかな寝顔のまま、息を引き取っていた。五十四歳だった。
主馬は知らせを聞いた時、しばらく声が出なかった。
三十年近く、同じ主に仕え、同じ戦場に立ち、同じ夜を過ごした男だった。多くを語らない男だったが、主馬の策が通らなかった夜、玄妙だけが黙って隣に座っていてくれたことを、主馬は忘れていない。
あの男がいなければ、そもそも殿に出会うこともなかった。
葬儀の後、主馬は一人で稽古場に立った。玄妙が使っていた木刀を手に取り、しばらくそこに立っていた。誰かに見られていたら、みっともないと思っただろう。だが誰も見ていなかった。
殿は何も言わなかった。ただ、忠勇之碑の前で頭を下げる殿の背中を、主馬は少し離れた場所から見ていた。あの背中に、玄妙の分の重さも乗っているのだろうと思った。
———
慶長九年、資景様への引き継ぎを正式に宣言した日のことも、忘れられない。
「殿に仕えて三十年以上になります。悔いは一つもありません」
あの言葉に嘘はなかった。だが、あの言葉を口にした瞬間、初めて自分が老いたことを実感した。
資景様は、殿とは違う型の主だった。先々を見通す力はお持ちでない。人ならぬ業も使えぬ。それでも、人を見る目だけは殿に似ていた。主馬が資景様に仕え始めた頃、まだ十九だった若者は、少しずつ自分の判断で物事を決めるようになっていった。
益子の採掘権の交渉を、資景様が一人でまとめた時のことを主馬はよく覚えている。あれは殿のやり方ではなかった。殿なら、まず刀を見せてから交渉に入る。資景様は違った。数字と道理だけで、相手を納得させた。
「これは、殿のやり方ではありませんね」
主馬がそう言うと、資景様は少し困った顔をした。「父上のようにはできません」
「それでいい」と主馬は答えた。「殿のやり方をなぞる必要はありません。殿が遺したのは、やり方ではなく、人です。その人をどう使うかは、あなた次第です」
あの時、資景様が少しだけ表情を緩めたのを覚えている。
———
筆を持ち直した。庭の鵯はもう鳴きやんでいた。
主馬は「軍学とは、人を活かす術である」という一行の下に、もう一行書き足した。
「策を立てる者は、策よりも先に、人を見なければならない」
それから、しばらく筆を止めて考えた。
殿は今、海の向こうにいる。南蛮の彼方のどこかで、また別の戦の中にいるだろう。主馬にその戦の様子は分からない。届くのは短い文だけだ。
だが、それでいいと思う。
殿が那須を出た後も、那須は止まらなかった。資景様が当主として動き、典膳の孫の典之が実務を継ぎ、弥十郎は窯の前に座り続けている。誰か一人が欠けても、那須という場所そのものが止まらないように、殿は三十年以上かけて仕組んでいたのだ。
主馬はそれに気づくのに、随分と時間がかかった。
典之が廊下から顔を出した。
「先生、また写本を求める者が参りました」
「写本代は取るな。ただし那須に来て直接受け取れと伝えよ」
典之が少し驚いた顔をして、それから小さく頭を下げて下がっていった。
主馬は筆を置き、窓の外を見た。
弥十郎の窯の煙が、遠くに見える。満の弓の音が、風に乗って聞こえてくる。
これが、俺の余生か。
悪くない、と主馬は思った。
———
夜、主馬は文机の灯りの下で、書きかけの「軍学論」を読み返した。
玄妙のことも、殿のことも、資景様のことも、まだ書き切れていない。だが、それでいいと思った。書き切れないほどの人生を、自分は生きてきたということだ。
筆を置き、灯りを吹き消す前に、主馬はもう一行だけ書き足した。
「軍師の役目は、勝つことではない。仕える者が、次の代へ何かを渡せるようにすることだ」
それが、三十年以上かけて主馬がたどり着いた、たった一つの答えだった。




