第71話 那須は動いている
元和二年(1616年)冬
父上が海へ出た翌朝、私は初めて烏山城の大広間に一人で座った。
家臣たちは廊下に控えている。典之が報告書を手に待っている気配がする。日常の那須が、滞りなく動いている。それなのに、大広間がひどく広く感じた。
私が家督を継いだのは慶長九年(1604年)、十九の時だ。それから十二年が過ぎた。大坂の陣も終え、家康様も逝かれた。それでも父上がいる那須と、いない那須は、まるで別の場所のように思える。
「典之、入ってください」
朽木典之が帳簿を抱えて入ってくる。典膳の孫で、今は図書室の司書を兼ねている。祖父に似て、無駄に動かない。
「大洗の水揚げ報告と、那須疎水第三期の着工見通しが届いております」
「後で読みます。父上が出て行った朝、典膳殿はどうされていましたか」
少し間があった。
「……祖父は、いつも通り帳簿を開いておりました」
そうか、と私は思った。父上は「主馬を頼め」と言い残しただけだった。典膳殿は何も言わず帳簿を開いた。それが那須の流儀なのだと、今更ながら分かる気がする。
窓の外、庭に弓の的が一つ立っている。父上が大坂の陣の前に満に弓を教えていた的だ。満は十二歳だった。「祖父様の弓が一番と聞きました」と言い、父上の表情が少しだけゆるんだのを私は見た。
主馬殿は今頃、学び舎で何かを書いているだろう。弥十郎殿の窯からは、朝になれば煙が上がる。六之助殿はおそらくもう動いている。
父上が遺したものは、人だった。城でも石高でも大砲でもなかった。私が知らない間に、一人ずつ丁寧に置いていった。
帳簿を開いた。典之の字は典膳殿に似て、几帳面で小さい。
那須の冬は静かだ。遠くで弓を引く音がした。満の稽古が始まったのだろう。
「那須は変わっておるな」と家康様はおっしゃった。変わっておるな、でいい、と父上は言った。
私もそう思う。
———
昼を少し過ぎた頃、秋津主馬殿が訪ねてきた。六十を越えてもその背筋は真っ直ぐで、足音が静かだった。
「那須疎水の第三期について、大田原家の返済計画を整理したいと思います」
座る前に、主馬殿が窓の外の的を一度見た。
「満殿が引いておられますね」
「父上が教えていきました」
「……そうですか」
それだけ言って帳簿を広げる。感傷を引きずらない。それが主馬殿の流儀だった。
「主馬殿、父上がいなくなって、変わりましたか」
筆が止まった。
「静かになりました。父上は常に何かを考えておられました。私はそれを追いかけることが仕事でした。今は——私が考える番です。少し不慣れですが、悪くありません」
私は笑った。主馬殿が「悪くありません」と言う時は、実際には気に入っている時だ。父上に聞いたことがある。「主馬はああいう男だ」と。
窓の外で弦が鳴る。矢が的の中心に近い場所に当たった音だ。父上ならこの音を聞き分けたと思う。私にもそれは分かった。
那須の冬が、少しずつ深くなっていく。
———
夕方、私は窯の方へ歩いた。弥十郎殿は窯の前に座って、何かを見ていた。
「益子の土を今日初めて混ぜました」
「どうでしたか」
「まだ分かりません」
黒楽茶碗はすでに完成している。光悦殿への約束を果たした後、弥十郎殿はすぐに次の土を探し始めた。那須の仕事は終わらない。
私は少し離れた石の上に腰を下ろして、煙を見た。父上もこうしていたのだろうか。
「父上は何をしていましたか、ここで」
「見ておられました。それだけです」
弥十郎殿がちらりと私を見た。
「殿もそうされますか」
「そうします」
煙は真っ直ぐ冬の空へ上がっていく。それが何になるかは、明日の朝にならなければ分からない。
弥十郎殿が小さく息を吐いた。今夜の仕事はここまでだ。私は立ち上がって、城へ戻った。
———
夜、父上が出立の前に送り出した荷が大洗の湊から届いた。平戸のオランダ商館を経由してきたものだという。羊皮紙の一束と、布に包まれた細長い何かが入っていた。
「資景へ。ベネチアというところでガラスの工房を見た。日本には技法が届いていないはずだから、概要を写しておく。役に立てば使うがいい」
それだけだった。布を解くと、透明なガラスの破片が一本。光にかざすと内側に細かな気泡が見える。
羊皮紙には工房の見取り図、炉の構造、材料の名——マンガン、コバルト、錫。「クリスタッロ」という透明ガラスの精製手順が、図を交えて丁寧に書き込まれていた。工房の隅でこれを目に焼き付け、宿に戻ってから書き起こしたのだろう。
那須にガラスを吹ける職人はいない。私は典之を呼び、平戸への問い合わせを命じた。
———
翌年の初夏、平戸を通じてアムステルダムでガラス吹きを学んだという若い職人が一人、那須に来た。名をコルネリスといった。父上の図を見せると、目の色が変わった。
小さな炉を組ませ、何度も吹かせた。月を跨ぐ頃には透明な小瓶が出来上がるようになった。典之は武士でありながら暇を見つけては陶芸に手を出す質で、この機を面白がって工房に通うようになった。試しに那須染付の顔料を分けてもらい混ぜると淡い青のガラスに、金結晶釉の粉を混ぜると光の当たり方で金色に見える瓶になった。
これは献上品にできる、と思った。
秋、江戸へ上がった折、青のガラス瓶に那須の琥珀水を詰めて秀忠様への献上品に加えた。何度もお目にかかっている方だが、瓶をしばらく光にかざし、「南蛮の技か。珍しいものだ」とだけ仰った。多くを語らない方だ。
金色の瓶は烏山城の茶室に置いた。日が差す時刻になると、部屋の中に小さな光の粒が散る。満がそれを見つけて「きれいですね」と言った。それだけで十分だと思った。
父上への文には、そのことだけを書いた。
ガラスの職人が来ました。器が二つできました。一つは秀忠様へ、一つは那須に残しました。
短い文だ。父上が好むのは、こういう文だった。
———
那須は動いている。
父上がいなくなっても、那須は動いている。
それで十分だ、と私は思った。




