第70話 遥かなる仕掛け人
六月。ドレスデン郊外の平屋の寝室は、初夏の爽やかな風に満たされていた。
だが、ベッドに横たわる俺の視界は、すでにほとんど光を失っていた。
「……ヤン、そこにいるか」
「ああ、ここにいるよ、旦那」
ヤンの少し掠れた声が聞こえ、彼の大きな手が、俺の冷え切った左手をそっと握りしめた。
その日の朝、俺は自分の心臓の鼓動が、間もなく完全に停止することを知った。奇妙なほど恐怖はなかった。ただ、戦場を駆け抜けた長い、本当に長い旅がようやく終わるのだという、深い安堵感だけがあった。
異世界の荒野で刃を振るい、信長に仕え、プラハの硝煙を吸い、三十年戦争の泥沼を這いずり回って六十余年。誰も知らぬ異郷の、見知らぬ名で死ぬ。それでも悔いはなかった。悔いなど、あるはずもなかった。
「ヤン……頼みがある。長卓の引き出しに、二通の手紙と……俺の日記帳が入っている。それを取り出してくれ」
ヤンが木製の引き出しを開け、羊皮紙の束と、東洋の和紙で綴じられた一冊の厚い日記帳が、静かに俺の胸元へと置かれた。
「一通は、お前への手紙だ。俺が死んだ後、ハールセンと一緒に読んでくれ。お前たちと戦場を泥まみれで走った時間は……悪くなかった。俺の、最後の誇りだ」
「旦那……」
ヤンの声が震えている。硝煙と血の匂いの中で何年も共に生き延びてきた男が、今この部屋で、古い木の椅子に座ったまま、唇を噛んでいた。
「もう一通の手紙と、その日記帳は……ある男に託してほしい。長崎の出島、あるいは平戸のオランダ商館を通じて、俺の故郷である日本へ届けてもらう。ハールセンのルートを使えば、不可能な仕掛けじゃないはずだ。それと、残した金は代金として受け取ってくれ」
「誰に届ければいい?」
「メルヒオール・ファン・サントフォールト……。オランダ人の、ポルトガル商人だ。今は日本で『メル』と呼ばれている。彼なら、俺の正体を知っている。彼に託せば、必ず下野国の那須家……当主である那須資景の元へ届けてくれるはずだ」
俺は最期の力を振り絞り、ヤンの目をしっかりと見据えた。長年の戦場で鍛えた意志の芯が、命の火が消えかかるその瞬間にも、まだかろうじて燃えている。
「頼んだぞ、ヤン。これが、戦場を生きた男の……最後の『仕掛け』だ」
「……わかった。命に代えても、そのメルという男に届ける。約束するよ、旦那」
ヤンのその言葉を聞いた瞬間、俺の身体から完全に緊張の糸が切れた。
視界が白い光に包まれていく。異世界の青い空、ニュルンベルクの煤けた地下、プラハの硝煙、そして遠い故郷・那須の山々の緑が、走馬灯のように脳裏を駆け巡り――そして、俺の意識は永遠の静寂へと沈んでいった。
下野のつわもの、ここに生涯を終える。
―――
それから数年後の、日本。那須領は大洗湊。
秋の海風が潮の匂いを運ぶその湊に、一艘のオランダ船がゆっくりと舳先を向けた。碇が下ろされ、舷梯が渡されると、最初に岸へ降り立ったのは、白髪混じりの髭を蓄えた一人の老商人だった。彼の名はメルヒオール・ファン・サントフォールト。風雨に焼けた顔には長い年月の重さが刻まれていたが、その目だけは若い頃と変わらず、抜け目なく周囲を見渡している。
彼の懐には、ヨーロッパからはるばる届けられた一通の手紙と、和紙の日記帳が、大切にしまわれていた。
「……まさか、ヨーロッパからこんなものが届くとはな」
船上でその荷を受け取ったとき、メルは独りごちた。それは、ドレスデンの戦域で生涯を終えた、あの「東洋の兵」からの遺品だった。ヤンとハールセンが、文字通り地球を半周させてメルへと届けたのだ。
荷に添えられていたヤンの短い覚え書きには、こう記されていた。
『旦那は最後まで旦那だった。嘘をつかない男だった。頼む』
メルはその一文を三度読み返し、静かに紙を折り畳んだ。
1600年、リーフデ号が豊後の海岸に漂着し、ウィリアム・アダムスとともに九死に一生を得てからもう二十余年が経つ。その後、アラブ馬の輸入や那須の陶器の買い付けを通じて資晴とは長い付き合いになった。ヨーロッパへ渡る際の航路と伝手を整えたのも自分だ。そして1602年、横浜の浜辺で初めてあの男と言葉を交わしたあの日のことを、メルは今でも鮮明に覚えている。訳のわからぬことを口走る奇妙な日本の侍が、まっすぐな目でこう言ったのだ。「俺はヨーロッパへ行く。力を貸してくれ」と。
それが「東洋の兵」として数奇な生涯を送り、遠いヨーロッパの戦場でその命を終えようとは――。
「あの男、ボヘミア戦争のど真ん中で死んだか。最期まで戦場にいたんだな。……よし、約束を果たしに行こう」
メルは素早く荷物をまとめ、大洗湊で仕立てた馬に跨り、北西へと向かった。
目指すは、下野国。那須烏山城を治める那須家当主・那須資景の元だった。大洗からならば、さほど遠い道のりではない。
―――
那須烏山城の一室。
初秋の心地よい風が畳を揺らす中、那須家当主・那須資景は、目の前に差し出された和紙の日記帳と一通の書状を、信じられないものを見る目で見つめていた。
この場には、老いた商人メルと、資景の近習ひとりだけがいる。メルが深く頭を下げながら言った。
「遠い異国の地より、届け物にございます。……差し出がましいことながら、彼の者の最後の頼みでございました」
資景はしばらく動けなかった。机の上に置かれた日記帳の表紙を、指先でそっとなぞる。和紙の素朴な手触りが、妙に現実感を持って指に伝わってきた。書状の宛名に目を落とした瞬間、その手が小刻みに震え始めた。
「資景へ」
間違いなく、父・資晴の筆跡だった。
「……生きておられたか。遠い異国の地で、最期まで戦っておられたか」
かつて烏山の地で己を導き、その後、誰も知らぬ異郷へと消えた父の文字だ。資景は震える手で書状を開き、そこに連なる異国からの言葉を、一字一句噛み締めるように目で追った。
『那須資景へ。
息災でいるか。那須の家督をお前に託したまま、何も言わず遠い異国へと渡った父の不忠と身勝手、どうか許してくれ。
私は今、ヨーロッパと呼ばれる大地の、ザクセンという国でこの手紙を書いています。私の肉体は間もなく、老いと病、そしてこれまでの戦傷の蓄積によって限界を迎えるでしょう。お前に対し、父親らしいことを何一つしてやれぬまま、遠き異郷の土となる不甲斐なさを、平にご容赦いただきたい。
だが、私の心は常に、那須の美しい山々と、お前と共に駆け抜けたあの日々にあった。言葉も通じぬ異国の地で、最期まで戦場の仕掛け人として生き残ることができたのは、ひとえにお前という自慢の息子に恥じぬ「那須の武士」であり続けたいという誇りが、我が胸にあったからに他ならない。那須の家を繋いでくれたこと、心より感謝している』
資景は静かに手紙を置き、溢れそうになる涙を堪えながら、続いて厚い日記帳をめくった。
そこには、一人の武士であり、一人の父親であった男が歩んだ、あまりにも壮大で泥臭い「歴史の裏舞台」が克明に記録されていた。
頁の最初の方の記述は、丸みを帯びた確かな筆跡で、生き生きと記されている。
『1618年、イスタンブール。オスマン帝国の首都は、東西の富と陰謀が渦巻く巨大な坩堝だ。彼らの大砲の鋳造技術は甚だ凄まじいが、内情は腐敗しつつある。戦の匂いがする……資景、お前ならこの戦地をどう見るか』
『1619年、ベネチア。水の都の商人たちは、金貨の重さで世界の王を動かしている。ハールセンという不気味な商人と出会った。この男の冷徹な頭脳は、いずれ歴史の裏の戦場を動かすだろう……』
『1620年、ニュルンベルク、そしてプラハ。三十年戦争が始まった。これは単なる宗教の戦いではない。ハプスブルク家という巨大な権力と、それに抗う諸侯、あるいは商人の利権が絡み合った、終わりなき泥沼だ。白山の戦いで新教派は壊滅したが、戦火はこれからさらに拡大する。国家ではなく、傭兵軍閥が主役となる暗黒の戦場が来るだろう……』
資景は、頁をめくる手を止めることができなかった。
そこに記されたヨーロッパの「三十年戦争」の見解は、日本のいかなる儒学者も、長崎の蘭学者さえも持ち得ない、あまりにも生々しく冷徹な戦域の分析だった。
己を置いて遠い世界へと消えた父親が、地球の裏側でこれほどの修羅場を「生きがい」としてくぐり抜け、世界の行く末を最前線で見つめていたという事実に、資景の胸は激しく打たれた。
日記の後半に進むにつれ、筆跡は少しずつ細くなっていく。しかしその言葉は、老いゆく肉体と反比例するように、ますます鮮明な輝きを帯びていた。ドレスデンの戦域の記述、ヤンという相棒との日々、ハールセンとの冷徹な取引、そして戦場の片隅で老兵として磨いてきた戦術の記録。
どれもが、一人の武士が異国の戦場で生き抜いた証だった。
シワの寄った日記の最後の頁には、死を前にしてなお、かすかに震えるだけの力強い文字でこう結ばれていた。
『我が刀の術式は消え、戦場から俺の足は止まった。だが、我が魂は那須の風となり、烏山の空へ、お前の元へと還るだろう。那須の家の、そして資景、お前の健勝を遥か彼方の空より祈る。
初めからずっと、俺の生きがいはあの硝煙の中にあった。――下野のつわもの、ここに生涯を終える』
資景はゆっくりと日記帳を閉じ、天を仰いだ。
窓の外には、父が最期まで焦がれ続けた那須の山々が、夕日に赤々と染まりながら、当時と変わらぬ威容でそびえ立っている。風が縁側から吹き込んで、資景の着物の裾を揺らした。
しばらくの沈黙の後、資景は深く息を吐き出した。
「……見事な生涯であったな、父上」
資景の目から、堰を切ったように涙が頬を伝い落ちた。だが、その顔には深い誇りと、偉大な父親を称えるような、穏やかで引き締まった笑みが浮かんでいた。
傍らで静かに頭を垂れていたメルが、そっと顔を上げる。老商人の目にも、乾いた光がにじんでいた。
「遠い異国の地で、我が那須の武名をとどろかせ、戦場を生きがいとして駆け抜けて逝かれたか。不忠などと、誰が言うものか。貴方は、我が那須家が生んだ最高の『つわもの』であり、私の自慢の父親だ」
資景は父の日記帳を両手で受け取り、自らの胸元に、愛おしそうにそっと抱きしめた。
「ゆっくりと休むが良い。父上の還ってきた、この那須の地で……」
メルは無言のまま、もう一度深く頭を下げた。
商人として長年生きてきた彼には、こういう場面に何を言うべきかなど、わかるはずもなかった。ただ、このひとときが静かに満ちていくのを感じながら、彼は自分もこの遠い旅を最後まで全うできたことに、静かに安堵した。
―――
初秋の風が、烏山城内を優しく吹き抜けていく。
異世界を救い、戦国の乱世を駆け抜け、中世ヨーロッパの硝煙を最期まで愛し、泥まみれで泳ぎ切った元勇者の、長きにわたる旅路は――残された息子のぬくもりと、故郷の優しい風の中に、今度こそ完全に溶け込んで、静かに幕を閉じたのだった。
( 完)




