第69話 四月の薄光
ドレスデン近郊の戦線に、ようやく微かな春の兆しが訪れようとしていた。だが、俺の肉体を覆う冬だけは、どれほど季節が巡ろうとも解ける気配がなかった。
ガシャァン!!
深夜、敵陣への奇襲工作の合間に立ち寄った簡易陣地で、激しい金属音が響き渡った。俺の手から滑り落ちた折れた敵の剣――即席修理の素材として拾い上げたものだった――が、石畳の上を跳ねた音だった。
「……はぁ、はぁ、はぁっ……!」
俺は木柵に両手をつき、激しく肩を上下させていた。冷たい汗が額から滝のように流れ落ち、視界が白く明滅する。右腕全体の感覚が完全に麻痺し、まるで他人の腐った腕をぶら下げているかのような不気味な感覚だ。
(ここまで、か……)
敵の夜襲を察知し、防壁の罠を魔術(手品)で起動させた直後、心臓が壊れた時計のように不規則な強打を繰り返した。中世ヨーロッパの「魔法を許さぬ物理法則」が、俺の体内の魔力回路を完全に異物として認識し、内側から肉体を破壊し始めているのだ。それが、老いという防壁の決壊によって、一気に加速していた。
床に落ちた剣を拾い上げようと一歩足を踏み出した瞬間、膝の力が完全に抜けた。俺の身体は泥の中に無様に崩れ落ちた。意識の輪郭が、急速に闇へと溶けていく。
―――
「――旦那! しっかりしろ、旦那!」
激しい揺さぶりと焦燥の声で、俺はかろうじて意識の底から這い上がった。顔を真っ青にしたヤンが、俺の身体を抱き起こしている。隣には、いつになく動揺した表情のハールセンが立っていた。
「……無様だな。戦場で、昼寝かよ」
「笑い事じゃない! 呼吸が止まっていたんだぞ、旦那! ハールセン様、すぐに医者を――」
「医者は呼ばなくていい、ヤン」
俺は首を振った。
「この世界の医者が持ってくるのは、ヒルを使った吸血か、ろくでもない祈祷だけだ。それで俺の『ガタ』は治らない」
ハールセンが俺の前に屈み込んだ。その鋭い目は、俺の完全に萎縮した筋肉と、体内から滲み出る死の気配を冷徹に見定めていた。
「東洋の兵。貴公の『戦術と手品』がどれほど素晴らしくとも、その肉体がすでに限界を迎えていることだけは、私の帳簿を弾くまでもなく明らかだな」
「ああ、ハールセン。あんたの言う通りだ」
俺はヤンの支えを借りて、ようやく上体を起こした。
「四月十二日、オランダとスペインの十二年停戦協定が失効した。そしてまもなく、プロテスタント同盟も正式に解散する。戦争はこれから、国家の手を離れ、マンスフェルトのような飢えた傭兵軍閥が帝国全土を食い荒らす、本当の泥沼へ突入する」
ハールセンは静かに俺の言葉を聞いていた。
「これからの戦場には、もっと多くの仕掛けが必要だ。だが……俺の前線での外働きは、ここまでだ。これ以上戦場を走れば、次の仕掛けが弾ける前に、俺の心臓が砕ける」
俺ははっきりと告げた。
「引退させてくれ、ハールセン。俺はもう、あんたの兵隊にはなれない」
―――
長い沈黙の後、ハールセンが振り返った。その顔は、いつもの完璧な大商人の仮面に戻っていた。
「……いいだろう。不良品を前線へ送り出すほど、私の商会は慈善事業ではない。貴公がこれまでに残した戦果と、ラジヴィウ伯爵のディールで得た利益で、私の取り分は十分に満たされている。契約はここまでだ、鍛冶屋」
ハールセンはそう言うと、ずしりと重い金貨の袋を長卓に置いた。
「ザクセン国境近くの、静かな療養地を手配してある。そこへ行くがいい。ヤン、荷まとめの手伝いと、彼の護衛を任せる。これは『商会の業務』として命じる」
「了解しました、ハールセン様」
ハールセンはそれ以上言葉を交わすことなく、大股で去っていった。冷酷な男だ。だが、彼なりの方法で、俺の「生きがいだった戦場からの引き際」を汚さずに守ってくれたのだということは、俺にもよくわかっていた。
―――
数日後、俺はエルベ川の支流を見下ろす静かな平屋へと移り住んだ。
戦火の喧騒から強制的に切り離された日々は、驚くほど穏やかだった。身体のあちこちが悲鳴を上げていたはずなのに、最初の十日ほどは――まるで戦場の緊張から解放された反動なのか――ただひたすらに眠り続けた。目が覚めるたびに窓の外を見れば、エルベ川の支流がきらきらと光り、対岸の丘では羊の群れが草を食んでいる。戦場とは、まるで別の世界だった。
不思議なことに、ひと月が経つ頃には右腕の感覚も少しずつ戻り始めた。指先で陶器の縁をなぞれるくらいには動くようになった。完全ではないが、左手と合わせて使えば、飯を炊くことも、書き物をすることも、できないことはない。
ヤンは週に数回、商会の報告を兼ねて、美味い食材とジュネーヴの酒を持って訪ねてくれた。
ある昼下がり、俺は右腕を庇いながら左手一本で、かつて戦場で作ったサバイバル飯をヤンのために拵えた。干し肉と豆と根菜を一緒にじっくり煮込んだだけの質素なものだが、野営の竈でも作れるよう、素材の旨みを引き出す火加減だけには拘りがある。
「旦那、やっぱり美味いな。ドレスデンの宮廷料理人が作るどんな高級肉より、旦那の作るこの煮込みの方が、ずっと身体に染みる」
「当たり前だ。俺の飯には、死線をくぐり抜けた者だけがわかる『仕掛け』が入っているからな」
ヤンは苦笑いしながら薄いエールを口に運んだ。
「ところで旦那。少し顔色が良くなりましたね。先月より、ずっと」
「そうか」俺は煮込みを匙で掬いながら、さして感慨もなく答えた。「まあ、死にはしないってことだろう」
「旦那は……前から、ご自分が長く生きられないとわかっていたんですか」
ヤンがそう聞いてきたのは、珍しいことだった。普段は商会の細かい報告を並べ、俺が聞くか聞かないかの相槌を打てば、それで事足りる間柄だ。
俺は少し考えてから、口を開いた。
「まあな。この身体はもう五十年以上使った。元から、おつりが出るほど長持ちする造りじゃなかった」
「……旦那の身体の話、詳しくは知りませんが」ヤンは慎重に言葉を選ぶように続けた。「旦那が遠い国の出身だということは、ハールセン様から聞いています。随分と遠い国から来たものだと」
「ああ。随分と遠い」
随分と遠い、どころの話ではないのだが、説明のしようもない。
「那須、という」
「ナスー?」
「下野の国、那須。今の俺には縁のない土地の話だがな」
ヤンはきょとんとした顔で「下野……?」と繰り返した。もちろん伝わるはずもない。
「那須では、陶器が名産でな」俺は続けた。「小砂という山あいの焼き物の産地が、領内にあった。素朴で、飾り気のない器だ。赤みがかった土の色と、素直な釉薬の発色がいい。ドレスデンで見るような、細かい金の縁取りが入った磁器とは、まるで正反対の代物だ」
「コイサゴ……」ヤンが繰り返した。発音が難しいのか、少し首を傾けた。「どのような器ですか」
「使い込むほどに味が出る。飯を盛っても、酒を注いでも、器が食い物の邪魔をしない。料理がうまく見えるというより、料理が落ち着く、という感じだな」
俺は手元のブリキの椀を一度眺めてから、卓に置いた。
「この椀は丈夫で軽くていいが、小砂の器で飲む酒は、また別の味がした」
「旦那の故郷の酒というのは、どんなものですか」ヤンが少し前のめりになった。「ジュネーヴとは違いますか」
「まるで違う」俺はエールを一口飲んでから答えた。「麦を発酵させて、蒸留して、樽で寝かせる。やり方はこの辺りの連中も大まかには知っているが、那須でやったのとは少し違う」
「どこが違うんですか」
「釜だ」俺は言った。「お前たちオランダの船が持ち込んだ蒸留釜を解体して、それをもとに職人に作り直させた。形や大きさを変えて、火の通り方を調整して、何度も試した。――まあ、最初の数回は飲めたものじゃなかったがな」
ヤンが苦笑した。
「それで、うまくいったんですか」
「ある程度はな。肝心なのは樽だ。那須の山にはミズナラという木がある。硬くて、密度が高い。その木で桶師に樽を作らせて、蒸留した酒をそこで寝かせる。一年、二年と置いておくと、琥珀色になって香りが変わる」
「琥珀色……」ヤンは少し考えてから、目を細めた。「それは、スコットランドの連中が飲む酒に似ていますか」
「似ているが、違う」俺は答えた。「ミズナラの木の香りが出る。甘みというか、独特の落ち着いた香りだ。この辺りの蒸留酒にはない風味だな。那須の水も良かった。那須岳から流れてくる冷たい湧き水だ。あの水じゃないと出ない味があった」
「……旦那は、その酒をここで飲みたいですか」
俺は少し考えてから、首を振った。
「まあ、ここにはないからな。お前が商会の伝手で取り寄せようとしても、おそらく無理だ。那須まで届くような流通はない。それに、あの酒は那須の空気と、あの器で飲むから味がするんだろう。ここで飲んでも、同じにはならないかもしれん」
「……いつか、旦那の故郷の酒と陶器を見てみたいものです」ヤンは本気とも冗談ともつかない口調で言った。
「そうだな」
俺は曖昧に笑った。その「いつか」が来ることはないだろうが、それでいい。
俺たちは薄いエールを酌み交わし、他愛のない世間話を続けた。ヤンが商会の近況を語り、俺が相槌を打つ。窓の外では、支流の水音が静かに流れていた。
だが、一人でベッドに横たわる夜になると、俺の視線はいつも部屋の隅に置かれた一本の刀へと向いていた。戦国の世で打たれた業物ではない。この時代のヨーロッパで手に入れた、素っ気ない鉄の剣だ。それでも俺には、この重さが妙に馴染んでいる。
引退した。それは事実だ。だが死んだわけではない。
遠くの街道から、軍隊の行軍の微かな足音が聞こえてくる。俺はそれを、今はただ耳で聞くだけだ。手を伸ばすことなく、ただ聞く。
(……まあ、もう少しだけ、生きてみるか)
静かに目を閉じた。
―――
1621年、4月




