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『那須資晴、二度目の転生』  作者: 山田村
第一章 那須資晴

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第68話 残火の戦野





 二月。ザクセン選帝侯領の息がかかった帝国北部の前線は、エルベ川から吹き付ける凍てつく風と、解けかけた雪がもたらす底なしの泥濘ぬかるみに支配されていた。


 プラハの大陥落から数ヶ月。歴史の濁流を泳ぎ切った俺たちは、ドレスデンを本拠地としつつも、結局は硝煙と血臭の漂う「戦場の最前線」に舞い戻っていた。


「……ふぅーっ」


 凍える手で荷馬車の縁を掴み、俺は大きく息を吐き出した。

 右肩から背中にかけて、冷えた鉛の塊を埋め込まれたような鈍い痛みが居座っている。プラハの十字路で脱走兵を退けた際の小傷はとうに塞がっていたが、皮膚の奥の筋肉が、伸縮性を失った古い革紐のように強張ったままだ。


 ヤンから貰った山生姜の軟膏を塗り込んでみても、効果は数時間しか持たない。以前なら、こんなものは必要なかった。


 異世界で勇者をやっていた頃の俺の肉体は、剣で斬られた傷が翌朝には塞がり、魔物の毒を喰らっても一晩眠れば毒素が散じた。疲弊した後でも、丹田に意識を集めて呼吸をひとつ整えるだけで、全身の魔力が泉のように湧き直した。


あの頃の体は、世界そのものに愛されていた。


 だが今は違う。


 この中世ヨーロッパの重力は、俺を愛していない。


 異世界の女神イネスに与えられた力は、世界を渡るたびに少しずつ——まるで砂時計の砂が零れるように——失われていった。

戦国の世で二十年近く戦い続け、そこからさらにこの帝国の戦場へと流れ着いた今、俺の肉体の中に残った魔力の残滓は、かつての十分の一にも満たない。若い頃なら一晩で回復した傷が、今は一週間経っても芯の部分に熱を持ち続ける。


朝、荷馬車から降りようとして腰が軋み、剣の柄を握る右手が、かつてほど確かに力を伝えない。


 見た目だけはまだ三十代の男の顔をしているのが、却って滑稽だった。


 鏡があれば、そこには若い男が映る。だが骨は知っている。筋肉は覚えている。俺が六十二年分の時間をかけて積み上げた疲労を。


「歳のせい、か。それとも、世界に拒絶されているのかね……」


 自嘲気味に呟いてから、俺はその言葉を自分でひとつ訂正した。

(拒絶、ではないだろう。ただ——返却を求められている、だけだ)


 異世界から借りてきた力を、少しずつ返しながら生きている。それだけのことだ。人間が老いるのと、さして変わらない。


―――


俺は馬車の荷台に据え付けた簡易式の野戦炉に火を入れた。今日中に仕上げなければならない仕事は、工房に籠もっての優雅な刀剣作りではない。ハールセンがザクセン軍の最前線部隊から請け負った、「包囲された陣地内での不発火縄銃の即席改修と、防衛線の戦術指南(外働き)」である。


 ハールセンは、俺の持つ異世界の戦術眼と、鉄の性質を一瞬で見抜く力を「東洋の戦域請負人」として将軍たちに法外な価格で売り込んでいた。俺にとっても、ぬくぬくと工房に籠もるより、死線が間近に迫るこの泥臭い戦場に身を置く方が、よほど生きている実感が湧く。異世界での初陣から数えれば、もうどれほどの年月が経ったか。それでも、戦場への飢えは一向に消えていなかった。


 凍てつく風が、馬車の幌をばたばたと煽る。野戦炉の炎だけが、ぼんやりとした橙色の光を泥濘の中に投げ続けていた。



―――



「東洋の旦那、敵の斥候が小川の向こうまで迫っている。……相変わらず、無茶なところで火を使いますね」


 泥まみれの道中着を羽織ったヤン・デ・フリースが、音もなく物陰から滑り込んできた。その手には、引き絞られたホイールロック式の短銃が握られている。肩まで伸びた亜麻色の髪に泥が跳ねているが、鋭い灰色の目は笑っていた。策士の目だ、と俺はいつも思う。


「ヤンか。火を消せば鉄が死ぬ。それより、あそこの防塁に据え付けられた大砲の傾きを見たか? あれじゃあ次の斉射で砲身が破裂して、味方が吹き飛ぶぞ」


 俺は痛む右腕を庇いながら、片手で重い鍛錬槌を握り直した。右肩の奥で「ピキリ」と、ガラスがひび割れるような鋭い痛みが走る。


「旦那、顔色が悪い。やっぱり右肩が鳴っているんじゃないか?」


「問題ない。……ヤン、あの大砲の固定器具をこっちに持ってこい。術式(手品)で強度を均一にする」


「嘘が下手ですね」


 ヤンは肩を竦め、短銃を懐に収めた。それから、この男には珍しい、少しだけ真剣な顔をした。


「まあ、戦場がここが旦那の居場所だってのは分かってますが……ハールセン様がもうすぐ来る。あの人は、戦果の「納期」に関しては悪魔よりも容赦がない」


 俺は無理やり右腕を振り上げ、持ってこられた大砲の鉄製固定具へと槌を叩きつけた。


 ――カァン!!


 高い金属音が泥濘の戦場に響き渡る。それと同時に、俺は心臓の奥から細い魔力を絞り出し、槌の軌道を通じて鉄の中へと流し込んだ。


(――「構造均一レベリング」)


 一撃叩くだけで、視界の端がぐらりと揺れた。脳の裏側を熱い針で刺されるような頭痛。肉体が衰えたことで、魔力を生成する効率が劇的に落ち、ただの即席修理でさえ、命の蝋燭を根元から削り取るような負担になっていた。


 だが、俺の「仕掛け」によって補強された大砲は、カトリック軍の猛攻を完璧に防ぎきるだろう。前線で鉄を叩き、戦術を授ける。それこそが、俺がこれまで生きがいとしてきた戦場での生き方だった。


「……実に見事な野戦仕事だ。これなら、ザクセンの将軍どもも納得して追加の報酬マージンを支払うだろうな」


 いつの間にか荷馬車の影に佇んでいたハールセンが、冷たい拍手を送ってきた。



―――



 ハールセンは、手袋をはめた指で補強されたばかりの鉄具に触れ、愛おしそうに目を細めた。

 毛皮の縁取りが施された上等な外套。端整な面立ちには常に薄い笑みが貼り付いており、その黒い瞳は、人間ではなく「商品」を見る目だった。俺は、この男の視線の質を、異世界の傭兵市場で遭遇した奴隷商人のそれに重ねることがある。


「素晴らしい、東洋のつわもの。貴公を「野戦コンサルタント」として前線に派遣するビジネスは、ドレスデンでも最高の利回りをもたらしてくれている。ニュルンベルクでの投資は、完全に回収できそうだ」


「そいつは良かった。だがハールセン、情勢は市場の噂以上に緊迫しているな」


 俺は金床に寄りかかり、荒い息を隠しながら薄いエールを喉に流し込んだ。指先の震えがどうしても止まらない。


「噂ではない、現実だよ」


 ハールセンは懐からあの黒い革張りの帳面を取り出した。分厚い帳面は、この男の「戦場」がどこにあるかを雄弁に示している。地図でも剣でもなく、数字と取引の記録だ。


「一月二十二日、皇帝フェルディナント二世は、プラハから逃亡した『冬王』フリードリヒ五世に対し、正式に帝国追放処分を下した。新教派貴族の領地はすべて法的に没収され、カトリック貴族へ二束三文で再配分される。恐怖が市場を支配しているのだ。だからこそ、我がハールセン商会が前線に送り込む「絶対に防衛線を崩さない男(貴公)」は、彼らにとって神の救いに見えるのさ」


 ハールセンは帳面を閉じ、冷たい目を俺に向けた。


「二月中に、あと三箇所の前線陣地の防衛補強と、即席の武具修理を請け負ってほしい。ニュルンベルクの残存諸侯が、言い値で我々を雇うと言ってきている」


「……三箇所の、前線か」


 今の俺の肉体でそれをこなせば、次はない。それは直感的に理解できた。

 だが、戦場を追われれば、俺の魂はただの抜け殻になる。工房の炉の前で、誰かの依頼を待ち続ける老いた鍛冶師。その姿を想像するだけで、全身の血が引く気がした。


「……今の自分に残された時間と体力を、どこで使い切るか」


 薄いエールを飲み干し、俺は静かに立ち上がった。


「約束通り、前線まで行ってやるさ。俺の『手品』が必要な戦場へな」



―――



 ハールセンが去った後、ヤンが静かに俺の前に歩み寄った。


 風が止み、前線の轟音が遠くなる。野戦炉の炎が揺れ、俺たちの影を泥濘の地面に引き伸ばした。


「……旦那、本当にやるんですか。あの人の注文通りに前線を駆け回っていたら、来年の春を迎える前に、旦那の骨がどこかの塹壕に埋まることになりますよ」


「ほっとけ。戦場を失ったら、俺はただの死人だ」


 俺は無理に笑ってみせたが、右肩の強張りは激しさを増し、右手の握力は通常の半分ほどに落ちていた。

 ヤンは、一瞬だけ何か言いかけて、口を閉じた。この男は策士だ。無駄なことは言わない。


「……分かりました。では、俺も一緒に行きます。旦那の骨が塹壕に埋まる前に、ちゃんと棺桶に入れてやらなきゃならない」


「縁起でもないことを言うな」


「縁起の話なんてしてませんよ。ただの仕事の話です」


 ヤンは短く笑って、引き続き短銃の手入れを始めた。

 俺はその横で、補強したばかりの鉄製固定具を眺めた。一撃のために削り取った命の蝋燭の分量を、心の中でざっと計算する。


(三箇所。おそらく、右肩は一箇所目で終わる。二箇所目からは左手で槌を振るか、別の手を考えなければならない)


 だが、それで前線が持てるなら、構わない。

 俺は「死ぬために戦場に立つ」のではなく、「生きているうちに、できることをやり切るために戦場に立つ」のだと、異世界での初陣の頃から変わらず信じていた。



―――



 夜になると、前線の砲声は一時止んだ。雪交じりの風だけが、塹壕と防塁の間を吹き抜けていく。


 俺は荷馬車の傍に簡易の寝台を引き出し、毛皮を被って横になった。右肩は熱を持ち、ヤンの山生姜軟膏を厚く塗り込んでようやく、刺すような痛みが鈍痛に変わった。


 天幕の上方、破れた幌の隙間から、分厚い雲の間に星が一つ見えた。

 異世界で勇者だった頃に見上げた星空は、もっと遠く、もっと澄んでいた。魔王を倒した夜、ルシアが俺の隣に立って、「あの星に名前をつけましょう」と笑っていた。

 あの笑顔は今でも鮮明に思い出せる。だが、その場所には二度と帰れない。


(それでいい。俺は今、ここにいる)


 転生を繰り返し、世界を渡り歩き、気がつけば六十二歳になっていた。外見はまだ三十代の面をしているが、骨の軋みと心の疲れは、確かな年輪を刻んでいる。それでも、戦場が近いと心の底が静かに熱くなる。この感覚だけは、どの世界に移ろうとも変わったことがない。


 ヤンが見張りに立つ気配がした。

 俺は目を閉じ、右肩の熱を数えながら、明日の三箇所を頭の中で描き始めた。



―――



 1621年。三十年戦争という名の巨大な怪物が帝国全土を飲み込もうとする中、俺は崩れゆく肉体を戦場への執着だけで繋ぎ止め、再び泥だらけの前線へと足を向けた。


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