第67話 硝煙と軟膏、モルダウの夜に
白山の戦い――硝煙と奇術の救出劇
十一月八日。冬の到来を告げる凍てつくような霧が、プラハ西方のなだらかな丘陵地「白山」を包み込んでいた。
正午過ぎ、その静寂は数千発の火縄銃の轟音と、地響きを立てる騎兵の突撃音によって完全に打ち砕かれた。旧教派の猛将ティリー伯率いるカトリック連盟軍・皇帝軍の連合軍が、ボヘミア新教派の防衛線へ総攻撃を開始したのだ。
戦況の決着は、呆気ないほどに早かった。
数か月も給与を未払いにされてきた新教派の傭兵たちは、カトリック軍の圧倒的な鉄騎兵の突撃を受けると、わずか二時間足らずで戦線を放棄し、総崩れとなってプラハ城内へと逃げ込んできた。
「開門しろ! 敵が来るぞ!」「退却だ、神は我らを見捨てられた!」
プラハ市街は、一瞬にしてこの世の地獄へと変貌した。敗残兵、難民、そして我先にと逃げ惑う貴族の馬車が狭い石畳の路地に溢れ返り、城外からは旧教軍の勝利の咆哮と、略奪を告げる鬨の声が迫りつつあった。
動乱の邸宅
ラジヴィウ伯爵の屋敷もまた、狂乱の渦中にあった。
すでに大半の従者は財産を盗んで逃げ出し、広大な屋敷には伯爵、エレオノーラ夫人、そして幼いフェルディナンドの三人だけが、固く抱き合って震えていた。
「ここまでだ、ハールセン。もう終わりだ……! 城門は敗残兵で塞がれ、外にはカトリックの悪魔どもが迫っている!」
絶望する伯爵の前に、旅マントを翻したハールセンが冷然と立ちはだかった。その手には、しっかりと逃走ルートを記した帳面が握られている。
「言ったはずです、伯爵。この混乱の瞬間こそが、唯一の脱出の好機だと」
ハールセンが合図を送る。屋敷の裏手から、荷台にカモフラージュの泥を塗りたくった馬車を御して現れたのはヤンだった。
「北の水門までのルート、まだ生きています。ですが、略奪に目の色を変えた敗残兵の群れがすぐそこまで来ている。急ぎましょう」
「俺が先頭に立つ」
俺は日本刀の柄に手をかけ、マントの紐を固く結び直した。
右肩の奥がずきりと痛む。数日前の悪路の疲労がまだ残っていた。だが、腹を括る時間だ。全能の勇者でなかろうと、この程度の修羅場をくぐり抜ける技術は、嫌というほど身体に染みついている。長く生きすぎたこの身体には、傷の記憶だけが増えていく。
「行くぞ。全員、俺の背中から絶対に離れるな」
鉄と硝煙の「手品」
馬車を捨て、徒歩で入り組んだ路地を進む。目指すはモルダウ川に面した隠し水門だ。
だが、水門まであと数百メートルという十字路で、最悪の障害にぶつかった。
「おい、見ろよ。上等な服を着た貴族様だ!」
「懐に金目のものを持っていやがるぞ!」
行く手を塞いだのは、武器を血で濡らした六人のボヘミア軍の脱走兵たちだった。規律を失い、完全に狂暴化したハイエナの群れだ。彼らは伯爵一家を見るや否や、ギラついた目で剣を抜いた。
「下がれ!」
俺は伯爵たちを背後に庇い、一歩前に出た。
脱走兵のリーダー格が、俺の奇妙な東洋の刀を見てせせら笑う。
「何だその細いなまくら刀は? 突き殺せ!」
三人の男が同時に突っ込んでくる。
俺は左手でマントの裏地を大きく翻した。
(――「気配遮断」、および「光重合」)
ニュルンベルクの地下工房で仕込んだ、牛革マントの魔術回路が炸裂する。
脱走兵たちの目には、俺の姿が突然「夜の闇」のように不自然にブレたかと思うと、次の瞬間、マントの繊維に蓄積されていた魔力が、凄絶な白色の閃光となって弾けた。
「うわあああ!? 目が、目がッ!」
中世の人間にとって、経験したことのない超高光度のフラッシュ。網膜を焼かれた男たちが絶叫し、盲目状態で剣を振り回す。
「ハールセンが言ったろう。東洋の『手品』だ。硝石と特殊な燐を用いた、ただの目潰しさ」
冷徹にブラフを吐き捨てながら、俺はすでに踏み込んでいた。
抜刀。かちりと音が響いた瞬間、日本刀の刀身は、目に見えぬ超高速の微振動を始めていた。
(――「構造弱化(超振動)」)
キィィィンという鼓膜を刺すような高音が闇に響く。
盲目で迫る脱走兵の鉄剣に対し、俺は日本刀をただ「置いておく」ように受け流した。それだけで、超振動を帯びた刃は、男たちの頑丈なドイツ製の直剣を、まるで腐った木切れのように音もなく両断した。
「な、なんだと……!? 俺の剣が……!」
武器を失い、恐怖に凍りつく男たちの首筋へ、俺はすれ違いざまに右手の指先を突き立てた。手袋の先に仕込んだ「細針」――いや、極小の「麻痺」の術式だ。
ドサリ、ドサリと、三人の男が声を出す暇もなく石畳に崩れ落ちる。
残った三人の脱走兵は、仲間が「触れられただけで呪い殺された」ように見えた恐怖に耐えかね、悲鳴を上げて武器を放り出し、脱兎のごとく逃げ去っていった。
「……息があるうちに急ぐぞ。手品の効果は長く持たない」
俺は刀を鋭く振り、目に見えぬ血を払って鞘に収めた。
背後で一部始終を見ていたラジヴィウ伯爵は、もはや恐怖を通り越し、神の奇跡を目撃したかのように呆然と十字を切っていた。
「これが……東洋の、奇術だというのか……?」
「ええ、極め抜かれた物理の仕掛けですよ」
ハールセンが何食わぬ顔で、伯爵の背中を強く押した。
「感心している暇はありません。ヤン、水門は!」
「開いてます! 舟も用意した、急げ!」
脱出、そして冷たい川へ
崩れかけた石造りの隠し水門から、濁流のモルダウ川へと滑り出す。
ヤンが手配していた小さな木舟に、伯爵一家とハールセン、そして俺が飛び乗った。ヤンが手際よく竿を操り、舟はプラハの城壁から音もなく離れていく。
振り返れば、夕闇に包まれ始めたプラハの街頭から、無数の火の手が上がっていた。カトリック軍の入城が始まったのだ。かつて栄華を誇った新教派の首都は、今や完全に陥落し、歴史の濁流に飲み込まれようとしていた。
「……助かった。本当に、生き延びられたのだな」
舟の底で、伯爵がエレオノーラ夫人と息子を抱きしめ、声を詰まらせて涙を流していた。ハールセンはその様子を、満足げに帳面へ何かを書き込みながら、冷たい目で見つめている。
「これで我が商館と、ラジヴィウ家の『契約』は履行された。これからのザクセンへの亡命生活、我がハールセン商会が全力でサポートしましょう。……もちろん、相応の利息はいただきますがね」
「ああ……いくらでも払おう。命に比べれば、金貨などただの泥だ」
商人と貴族の闇の取引が、冷たい川の上で成立していく。
俺は舟の縁に腰掛け、どっと押し寄せてきた疲労感に身を任せていた。
右肩を回すと、ミシミシと嫌な音が鳴る。魔術の反動と、老いた肉体への負荷。かつて世界を救った勇者としての全能感は、もうここにはない。あるのは、ただ一人の商人のために、泥をすすりながら搦め手を仕掛け、泥臭く生き残ったという、奇妙な充実感だけだった。
「旦那、お疲れ様」
ヤンが竿を動かしながら、懐から例のジュネーヴの蒸留酒の皮袋を放り投げてきた。
「……一杯やるか?」
「ありがたくいただく。だが、次からはもう少しマシなルートを頼むぞ、ヤン」
「善処します。ですが、旦那の『手品』のおかげで、最高の特等席から歴史の転換点が見られましたよ」
ヤンはそう言って、燃え盛るプラハの街を見つめ、静かに口元を緩めた。
皮袋に口をつけ、酒を含む。ジュネーヴの蒸留酒は、焚き火もなくともじわりと胸の奥を温めた。
硝煙の去った河畔、冷たい風と温かい鍋
プラハを脱出してから数時間。モルダウ川を下る小舟は、狂乱の首都から十分に離れた寂寥とした河畔の茂みに、音もなく滑り込んでいた。
夜の帳が完全に下り、周囲を包むのは冷たい川のせせらぎと、冬を予感させる木々のざわめきだけだ。遠く南の空がかすかに赤く染まっているのは、未だに燃え続けるプラハの残光だろう。ラジヴィウ伯爵一家は、ヤンが用意した即席の天幕の中で、泥のように眠りについていた。極限の緊張から解放され、体力が底を突いたのだ。
少し離れた岩陰で、俺は小さな焚き火を囲んでいた。もちろん、光が外に漏れないよう、熱量を内側に閉じ込める補助魔術を薄く展開している。
「……さて、生き延びた男たちの夜食といこうか」
俺は旅嚢から、ニュルンベルクを発つ前にハールセンのルートで仕込んでおいた乾燥豆、塩漬けの豚肉の残り、そして道中の廃村で摘んだ野生のセージを取り出した。鉄鍋に川の水を満たし、細かく刻んだ具材を放り込む。
火加減は魔力でじわじわと調整する。異世界でエルフの薬師から教わった「素材の旨味を壊さずに芯まで熱を通す」微小熱量制御だ。ただの塩辛い豚肉の脂がスープに溶け出し、乾燥豆がふっくらと膨らんでいく。やがて、ハーブの清涼な香りと肉の芳醇な匂いが、凍てつく夜気の中に立ち上った。
「ふむ……死線を越えた後にこの匂いは、いささか贅沢が過ぎるな」
足音もなく現れたハールセンが、いつもの黒い上着の汚れを払いながら、焚き火の傍らの丸太に腰を下ろした。その手には、どんな極限状態でも手放さない、あの黒い革張りの帳面と羽根ペンが握られている。目の下には薄く隈が浮いていたが、眼光だけは相変わらず鋭く、この男が休んでいるのか考えているのか、いつになっても判然としない。
「美味い飯を食わなきゃ、次の冷徹な計算も狂う。そうだろ、ハールセン」
「全くだ」
もう一人の影――ヤン・デ・フリースが、闇から染み出すように現れ、俺の隣にどさりと座った。彼の道中着からは、まだ微かにプラハで浴びた硝煙の臭いがしている。川辺の冷気に晒されても揮発しきらない、戦場の残り香だ。
「旦那、俺の分は多めにお願いします。今日は一日中、竿を振って腕が棒のようだ」
「わかっている」
俺は木椀にたっぷりと温かいスープを注ぎ、二人に差し出した。ハールセンはスプーンを口に運び、細められた目元に満足げな色が浮かぶ。ヤンは椀を両手で包み込み、熱いスープを吸い込むように啜った。
「生き返る……。旦那、このスープなら金貨三枚は取れますよ」
「原価を考えろ、ヤン。金貨三枚なら暴利だ」
ハールセンがスープを味わいながら、帳面を開いた。カチリ、と羽根ペンのキャップを外す音が、静かな夜に小さく響く。
「さて、温かい食事で脳が回り始めたところで、ボヘミア編の『決算』を始めよう」
暗闇の算盤
ハールセンは羽根ペンの先を火光に濡らし、帳面へ冷徹な数字を刻み始めた。
「今回のプラハ脱出劇において、ラジヴィウ伯爵から毟り取った……いや、正当に請求した対価は、ザクセンの銀行に預託されている彼の隠し資産の四割だ」
ヤンがスープの豆を噛み砕きながら、片目を細めた。
「大収穫ですね。カトリック軍がプラハ城内を略奪して回っている間に、俺たちはその懐からこれだけの富を引き抜いたわけだ。で、俺たちの取り分は?」
「契約通りだ、ヤン」
ハールセンが冷たい視線を向ける。
「オランダ商会への情報提供料、および今回の舟の手配、先行斥候の報酬として、全体の十五パーセント――金貨千二百枚を貴公の口座に振り込む。不満はあるかね?」
「まさか。命を賭けた価値は十分にありましたよ」
ヤンは満足げに木椀を置いた。
「これで商会での俺の立場も少しは補強される。……で、東洋の旦那は?」
ハールセンが俺を見た。その目は、単なる用心棒への報酬を査定するものではなかった。どこか品定めをするような、値踏みとも敬意とも取れる複雑な光が宿っている。
「貴公の『奇術』がなければ、我々はあの城門か、あるいは十字路の脱走兵どもに絡まれた時点で終わっていた。よって貴公には、全体の二十五パーセント――金貨二千枚を支払う。さらに、ニュルンベルクの地下工房の維持費、および今後の旅費はすべて私が持つ。どうだ、鍛冶屋?」
「異議はない。十分すぎる額だ」
俺はスープを啜りながら頷いた。金貨二千枚。この中世ヨーロッパにおいて、一介の職人や傭兵が一生かかっても拝めない大金だ。これだけあれば、さらに強力な魔術触媒や、上質な鋼をいくらでも買い付けることができる。
「よし、取り分の話はここまでだ」
ハールセンはページをめくり、ザクセンから先の白紙の地図を二人に向けて広げた。
「問題は『これからの戦術』だ。白山の戦いでボヘミアの新教派は完全に壊滅した。だが、これでこの戦が終わると思うかね、ヤン?」
「終わりませんね」
ヤンは断言した。
「バイエルン公と皇帝軍は勝ち誇っていますが、デンマークやスウェーデンといった北方の新教国が、ハプスブルク家の肥大化を黙って見ているはずがない。来年には、戦火はさらに北へ――我々が向かうザクセンや帝国北部へと拡大するでしょう」
「その通りだ」
ハールセンの口元が、不気味にゆがんだ。焚き火の炎が一瞬揺れ、男の影が岩壁に大きく踊る。
「戦が続く。それはつまり、軍需物資の需要が爆発的に跳ね上がるということだ。伯爵から得た資金を元手に、我々はザクセンで『新たな立ち回り』を始める。ただの武器商人ではない。貴公の『技術(手品)』を組み込んだ、これまでにない高付加価値の軍需品――例えば、絶対に錆びない銃身、あるいは音の出ない行軍用ブーツなどを、各国の宮廷へ売り込む」
ハールセンは俺の日本刀を指差した。
「貴公の『仕掛け』を商品化するのさ。どうだ、鍛冶屋?」
「……俺の技術は大量生産には向かない。だが、特定の将校向けの『特注品』なら、いくらでも仕込んでやるさ」
俺は静かに答えた。魔法を「奇術」として偽装し、戦争の裏で大商人の利権を拡大させる。元勇者としての倫理観が少しだけ痛んだが、この泥臭い世界で生き残り、自らの肉体の衰えを補うためには、ハールセンのこの冷徹な経済の力が最も頼りになるのも事実だった。
どれほど長く生きようとも、割り切れないものは割り切れない。だが、割り切れないまま動き続けることは、長い戦場の中で骨の髄まで覚えた。
静寂の契約
「決まりだな。次の目的地はザクセン選帝侯領の首都ドレスデンだ。そこを新たな拠点とする」
ハールセンは帳面をパタンと閉じ、立ち上がった。
「私は一足先に天幕へ戻る。明朝は早い。二人とも、火の始末を忘れるなよ」
大商人は音もなく闇の向こうへと去っていった。焚き火の傍らには、俺とヤンの二人だけが残された。
俺は残ったスープを飲み干し、ふぅ、と長い息を吐き出した。その時、右肩の奥が再び小さく疼いた。俺が無意識に右肩を回し、顔をしかめたのを、ヤンは見逃さなかった。
「……旦那」
ヤンが静かな声で言った。その目は、いつもの軽薄なエージェントのものではなく、戦場を生き抜いてきたプロの鋭さを帯びていた。
「プラハの十字路で、マントを翻したとき……右の踏み込みが、わずかに遅れていましたね。いつもの旦那なら、脱走兵が剣を構える前に間合いを潰していたはずだ」
俺は手を止め、ヤンを見返した。
「……ただの、歳のせいさ。悪路の行軍が長引いたからな」
「そうでしょうか」
ヤンは懐から、小さな油紙に包まれた何かを取り出し、俺の膝の上に置いた。
「アルプスの麓の修道院で手に入れた、山生姜の軟膏です。筋肉の強張りを解く。……ハールセン様には内緒ですよ。あの人は『完璧な商品』にしか投資しない。旦那がガタついていると知れば、また余計な計算を始めかねない」
俺は油紙を見つめ、それから小さく笑った。
「手厳しいな、ヤン。……ありがたく使わせてもらう」
「どういたしまして。旦那の飯が食えなくなると、俺の仕事のモチベーションが下がりますから」
ヤンはそう言うと、残ったジュネーヴの酒を煽り、猫のような足取りで自分の寝床へと戻っていった。
一人残された俺は、ヤンから貰った軟膏の油紙をゆっくりと開いた。ツンとした、だがどこか温かい薬草の香りが鼻腔をくすぐる。山生姜の香りは、遠い記憶の中の誰かが使っていた薬の匂いに似ていた。誰だったか、もう思い出せない。
全能の奇跡を失ったこの世界。だが、ここには確かに、泥臭い信頼と、生き延びるための確かな術があった。
俺は補助魔術を解除し、焚き火に土をかぶせて消した。モルダウ川の冷たい風が、優しく俺の頬を撫でて通り過ぎていった。
―――
1620年11月8日。プラハが陥落し、帝国の権威はハプスブルク家のもとに再び固められた。だが、北方の新教諸国が黙ってそれを見過ごすはずもなく、この戦の火種はやがて帝国全土を焼き尽くす大火へと育っていくことになる。俺たちの、この泥臭い世界でのサバイバルもまた、ここからが本当の始まりだった。




