第66話 傾く牙城、黒い帳簿と密室の賭け
ハールセンが手配した隠れ家に落ち着き、ハールセンを寝所に送り出した後、俺は一人、薄暗い部屋の隅で静かに上着の袖をまくり上げた。
右の前腕に、薄く一筋の赤い血線が走っている。道中の悪路で、跳ね上がった茨の棘が掠めた跡だった。
行動には全く支障のない、ごく軽い擦り傷だ。だが、異世界で勇者をやっていた頃なら、そもそも障害物を察知して身をかわすことなど造作もなかったし、万が一傷ついても、世界そのものが俺を祝福するかのように、肉体は一瞬で自動治癒されていた。
(歳のせいか……それとも、この世界の泥に足が馴染みすぎたか……)
治癒魔法を唱えることは簡単だ。だが、こんな小傷にまで貴重な魔力を使えば、これから始まるプラハでの大立ち回りの前にガス欠を起こしかねない。俺はかつてのように奇跡に頼るのをやめ、マルタからもらった軟膏を指先で薄く傷口に塗り込んだ。ツンとしたハーブの匂いが鼻を突く。
全能の勇者から、肉体の衰えを受け入れつつある一人の老兵へ。俺は微かな痛みを噛み締めながら、袖を静かに下ろした。
そのとき、扉の外で軽い足音がした。ノックもなく扉が開き、ヤン・デ・フリースが細い蝋燭を手に滑り込んでくる。
「まだ起きていたか。見せてみろ」
彼は俺の腕をひったくるように掴み、傷口を蝋燭の光にかざした。
「……深くはないな。ただの茨の引っ掻き傷だ」
「わかってる」
「わかってるなら、その顔をやめろ。鏡でも見たか、お前? 寿命が縮むような面をしている」
俺は苦笑した。ヤンは扉に背中を預けながら、懐から小さな革袋を取り出す。中から茶褐色の小瓶が現れた。
「商館の薬剤師に調合させた消毒液だ。ハーブと蒸留酒を混ぜただけの代物だが、使わんより使ったほうがいい。傷口が膿んでも俺たちの仕事に付き合ってもらわなくちゃならんのでね」
実務的な言い方だが、手間をかけて用意してきたことは明らかだった。俺は黙って受け取り、傷口にしみる液体を塗り込む。
「感謝する」
「商売上の投資だ。君がプラハで倒れると困る」
ヤンはそう言いながらも、俺の隣の壁にもたれかかり、動こうとしなかった。ランプの炎が揺れ、二人の影が天井に伸びる。
九月。カトリック連盟軍のティリー伯と皇帝軍のブクア伯の連合軍が数十キロ先まで迫る中、モルダウ川を臨むプラハの城門前は、極限の恐慌状態に陥っていた。
押し寄せる難民、色めき立つ新教派の防衛兵、そして武器や食料を積んだ馬車が長蛇の列をなし、怒号と赤ん坊の泣き声が鉛色の空に響いている。城門を固めるのは、神経を尖らせたボヘミア王国の熱狂的な新教徒の衛兵たちだ。怪しい者は容赦なく拘束され、スパイ容疑で即座に吊るされる。そんな緊迫した空気の中、俺たちはハールセンが手配した一台の小汚い荷馬車を囲んでいた。
「……随分と大層な身分証だな。本当にこれで通れるのか?」
俺は御者台の影で、ハールセンから手渡された分厚い羊皮紙の束をめくった。そこには精緻な神聖ローマ帝国の国章と、いかにも厳格そうなラテン語の印章が並んでいる。
「額面通りに読めばな」
ハールセンは冷たい笑みを浮かべ、自身の黒い上着の襟を正した。
「それは旧教派の猛主バイエルン公マクシミリアン一世の直筆署名が入った、最高格の『カトリック軍用通行証』だ。ティリー伯の軍勢がこの街を占領した際、商館の安全を保障させるために私が事前に裏で手回しをして発給させた、本物の最高級品だよ」
俺は思わず眉をひそめた。ヤンが馬の足回りを点検しながら、呆れたように鼻を鳴らす。
「旦那、ハールセン様の悪趣味に驚くのはまだ早い。今から俺たちが突入するのは、カトリックを蛇蝎のごとく嫌う新教派が死に物狂いで守るプラハの城門前だぞ。そんなものを真面目に提示したら、門をくぐる前に二人まとめて八つ裂きにされて、城壁に首を並べられる」
「だから『ハメ手』を使うのさ」
ハールセンは懐からもう一枚、ひどく安っぽい、インクの滲んだ別の羊皮紙を取り出した。それはボヘミア新教派の弱小貴族が発行した、形ばかりの粗末な物品搬入許可証だった。
「ヤン、合図とともに例の仕掛けを動かせ。東洋の兵よ、貴公は私の後ろで、ただの『怯える異国の職人』を演じていろ」
馬車がじわじわと進み、ついに俺たちの番が来た。ぎらついた目で槍を構えた衛兵隊長が、容赦なく馬車の前に立ち塞がる。
「止まれ! 荷を開けろ。所属と通行証を出せ!」
ハールセンは御者台から飛び降りると、わざとらしく揉み手をしながら、ひどく卑屈な笑みを浮かべてみせた。
「これはこれは、勇敢なるボヘミアの守護者様。私はニュルンベルクのしがない商売人でして。ほら、これがボヘミア貴族の旦那様からいただいた、正規の穀物搬入証でございます」
ハールセンが差し出した安物の許可証を、衛兵隊長はひったくるように奪い取り、胡散臭そうに目を細めた。
「ふん、こんな怪しい紙切れ一枚で通せるか! 今は非常時だ。積荷をすべてひっくり返せ! 貴様ら、カトリックの回し者ではないだろうな?」
「滅相もない! 我らは敬虔な新教徒で……」
ハールセンがわざとらしく狼狽してみせた、その瞬間だった。
背後で馬の手綱を握っていたヤンが、外套の陰で、あらかじめ仕込んでおいた馬車の底板のストッパーを足で跳ね上げた。
ガラガラガラッ、と激しい音を立てて荷台が傾く。積み上げられていた古い麻袋が崩れ落ち、その中から、これでもかと詰め込まれていた「カトリックの聖書」や「ロザリオ」、そしてあの最高格の『カトリック軍用通行証』が、石畳の上へ派手にぶちまけられた。
城門前の空気が、一瞬で氷結した。
「なっ……これは、旧教の偶像だと!?」
「待て、この書類の紋章は……バイエルン公の直筆署名だぞ!」
周囲の衛兵たちが一斉に色めき立ち、抜剣の音が重なる。カトリックのスパイの証拠が完全に揃った形だ。衛兵隊長が顔を真っ赤にして、ハールセンの胸ぐらを掴み上げる。
「貴様! やはり皇帝派の犬か! この場で首を吊ってやる!」
だが、ハールセンの目はまったく泳いでいなかった。むしろ、獲物が罠にかかったことを確信した捕食者の目だ。彼は胸ぐらを掴まれたまま、周囲に聞こえるような大声で、狂乱したように叫び立てた。
「違います! それは、私が命がけでバイエルン軍の陣営から『盗み出してきた』ものなのです!」
「……何だと?」
「聞いてください! 私はニュルンベルクの新教徒の同志たちに頼まれ、旧教軍の進軍ルートを暴くために、あえてカトリックの商人を偽装して敵陣に潜入していたのです! その十字架も、その軍用通行証も、敵を欺くための偽装! この鞄の底を見てください、本命はこれだ!」
ハールセンが狂ったように指差した馬車の隠し引き出しを、衛兵の一人が慌ててこじ開ける。そこから出てきたのは、ラジヴィウ伯爵の「カトリック側の内通者リスト」と「旧教軍のプラハ包囲作戦計画」の写しだった。
もちろん、これらは本物の極秘文書だ。ただし、ハールセンがプラハの貴族たちを脅迫するために用意した「商売道具」だが、この場の衛兵たちにそんな事情がわかるはずもない。
衛兵隊長が計画書に目を落とす。そこにはティリー伯の軍勢の正確な配置図が、あまりにも詳細に記されていた。
「位置は……本物の、敵の軍事機密か……?」
「左様です! 我らはそれをいち早くプラハの司令部に届けるため、敵の斥候に追われながら、この異国の鍛冶屋の機転で、命からがら逃げてきたのです! もし私を殺せば、この貴重な情報は永遠に失われ、プラハは内側から崩壊するでしょう!」
ハールセンはそう言うと、俺の肩を強く引き寄せた。俺は事前に打ち合わされていた通り、わざとらしく肩を震わせ、怯えた職人の真似をして小さく縮こまってみせた。
……俺の隣で、ヤンも同様に身を縮め、わずかに唇の端を動かした。よくやるよ、と言いたそうな顔だったが、声には出さなかった。
ハールセンの完璧な論法の前に、衛兵たちの殺気が急速に困惑へと変わっていく。
カトリックのスパイの証拠を「命がけの潜入捜査の成果」へと百八十度ひっくり返すハメ手。あまりの情報の重大さに、一衛兵の判断で彼らを処刑することなど、もはや不可能だった。
「……隊長、どうします? この機密、本物なら上層部に届けないと……」
「くそっ、忌々しい商党め……!」
衛兵隊長はハールセンの胸ぐらを乱暴に放すと、忌々しそうに唾を吐いた。
「おい、この馬車ごとラジヴィウ伯爵の息のかかった衛兵屯所へ連行しろ! そこで徹底的に取り調べだ!」
「ありがたき幸せ……! 神の新教に栄光あれ!」
ハールセンは涙ぐむような声で頭を下げた。だが、俺の後ろに回った彼の口元には、いつもの冷酷で歪んだ勝利の笑みが浮かんでいた。
連行という名の「最優先の護衛付き」で、俺たちの馬車は堂々とプラハの頑強な城門をくぐり抜けた。怒号の飛び交う城門が背後に遠ざかっていく中、御者台のヤンが前を向いたまま、ボソリと呟いた。
「相変わらず、心臓に悪いハメ手だ。いつか本当に吊るされますよ、ハールセン様」
「勝率が九割を超えるなら、それはギャンブルではなく単なる『投資』だよ、ヤン」
ハールセンは懐から絹のハンカチを取り出し、芝居の汗を拭いながら冷たく笑った。
俺は鼓動がまだ少し速いのを感じながら、荷台の縁に手を乗せた。
(だますか、だまされるか。こいつらと一緒にいると、頭の使い方が刀とはまるで違う)
だますか、だまされるか。狂乱のボヘミアの首都プラハ。俺たちはついに、その泥沼の戦舞台へ足を踏み入れたのだった。
傾く牙城、ラジヴィウ伯爵の密室
屯所での形式ばかりの「査問」という名の時間稼ぎを経て、ハールセンが事前に買収していた新教派の高級将校の手回しにより、俺たちはボヘミア貴族ラジヴィウ伯爵の広大な屋敷へと滑り込むことに成功した。
プラハ城の影に位置するその大邸宅は、外見こそ重厚な石造りの威容を保っていたが、一歩足を踏み入れれば、そこは城門前と変わらぬ「沈みゆく船」の縮図だった。行き交う従者たちの顔は青ざめ、廊下にはすでに荷造りを終えた巨大な革トランクが乱雑に積み上げられている。
「よくぞ無事で、ハールセン。貴公の慧眼と行動力には、神の加護があったとしか思えん」
豪奢な大広間の奥で俺たちを迎えたのは、やつれ果てた顔に困惑と焦燥をにじませた、ラジヴィウ伯爵その人だった。
彼の傍らには、不安げに父親の袖を握るまだ幼い息子のフェルディナンドと、毅然とした態度を崩さないように唇を噛み締めている高貴な佇まいの妻、エレオノーラ夫人が控えている。
「神の加護、ですか。私はあいにくカルヴァン派の神もルター派の神も信用しておりませんので、今回は『現世の帳簿』が味方したと言っておきましょう、伯爵」
ハールセンはいつものように冷徹な仮面をかぶり、一礼もせずに長卓の椅子を引き、どさりと腰を下ろした。そして、顎でヤンと俺に指示を出す。ヤンは音もなく部屋の扉を閉めて閂を降ろし、俺はハールセンの斜め後ろ、いつでも日本刀を抜ける位置に影のように佇んだ。
「さて、挨拶はここまでだ。お互いに時間がない」
ハールセンは懐からニュルンベルクでヤンが作成した最新の戦略地図を広げ、容赦のない現実を突きつけた。
「カトリック連盟軍のティリー伯、そして皇帝軍のブクア伯の連合軍は、すでにボヘミア領内を破竹の勢いで進撃中。早ければ十一月、遅くとも冬が本格化する前には、このプラハの城壁の下に二万人以上の大軍が押し寄せる。伯爵、あなたの身内であるボヘミア貴族の上層部は、いまだに防衛費の捻出を巡って内紛を続けているようですが……断言しましょう。この街は持ちません」
「……そこまで、言うか」
伯爵はガタガタと震える手で顔を覆った。エレオノーラ夫人がその肩を優しく抱きしめるが、彼女の瞳にも絶望の影が差している。
「持たないどころか、一ヶ月後には地獄に変わりますよ」
ヤンが冷淡に付け加えた。
「プラハの防衛線は紙同然です。傭兵たちへの給与は未払いで、士気は底をついている。カトリックの大軍が攻め込んできたら、戦う前に内側から崩壊する。伯爵一家が生き残る道は、開戦の混乱に乗じてこの狂乱の都市から脱出することだけです」
ヤンの言葉は簡潔で、感傷の欠片もなかった。彼は地図の上に指を置き、それだけの仕草で「ここが薄い」「ここが使える」と伝えた。俺はその手際のよさに、改めて舌を巻く。商会のエージェントというのは、要するにこういう場で動じない人間のことを言うのだろう。
「しかし、どうやって……!」
伯爵が顔を上げた。
「城門は新教派の過激な義勇兵が固めており、いまや貴族であっても勝手な出入りは『敵前逃亡』として即座に逮捕される! カトリックが攻めてくれば、今度は周囲を完全に包囲され、ネズミ一匹出られんようになるのだぞ!」
張り詰めた沈黙が広間に満ちる。
そのとき、ハールセンの視線が、俺の腰元にある日本刀の柄へと向けられた。
「だからこそ、私にはこの『東洋の仕掛け人』がいる。伯爵、開戦の日、カトリック軍の総攻撃が始まった瞬間――すべての兵の目が戦場へと向く、その最大の混乱の隙を突いて、貴方方を城外へと連れ出す」
伯爵の視線が俺に集まった。ただの鍛冶職人、あるいは薄汚れた用心棒にしか見えない俺の姿に、彼は一瞬の不信感を隠せなかった。ハールセンはそれを楽しむようにククッと喉を鳴らす。
「彼はニュルンベルクで、姿を消すマントと、触れただけで男を呪縛する細針の手品を使い、我らをここまで導いた。軍隊を正面から叩き潰す力はなくとも、人の目の隙を突き、音もなく障害を排除する仕掛けにおいて、彼の右に出る者は地上にいません」
「手品……? 姿を消すだと……?」
伯爵が混乱したように呟く。俺は一歩前に出ると、あえてハールセンの「手品」というブラフに調子を合わせ、軽く肩をすくめて見せた。
「旦那、あんまり大袈裟に言わないでくれ。ただの東洋の奇術さ。煙幕と光の錯覚、それから少しばかりの痺れ薬。戦場のど真ん中を突破するのは無理だが、裏道の衛兵の目を数分間だますくらいなら、俺の道具でどうにでもなる」
俺の落ち着いた声音が、逆に伯爵に奇妙な信頼感を与えたようだった。全能の魔法使いの言葉なら疑うだろうが、泥臭い「職人の技術」としてのブラフは、この時代の人間にとって最も納得しやすいリアリティを持っていた。
「計画を詰めるぞ」
ヤンが卓上の地図を指で叩いた。
「決戦の地は、おそらくプラハ城の西に広がる『白山』と呼ばれるなだらかな丘陵地になる。カトリック軍がそこに陣を敷き、ボヘミア軍と衝突した瞬間、プラハ市内の城壁の守備兵は確実に動揺する。俺があらかじめ、北側のモルダウ川に面した隠し水門のルートを確保しておく。そこなら、新教派の防衛線が最も薄い」
「俺が伯爵一家を護衛し、その水門まで誘導する」
俺は地図のルートを指でなぞりながら言った。
「もし途中で邪魔な衛兵や脱走兵がいれば、俺の手品で静かに眠ってもらう。銃声は一発も立てさせない。水門を抜けたら、ヤンが手配した舟で川を下り、そのまま北のザクセン国境へ逃れる」
「水門の鍵の調達は私が担う」
ヤンが淡々と続けた。地図の上に置いた指が、川沿いのルートをするりとなぞる。
「昨夜のうちに番人の一人と話をつけた。三十六フローリンで話は通っている。先払い済みだ」
「……昨夜のうちに、か」
俺は思わず彼を見た。プラハに入ってまだ丸一日も経っていない。この男はどこで、いつの間にそれをやるのか。
ヤンは俺の視線に気づいたのか、口の端をわずかに動かした。
「備えは早いほうがいい。君が刀を磨く間、俺は別のものを磨く」
それだけ言って、また地図に視線を落とした。こういう男だ、とつくづく思う。
ハールセンが冷たい目で伯爵を凝視した。
「これが、私の提示する唯一の生き残り計画です、ラジヴィウ伯爵。乗るか、反るか」
伯爵は、愛する妻と息子の顔を交互に見つめ、それから深く、重い決意の息を吐き出した。
「……わかった。すべてを貴公らに賭けよう、ハールセン。神よ、我らの罪をお許しください」
「結構。では、決戦のその時まで、各自爪を研いでおくことだ」
ハールセンの言葉で、密室の会議は解散となった。
計画は決まった。あとは、歴史の時計が「その日」を刻むのを待つだけだ。
その夜、ラジヴィウ邸の片隅に用意された小さな寝所で、俺は一人、窓の外のプラハの夜景を見つめていた。遠くの広場からは、不安を紛らわせるように賛美歌を歌う市民たちの声が、地鳴りのように低く響いてくる。
俺は静かに日本刀を抜き、月光の下で刃を改めた。
ニュルンベルクの工房で施した超振動の魔術回路は、未だに鈍い光を帯びて健在だ。だが、日中の行軍や城門前での緊張の連続のせいか、右肩の奥がずしりと重い鈍痛を訴えていた。
(……やはり、あの軽い傷の治りが遅い)
前腕の擦り傷は塞がっていたが、皮膚の奥の組織が、かつてのような速度で再生していない。
異世界にいた頃なら、これほどの隠密行など、魔力の自動循環だけで疲労すら残らなかった。だが今の俺は、中世ヨーロッパの容赦のない重力と、老いという肉体の枷を、確実に背負わされている。
「勇者か。今じゃただの、ガタの来始めた老いぼれ用心棒だな……」
自嘲気味に呟いて、刀を鞘にかちりと収めた。
そのとき、扉の外でまた軽い足音がした。ノックもなく、ヤンが頭だけを差し込んでくる。
「まだやってるのか。刀を磨くのはもういいだろう」
「磨いてない。ただ眺めてた」
「同じことだ」
彼は部屋に入り、窓の外に目を向けた。賛美歌の声が、また遠くに聞こえてくる。
「眠れないか?」
「まあな。君は?」
「俺は水門のルートを頭の中で三周した。もう眠れる」
それだけ言うと、ヤンは踵を返して扉の前で立ち止まった。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「あの計画、本当にうまくいくと思うか?」
俺は少し考えた。
「ハールセンの読みは正確だ。ヤン、君の手配も早い。問題があるとすれば、戦場そのものの混乱が読めないことだ。白山の戦いがいつ始まり、いつ城門の守備が乱れるか。それが読めない以上、どこかで賭けに出る瞬間が来る」
「だろうな」
ヤンは頷いた。動じた様子は少しもない。
「ハールセン様は『勝率九割を超えればギャンブルではない』と言うが、俺は九割でも腹が痛い」
「正直だな」
「お前もだろう」
俺は苦笑した。それには答えなかった。
ヤンは軽く肩をすくめ、今度こそ部屋を出ていった。扉が静かに閉まる。
俺は再び窓の外に目を向けた。賛美歌の声は続いている。市民たちは歌うことで何かを繋ぎ止めようとしているのか、それとも、来るべき日を歌で迎えようとしているのか。
全能の奇跡はもうない。だが、俺には異世界で培った泥臭いサバイバルの経験と、この世界で手に入れたハールセンの冷徹な頭脳、そしてヤンの確かな実務能力がある。
1620年11月8日――歴史に刻まれる「白山の戦い」の大敗北まで、残り二ヶ月。
俺たちは、この燃え盛る激動のプラハの暗がりで、静かにその爪を研ぎ澄ませていった。




