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『那須資晴、二度目の転生』  作者: 山田村
第一章 那須資晴

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第65話 鉛色の空と、鍛冶屋の朝食





嵐の前の静けさ


 1620年6月。街を包む空気は、初夏の爽やかさとは裏腹に、じっとりと汗ばむような緊迫感を孕み始めていた。


 ニュルンベルクの聖ローレンツ教会裏にある地下工房を拠点と定めた俺は、時折、息抜きと情報収集、そして日用品の買い出しを兼ねて地上へと足を運んでいた。金貨五百枚という破格の軍資金を手に入れた俺たちの、六月における地上の日常と、泥臭い人間模様を描き出そう。




職人街の朝と、異世界の味


 いくら地下に大金が転がり込んでこようと、俺の朝のルーティンは変わらない。煤けた地下工房で炉に火を起こし、鉄を叩く音と砥石の音を響かせる。それがこの街に溶け込むための最良の偽装だからだ。


 ただ、ひとつだけ変わったのは「朝食」の質だった。


 これまでは職人の格好に合わせ、硬い黒パンを酸っぱい薄いビールで流し込むような、この時代の標準的な食事を取っていた。だが住処と懐に余裕ができたことで、俺はハールセン商会のルートを使って最高級の小麦粉と、貴重な精製塩、そして新鮮なバターを手に入れていた。


「……よし、焼き加減は完璧だな」


 炉の熾火を利用して即席のオーブンを作り、異世界の記憶を頼りに「外はカリカリ、中はもちもち」の白パンを焼き上げる。さらに、手に入れた肉を塩漬けではなくフレッシュな状態で炙り、即席のサンドイッチに仕立てる。異世界でエルフの里やドワーフの鉱山を旅していた頃、魔力で火力を微調整しながらサバイバル飯を作っていた技術が、まさか中世ヨーロッパで「美味い白パンを焼くため」に役立つとは、我ながら呆れた贅沢だった。


 そんなことを思いながら一口齧ると、外皮のカリッとした歯ごたえの奥から、ふわりと小麦の香りが鼻に抜けた。口の中でじわりと滲む塩気と脂。昨晩ヤン・デ・フリースが「東洋の旦那は変な拘りがある」と呆れ顔で言っていたが、こういう朝があるから俺はまだ正気でいられる、と思っている。




 週に数回、俺は煤を落として地上へ出る。目指すのは、活気と熱気に満ちたニュルンベルクの市場と、職人たちが集まる行きつけの居酒屋ツンフト・ハウスだ。


「おい、東洋から来た流れ者の鍛冶屋! 今日も上質な砥石を探しているのかい?」


 声をかけてきたのは、近所で工房を構える老練な甲冑鍛冶のハンスだ。彼は俺の確かな目利きと、時折見せる妙に洗練された金属加工の知識を気に入っている。


「ああ、ハンス。ボヘミアの戦場帰りの刀を研ぎ直していてね。いい泥砥石があれば譲ってほしい」


「相変わらず物好きなこった。だが刀を研ぐなら急いだ方がいいぜ……。聞いたか? バイエルンの公爵様が、いよいよカトリックの軍勢を盛大に動かすって噂だ。ここらもいつ巻き込まれるか分かったもんじゃない」


 ハンスが声をひそめて言った。居酒屋のあちこちからも、似たような不安の声が聞こえてくる。


「皇帝軍のブクア伯が南から攻め上がってくるらしい」

「プラハの新教派の連中は、もう夜も眠れないだろうな」


 住人たちは神に祈りを捧げつつも、迫りくる戦争の影に怯え、物価の上昇を嘆いていた。俺は彼らと薄いエールを酌み交わし、世間話に相槌を打ちながら、地上の「空気感」を肌で覚えていく。彼らにとって俺は「少し腕の立つ、物静かな異国人の職人」でしかなかったが、その平穏な関係こそが、俺の気配を完全に消し去ってくれていた。


 市場を一回りして地下工房に戻ると、扉の前にひとつの影が立っていた。


「遅い。三十分待った」


 ヤン・デ・フリースだ。オランダ商会のエージェントを名乗るこの男は、約束もせずに現れ、用が済めば煙のように消えるという習慣がある。今日は灰色の道中着を羽織り、脇に地図の筒を抱えていた。


「待ち合わせの約束をした覚えはないが」


「俺には仕事がある。旦那のスケジュールに合わせていたら商売にならない」


 そう言いながら、ヤンは俺の脇をすり抜けて工房の中へと入った。勝手知ったる様子で椅子を引き、地図の筒を卓に置く。




帳面と来客と、魔法の仕込み


 工房の重い扉が再び音を立てて開いたのは、それからしばらくしてのことだった。入ってきたのは、仕立ての良い黒い上着をまとったハールセンだ。手には相変わらず、ラジヴィウ伯から分捕った内部文書が記された羊皮紙の束を抱えている。


「相変わらず、東洋のつわものは奇妙な儀式に時間を費やすな。……ほう、その香ばしい匂いは何だ?」


「俺の特製朝食だ。食うか?」


 ハールセンは眉をひそめたが、差し出された焼き立てのパンを一口齧ると、その目がわずかに見開かれた。この時代のヨーロッパでは、肉といえば塩辛い保存肉か、臭みを消すためにスパイスを大量にぶっかけた泥臭いものばかりだ。熾火で丁寧に火加減を整え、肉汁を閉じ込めながら適切な塩加減だけで焼き上げた肉の味は、大商人である彼の舌をも唸らせたらしく、しばらく無言で二口、三口と齧り続けた。


「……悪くない。貴公をオランダ商会へ引き渡す前に、我が専属の料理人として雇い直したいくらいだ」


「その商会のエージェントが、もう先に食べていますが」


 俺が視線を向けると、ヤンが口の端についた脂を指で拭いながら涼しい顔をしていた。ハールセンが片眉を上げる。


「……今日は来ないと思っていたが」


「飯の匂いがしたから来た」


「それだけか」


「それだけです。ああ、それと」


 ヤンは袖の内側から折りたたんだ羊皮紙を一枚取り出し、卓に投げた。地図だった。几帳面な手書きの線と、細かい注釈が余白を埋めている。


「ティリー伯の行軍速度は俺の読みより速い。七月初旬に西部街道へ出る可能性がある。馬車の荷物を一度ばらして軽量化した方がいい」


 ハールセンが資料を受け取り、その場で広げた。


「確認する。……なるほど、このルートか」


「あとここ」ヤンが地図の一点を指で叩く。「修道院の抜け道。密輸商人しか知らない獣道だが、俺は知っている。有事の際はこちらを使う」


 ハールセンが手帳をぱたんと閉じ、冷徹な商人の顔に戻って本題に入った。彼が持ち込んできたのは、プラハまでの「隠密ルート」の策定と、カトリック連盟軍(ティリー伯)の最新の進軍予測だった。


 三人で地図を囲み、進軍予測と脱出ルートを確認する。ヤンの情報網はいつも一歩早い。この男が持ってくる地図には、正規の街道だけでなく、修道院の抜け道や密輸商人しか知らない獣道まで書き込まれている。いったいどこでこんな情報を仕入れてくるのか、俺はまだ聞いたことがない。おそらく聞いても教えてくれないだろう、とも思っている。




 ハールセンがもたらす情報をもとに、俺は工房での「魔法の仕込み」を次の段階へと進めていた。アジトができたことで、おおっぴらに魔法を使うことができる。


 これまでの「強化(超振動)」や「麻痺パラライズ」に加え、長距離の隠密移動に必須となる「気配遮断ハイド」の術式を、旅用のマントやブーツの革に焼き付ける作業だ。


 中世の強固な牛革に、異世界の精緻な魔術回路を定着させるのは骨が折れる。少しでも魔力の流し込みを誤れば、革が炭化して金貨数枚分が無駄になる。焼き付けそのものよりも、焼き付けながら術式の完成度を手の感覚で確認する作業が、いちばんの難所だった。


 ある晩、作業の手を止めず黙々と革を叩いていると、背後の扉が静かに開いた。


「また夜通しか」


 ヤンだった。夜半を過ぎても平然と現れるのがこの男の流儀らしい。手には蝋燭を持ち、もう片方の手には皮袋をぶら下げている。


「ジュネーヴの蒸留酒だ。仕事の供に」


「ありがたいが、今は術式の集中が必要でね」


「ならば俺が飲む」


 ヤンは椅子を引いて腰を落とし、一人で静かに酒を飲み始めた。邪魔をするわけでも、立ち去るわけでもない。この男のこういうところが、俺にはまだ少し掴みきれない。


「……何か用か」とようやく俺は言った。


「巡回の報告。商館の近くに見慣れない顔が二人、今週で三度目だ。ハールセン様には伝えてあるが、旦那にも知らせておこうと思った」


「そういうことは最初に言え」


「術式の邪魔をしたくなかった。作業中の術師に声をかけると爆発すると聞いたことがある」


「誰から聞いた」


「旦那から聞いた。先月」


 俺には記憶がなかった。だがヤンがこういうことで嘘をつく理由もない。


「……まあ、注意しておく。ありがとう」


「どういたしまして。ではお先に一杯」


 ヤンはそう言って皮袋から木椀に酒を注ぎ、静かに口に運んだ。工房には金属を叩く音と、蝋燭の燃える微かな音だけが残った。




 月末の夜、ハールセンが連れてきた「素材」で、術式の成果を試す機会が訪れた。商館の倉庫を荒らそうとした、街のこそ泥三人組だ。


 暗闘の倉庫。俺は「気配遮断」を施したブーツで、音もなく彼らの背後に立った。ネズミ一匹気づかぬ足音。驚くほどの手際で、一人目の首筋に「麻痺・弱」を叩き込む。男は声も出せずに糸の切れた人形のように崩れ落ちた。残りの二人がパニックを起こしてナイフを振り回した瞬間には、俺はすでに彼らの死角へと回り込み、日本刀の峰(超振動強化)でナイフの刃ごと腕を叩き落としていた。


「銃声も、悲鳴もない。……やはり、貴公の『技術』は、この戦争のパワーバランスをひっくり返しかねんな」


 物陰から見ていたハールセンが、冷たい笑みを浮かべて拍手を送る。


 その後ろで、ヤン・デ・フリースはこそ泥三人を縛り上げながら、ひとりごとのように呟いた。


「拍手している場合じゃない。こいつら、今夜どう処理するんですか、ハールセン様」


「……街外れの橋の下へ放り込んでおけ」


「了解。……東洋の旦那、手を貸してくれ。三人同時に運ぶのは一人じゃきつい」


 俺は溜息をついてブーツを脱ぎ、術式の焼き付け具合を確認した。問題ない。


「術式の完成度はどうだ」とヤンが聞く。


「九割といったところだ。残り一割は実戦で詰める」


「ならその一割は七月の仕事でよろしく頼む」


 ヤンはそう言いながら、こそ泥の一人を軽々と担ぎ上げた。呆れるほど実務的な男だ。担ぎ上げた男の頭が石畳に当たりそうになるのを、ヤンはさりげなく手を添えて防いだ。こそ泥相手にそういう気遣いをするのがこの男らしい、と俺は思う。




 こうして六月は、ハンスたちと地上で世間話を交わして街に紛れ込み、美味い飯を食い、夜は魔術の精度を極限まで高めることに費やされた。ハールセンが張り巡らせる情報網のパズルも、ヤンの細かい手配によって、少しずつ形を成していく。


 ニュルンベルクの街は、迫りくる戦争の気配に怯え、不穏な噂で満ち満ちている。だが、この地下工房だけは、これから始まる「歴史の裏舞台での大立ち回り」に向けて、静かに、そして確実に研ぎ澄まされていく。


「七月に入れば、バイエルン公が動く。街道が兵隊で埋まる前に、ボヘミアへ滑り込むぞ」


 ハールセンの言葉に、俺は日本刀をかちりと鞘に収めて頷いた。


 ヤンが窓の外に目をやりながら、ぽつりと言う。


「雨の匂いがする。明日は天気が崩れるな」


「雨の方が都合がいい」


「違いない」


 そして三人分の蝋燭が、工房の石壁に三つの影を揺らし続けた。


 1620年6月。嵐の前の静けさは、間もなく終わりを告げようとしていた。




牙を剥くバイエルン軍と、泥濘の街道


 七月に入ると同時に、ニュルンベルクに届く風の匂いが変わった。戦火の焦げ臭さ――旧教派の盟主バイエルン公マクシミリアン一世と、名将ティリー伯が率いるカトリック連盟軍二万五千が、ついに南からボヘミア包囲へ向けて牙を剥いたのだ。


「街道はすでに死に瀕している」


 ハールセンがもたらした地図には、旧教軍の進軍ルートが血の跡のように赤々と記されていた。彼らは新教派の同盟都市を電撃的に制圧しながら、容赦ない略奪と焼き討ちを行っている。ニュルンベルクからボヘミアの首都プラハへ向かう大街道インペリアル・ロードは、完全に兵と難民で埋まり、まともな通行は不可能となった。


 俺とハールセンは、あえて軍の進軍予測ルートの「わずか半日先」を掠めるように進む、最も危険で最も誰も予測しない裏の獣道を選んだ。


 出立の前夜、ヤンが工房に来た。


「俺は先行する」


「先行?」


「旦那たちより三日早く出て、道沿いの修道院と廃村を確認しておく。宿場として使えるかどうかの見極めだ。何かあれば道標に印を残す」


 ハールセンが無言で頷いた。ヤンは小さな地図を卓に広げ、指で三か所に印をつける。


「ここ、ここ、ここ。俺の印は石を三つ重ねたもの。安全なら右側、危険なら左側に置く。崩れていたら即時迂回を」


「承知した」


「東洋の旦那は地図を頭に入れておいてくれ。俺が現れなかった場合でも動けるように」


 俺は地図を一度見て、瞼の裏に焼き付けた。


「了解。……気をつけろよ」


「旦那こそ。街道には腹を空かせた脱走兵がうようよいる。ハールセン様を守るのに夢中で油断するな」


「余計なお世話だ」


「それも仕事のうちです」


 ヤンはそう言って、煙のように夜の暗がりに消えた。




 八月上旬、ボヘミア国境に近い密林の尾根。夜霧が立ち込める中、俺たちは身を潜めていた。

 すぐ眼下の街道を、松明の群れが蠢いている。バイエルン軍の先鋒、クロアチア人の軽騎兵連隊だ。彼らは残虐な斥候として恐れられ、その嗅覚は獣並みに鋭い。


「……来るぞ」


 ハールセンが息を殺す。蹄の音がすぐ近くまで迫り、数騎の騎兵が俺たちの潜む茂みのわずか数メートル前で馬を止めた。異国の言葉で笑い合い、こちらへ松明をかざす。


 俺は静かに、二人の身体を覆う旅用のマントに触れ、魔力を流し込んだ。


(――「気配遮断ハイド」)


 地下工房で牛革の繊維に極限まで圧縮して焼き付けた術式が、音もなく起動する。異世界でエルフの密偵が使っていた「周囲の光と音の波形を歪め、存在の認知を狂わせる」魔術。中世ヨーロッパの物理法則に干渉させるため、俺自身の魔力で常に周囲の「空気の揺らぎ」を微調整し続ける必要があった。


 じっとりとした緊張感が走る。クロアチア兵の目が、確実に俺たちのいる暗闇を向いた。だが、彼らの瞳には何も映らない。ただの「夜の闇」として認識が素通りしていく。


「……フン、気のせいか」


 兵士たちは馬の首を巡らせ、そのまま去っていった。ハールセンが小さく安堵の息を漏らす。


「見事なものだな。ハプスブルクの審問官が見れば、間違いなく『悪魔の隠れ蓑』として貴公を火炙りにするだろうが……この商売においては、これ以上ない最高の商品だ」


「日本の忍者が使う偽装だ。近くに寄ればバレる。夜明け前には次の宿場……いや、廃村に滑り込むぞ」


 魔法は手品のように偽装してある。うまくいっている。


 廃村の手前、道端の石を確認した。三つ、右側に重ねてある。ヤンの印だ。


「安全だ」と俺は言った。


「……確認してあったのか」


「ヤンが先行していた」


 ハールセンは少し間を置いてから、静かに言った。


「あの男は使える」


 俺も同意見だった。




 国境を越えた先にあるボヘミアの村々は、すでに旧教軍の略奪によって無残な廃墟と化していた。焼け残った石造りの教会に身を隠し、俺たちは一夜を明かすことにした。


 緊迫した隠密行だからこそ、体力の消耗は命取りになる。俺は崩れた祭壇の陰で、小さな種火を起こした。もちろん、煙や光が外に漏れないよう、熱量を内側に閉じ込める補助魔術を薄く展開している。


「ハールセン、これを食え」


 懐から取り出したのは、ニュルンベルクを発つ前に地下工房で仕込んでおいた「特製干し肉のスープ」だ。ただの塩辛い干し肉ではない。魔力でじっくりと繊維を解し、塩と、地上でマルタから分けてもらった数種のハーブを揉み込んで乾燥させたものだ。これを水とともに小さな鉄鍋で煮立たせると、廃墟の中に信じられないほど豊潤で香ばしいスープの匂いが広がった。


 ハールセンは驚いたように眉を上げ、差し出された木椀を受け取った。


「貴公の準備の良さには恐れ入る。この焦土のただ中で、これほど温かく、滋味に富んだ食事にありつけるとはな」


 スプーンでスープを口に運んだ商人の顔から、いつもの冷酷な仮面がわずかに外れ、満足げな吐息が漏れた。


「生きるための投資だ。腹が減っては、あんたの冷徹な帳簿の数字も鈍るだろう?」


「ククク……全くだ。ボヘミアの貴族どもが泥水をすすっている間に、我らがこれだけの贅沢をしていると知れば、彼らはどんな顔をするかね」


 その時、廃墟の入り口から人影がひとつ滑り込んできた。


「……俺の分は残っているか」


 ヤン・デ・フリースだった。道中着の肩が雨に濡れている。どこかで俺たちの動きを把握していたらしく、合流のタイミングとしては完璧だった。


「来るなら早く言え。心臓に悪い」


「音を立てずに近づくのが仕事なので」


「言い訳になっていない」


「すみません」


 ヤンは謝りながら木椀を受け取り、腰を下ろした。一口飲んで、短く言う。


「美味い」


「そうだろう」


「認める。旦那の飯は本物だ」


 冷徹な大商人と、異世界帰りの元勇者と、正体不明のオランダ商会エージェント。奇妙な三人組は、暗闇の教会で静かにスープを啜り、束の間の「日常」を共有した。ヤンはスープを半分飲んだところで、ふと思い出したように言った。


「廃村の手前、道標の石を確認してくれたか」


「した。右側だったから入った」


「正解。……ちゃんと見てくれていたんだな」


「俺を何だと思っている」


「頼もしい人」


 ハールセンが無言で二杯目を注いだ。それで十分だった。




 八月末。長く険しい泥濘の行軍を経て、俺たちの目の前に、ついに重厚な石造りの尖塔群が姿を現した。


 新教派ボヘミア王国の首都、プラハ。


 しかし、その美しい街並みを包む空気は、完全に絶望と焦燥に染まっていた。城壁の周囲には急造の陣地が築かれ、行き交う兵士たちの目は血走り、防衛費の底を突いた王国の上層部が内紛を起こしているのが、遠目からでも容易に察せられた。


「間に合ったな。カトリックの大軍がここを完全に包囲する前に、まずはラジヴィウ伯爵の屋敷へ滑り込むぞ」


 ハールセンは手帳をパタンと閉じ、冷たい目で前方の巨大な城門を見据えた。


 ヤンが城壁の上を見上げながら、小声で言う。


「防衛線、思っていたより薄い。あれでは……まあ、俺たちが余計なことを心配してもしょうがないが」


「仕事に集中しろ」


「はい。ところで、プラハにも美味い飯屋はあるだろうか」


「そんな余裕があると思っているのか」


「あれば食べたい、というだけです。いつ何時でも腹は減る」


 俺は答えなかった。だが、あながち間違ってはいない、とも思った。





 1620年8月末。歴史の濁流がすべてプラハへと集束していく中、俺たちは日本刀の柄に手をかけ、狂乱の都市へと足を踏み入れた。


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