第64話 森影の抜け荷
1620年四月中旬、ピルゼン北方へと続く深い樫の原生林。
新緑が芽吹き始めた美しい森は、カトリック軍の先遣隊(精鋭の重装歩兵)と、俺たちマンスフェルト軍の遊撃部隊による、終わりなき伏撃戦の舞台となっていた。
俺の任務は、森の隘路を通過しようとする敵の輜重隊(補給部隊)を急襲し、敵の進軍を最低でも三日間遅らせること。それは同時に、プラハ市内でハールセンたちが商会の資産を馬車に積み込むための時間を稼ぐことでもあった。
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湿った森の行軍、無音の制圧
春の雨が森の腐葉土を濡らし、あらゆる足音を吸い込んでいく。
俺はマンスフェルト軍のぼろぼろの外套をまとい、巨木の根元に身を潜めていた。
遠くから、敵の斥候であるバイエルン軍の軽歩兵三人が歩いてくる音が近づいてくる。落ち葉を踏む重い靴音、鎧が擦れる金属の摩擦音。三人はこちらに気づく様子もなく、俺の真横を通り過ぎようとした。
その背中が完全に無防備になった瞬間、俺は音もなく大地の泥を蹴った。
一歩。踏み込みと同時に、日本刀が鞘から滑り出る。
抜き放たれた刃が、最後尾にいた兵士の首筋を左から右へと鋭く駆け抜けた。防寒用の革の襟ごと喉笛を断ち切られた男は、声も上げられずに生温かい血を噴き出し、泥の上に倒れ込む。
「……っ! 伏兵だ!」
先頭の二人が気づいて振り返る。右側の男が短銃をこちらへ向けようとするが、俺はすでに次の動作に入っていた。日本の古流剣術に基づく、無駄のない反転。遠心力を乗せた戻りの一撃が、男の銃を構えた両手首を容赦なく撥ね飛ばす。
「この悪魔め!」
残る一人がハルバードを突き出してくるが、俺は身を低く沈め、敵の懐へと滑り込んだ。左手の拳で相手の面当てを強烈に突き上げ、首が仰け反ったその瞬間、日本刀の切っ先を顎の下から脳天へと突き刺した。
わずか十数秒。新緑の森の奥で、三人の精鋭が物言わぬ骸へと変わる。
この局地的な勝利によって、敵の進軍は一時止まった。彼らは「森に強力な新教派の伏兵あり」と錯覚して警戒度を跳ね上げた。
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この日の夕刻、黄昏に染まる森の縁で、俺は倒木の影に腰を下ろしていた。
血を拭い終えた刀を鞘に収め、ひとつ息を吐いたその時。
「収穫は三つか。相変わらず仕事が丁寧だな、東洋の旦那」
背後からの声に、俺は振り向かなかった。この声には聞き覚えがある。
岩陰から姿を現したのは、くたびれた旅商人の格好をした細身の男だった。オランダ商会のエージェント、ヤン・デ・フリース。二十代の終わりか三十代の初めか、年齢の読みにくい顔立ちをしている。口元には薄い笑みを張り付けたまま、戦場であろうと商館の応接間であろうと、まったく変わらぬ声音で喋る男だ。
「見ていたのか」
「見ていた、というより、確認しに来た。Xデーが近い」
ヤンは折り畳んだ紙切れを俺の膝に放った。広げると、簡潔なオランダ語で「撤退準備、七日以内」とだけ書いてある。
「ハールセン様からの伝言だ。今夜の商館での密談に来い。場所は知っているな」
「ああ」
俺が答えると、ヤンは倒木に寄りかかって、何ということもなさそうに周囲を眺めた。しばらく沈黙が続いた後、彼は思い出したように言う。
「クルトが今朝また「商人とも繋がってんですか」と俺に聞いてきたぞ。お前の仲間は目ざといな」
「傭兵は食えるうちに食っておくものだ」
「なるほど。実に東洋的な処世訓だ」
ヤンは薄く笑い、踵を返した。木々の間に消えていく後ろ姿は、まるで最初からそこにいなかったかのように、あっさりと森に溶けた。
―――
四月下旬、戦線離脱
俺が稼いだ時間によって、カトリック軍の本体が動きを緩めたまさにその時、俺は「脱走」の引き金を引いた。
斥候戦の最中、俺の小部隊は敵の別動隊と激突し、乱戦に陥っていた。周囲は硝煙と怒号に包まれ、誰がどこで死んでいるかも分からない混沌。
「俺が裏から回り込んで敵の銃兵を叩く! お前たちはここで持ちこたえろ!」
仲間の傭兵たちにそう叫ぶと、俺は一人で鬱蒼とした森の奥へと消えた。それが、彼らが戦士としての俺を見た最後の姿となった。
俺はそのまま戦線を離脱し、マンスフェルト軍のバッジを泥の中に投げ捨てた。二重契約の実行、商会との合流地点へ向けて、新緑の山道を牙を剥いた狼のように疾走した。
―――
プラハの西、険しいボヘミアの森の入り口にある、古びた炭焼き小屋。ここがオランダ商会の指定した隠れ家だった。
夜霧が立ち込める中、俺が小屋の扉を定めの暗号(刀の柄頭で三回、次いで二回叩く)でノックすると、内側から扉がゆっくり開き、銃口を向けたハールセンの護衛兵が俺の顔を確認して、安堵の息を漏らした。
「遅かったな、東洋の兵よ」
部屋の奥からは、あのジャガイモと干し肉で完璧に偽装された密輸馬車、そして書類の革鞄を抱えたハールセンが姿を現した。プラハのオフィスは完全にもぬけの殻だという。
「戦場で死んだかと思ったぞ。だが、これで役者は揃った」
ハールセンは俺に、あらかじめ用意されていた「オランダの裕福な商人の私兵」としての新しい身分証と、鎧を覆い隠すための上質な旅用マントを投げ渡した。
「カトリック軍はマンスフェルトをピルゼンに釘付けにしたと思い込んでいる。奴らの目が前線に向いている今こそ、この南西の山道(密輸ルート)を抜けてニュルンベルクへ向かう。ここから先は、ハプスブルクのパトロールが網を張っている地獄の行軍だ。お前のその刀で、俺たちの道を切り拓け」
その時、小屋の隅でくぐもった笑い声がした。
ランプの薄明かりの中、柱に背を預けて腕を組んでいたのはヤン・デ・フリースだった。
「七日以内と言っておいて、五日で来るとはな。さすがだ」
「たまたまだ」
「そう言うことにしておこう」
ヤンは軽く肩をすくめ、ハールセンに向き直った。
「ルートの最終確認を。南西の山道、修道院の手前に橋が一本ある。あそこの橋番は昨日銀貨で片をつけておいた。問題ない」
「よし」とハールセンが頷く。「国境手前のルター派守備兵については?」
「八人。寝返り組だ。ザクセンの風向きが変わってから頭がおかしくなっている。真面目な話、交渉で動く連中ではない」
二人のやりとりを聞きながら、俺はマントを羽織り、日本刀を腰にしっかりと固定した。マンスフェルトの犬から、商会の冷徹な牙へ。1620年四月、俺たちは崩壊するボヘミア王国を背に、闇に紛れて死の山道へと足を踏み入れた。
―――
五月中旬、ボヘミア国境に近い険しい山間の渓谷。
俺たちが護衛する「ジャガイモと干し肉」に偽装された資産馬車は、ニュルンベルクまであと一歩のところまで迫っていた。
しかし、国境の古い関所には、ザクセンの裏切りによってハプスブルク側に寝返ったルター派の国境守備兵、約八人が陣を敷いていた。ここを突破しなければ、ニュルンベルクへは入れない。ハールセンが冷たい目で俺を見た。言葉は不要だった。俺は旅マントを脱ぎ捨て、腰の日本刀と懐の短銃の感触を確かめた。
五月の冷たい朝霧が、渓谷の石造りの関所を包み込んでいる。
「止まれ! 荷を検分する。おい、そこの馬車、中身を見せろ!」
守備兵の下士官が、ハルバードを構えて馬車に近づいてくる。御者が怯えた顔で手綱を握り直した。
馬車の影から、俺は音もなく歩み出た。
「貴様、マンスフェルトの制服……いや、違うな。何者だ!」
守備兵が色めき立ち、マッチロック式の短銃を構えようとする。
その瞬間、俺の右手が懐の短銃を引き抜いた。
ズドン、と激しい硝煙とともに鉛の弾丸が下士官の胸甲を撃ち抜き、男は仰向けにひっくり返った。
銃声が霧の渓谷に響き渡る中、俺は空になった短銃を投げ捨て、同時に日本刀を真っ直ぐに抜いた。
「う、撃て! 構わん、撃ち殺せ!」
狼狽した二人の銃兵が火縄銃を向けようとするが、俺の踏み込みの方が圧倒的に早かった。
重心を低く保ち、泥を蹴りながら間合いを詰める。日本刀の刃が斜め下から跳ね上がり、一人目の銃兵の顎の下から喉笛を深く切り裂いた。返り血を浴びながら、そのまま身体を鋭く反転させる。二人目の銃兵が引き金を引くより早く、戻りの横一文字が男の両腕を肘の上から断ち落とした。地面に落ちる銃と、絶叫する兵士。
残る守備兵たちが槍を構えて突っ込んでくるが、俺の後方から、馬車に潜んでいた商会の護衛兵たちがフリントロック式のピストルを一斉にぶっ放した。激しい銃撃が霧を切り裂く。
俺はその混乱の隙を突き、槍の穂先を紙一重でかわしながら敵の懐へ侵入。古流柔術の体捌きで敵の軸足を払い、転倒したところを胸甲の隙間、首元へ刀を突き立てて息の根を止めていった。
わずか数分の地獄絵図。霧が晴れる頃には、関所の周りには寝返った守備兵たちの骸だけが転がっていた。俺は刀の血を敵の外套で拭い、静かに鞘へと収めた。
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ニュルンベルク入城、敗者への死体蹴り
五月末、俺たちの馬車はついにボヘミアの地獄を抜け、堅固な城壁に囲まれたプロテスタントの帝国自由都市、ニュルンベルクへと入った。
商会の秘密拠点の地下室にて、ジャガイモの袋が退けられ、オーク材の木箱が次々と運び出された。中から現れたのは、プラハから無傷で運び出された大量の金塊、そしてプロテスタント諸侯たちの弱みを握った莫大な「秘密帳簿」と「借用書」だ。ハールセンは帳面を繰りながら、安堵の笑みを浮かべた。
「見事だ、東洋の兵よ。お前の刀のおかげで、我が商会は破滅するボヘミアからすべての資産を救い出すことに成功した」
その傍らで、ヤン・デ・フリースは木箱の数をひとつひとつ指折り数え、帳簿と照合していた。仕事が終わった後でも、この男の目に緩みはない。
「過積載が一箱ある。どこかで差し替えが入ったな」
ハールセンが眉をひそめると、ヤンは即座に該当の箱を開け、底板を外してみせた。金塊の下に、封蝋のない書状が一束。
「国境の橋番が保険をかけていた。余計なものだ。焼いておく」
ヤンはそれだけ言って書状を暖炉に放り込んだ。火が青白く揺れ、封書はあっという間に灰になった。
「……手際がいいな」
思わず俺が言うと、ヤンは振り返らずに答えた。
「お前が戦場で人を斬るのと同じだ。躊躇したら死ぬ。それだけのことだよ、東洋の旦那」
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オランダ商会のプラハ・オフィス撤退はこれで完全に完了した。しかし、ハールセンたちの本当の仕掛けはここからだった。彼らは、プラハに残されたフリードリヒ五世と新教派貴族たちがこの先ハプスブルク家に敗北し、広大な領地や財産を没収される未来を確信していた。
商会はニュルンベルクの地下で、どの貴族がどの土地を失うかの査定リストをいち早く作成。戦後、勝利側となるハプスブルク家やカトリック諸侯に取り入り、没収された鉱山や肥沃な土地を二束三文で買い叩くための交渉準備に着手した。
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さらに、プラハで逃げ遅れた新教派貴族たちの「借用書」を盾に、「お前たちの命を救う裏ルートを手配する代わりに、敗戦後にハプスブルクの手が届かない海外の資産や残された利権を商会へ委譲しろ」という冷酷な裏取引の網を張り始めた。
俺はその打ち合わせを横目で見ながら、一人で剣の手入れをしていた。ヤンがそこに歩いてきて、俺の隣に腰を下ろした。
「馬鹿げていると思うか」
「何が」
「死にかけている人間を助けると見せかけて、資産を根こそぎ奪う。そういう商売のことだ」
俺は砥石を動かしながら、しばらく考えた。
「戦国の世でも、似たようなことは腐るほど見てきた。負けた側の城下には翌朝から商人が押し寄せる。焼け跡の土地を値踏みしながら」
「東洋も西洋も変わらないな」
「人間だからな」
ヤンはそれを聞いて、低く短く笑った。豪快でもなく、皮肉でもなく、ただ疲れを含んだような笑いだった。
「東洋の旦那、一つ聞いていいか」
「何だ」
「お前はこの戦争が終わったらどうする」
俺は砥石を置いて、刃先に目を走らせた。曇りひとつない研ぎ上がりだ。
「次の戦場を探す。それだけだ」
ヤンはしばらく黙っていた。
「そうか。……俺は商会を辞めようと思っている。こういう仕事は、長くやると何かが腐る」
「腐る前に辞めるのが賢い」
「賢い連中は最初からこういう仕事をしない」
そう言って、ヤンは立ち上がった。外套を整え、帽子を目深にかぶる。どこから見ても、ただの行商人だ。
「世話になった。生きていたらまたどこかで会うだろう」
「ああ」
1620年五月。ボヘミア王国が死へのカウントダウンを刻む中、俺とオランダ商会は一足先に泥船を脱出し、安全な地へとたどり着いた。しかし、敗者の骸からさらに最後の肉を剥ぎ取るような商人の執念を目の当たりにし、俺はこの戦争の本当の恐ろしさを知ることになる。




