第63話 春の血戦と裏切りの契約書
1620年三月、長かったボヘミアの冬がようやく終わりを告げ、雪解けの季節がやってきた。だがそれは同時に、両陣営が冬の間に蓄えてきた牙を剥く「春の大攻勢」の開幕を意味していた。
政治的な孤立が決定的となったプロテスタント陣営(ボヘミア・マンスフェルト軍)に対し、カトリック同盟の最高指揮官ティリー伯、そして皇帝軍のブクア伯が、本格的な軍事行動を起こし始めた、運命のひと月だ。
バイエルン公マクシミリアン一世と名将ティリー伯率いるカトリック同盟軍の精鋭たちが、街道の泥濘が引くと同時に、ついにボヘミア国境へ向けて一斉に進軍を開始した。彼らの狙いは、ボヘミアの防御線を外側から各個撃破し、首都プラハを孤立させることだ。
一月に俺がもたらした皇帝軍の進軍計画(暗号書)に基づき、新教派の総司令官トゥルン伯とマンスフェルトは防衛陣形を組み替え、カトリック軍の予想進軍ルートに急遽、砦や陣地を築いた。しかし、慢性的な資金不足と兵の飢えは解消されておらず、戦力差は開く一方だった。
そのさなか、プラハ宮廷のフリードリヒ五世は、オランダやイングランド、さらには北欧のプロテスタント諸国へ向け、「春の攻撃を耐え抜くための義勇兵と軍資金」を求める緊急の使節団を矢継ぎ早に派遣していた。しかし、二月にザクセンが寝返った影響は大きく、周囲の諸侯はボヘミアを「見捨てられた船」と見なし始めていた。
泥濘の遅滞戦
三月中旬、南ボヘミアの渓谷。雪解け水で激流と化した川沿いの防衛拠点。
俺の任務は、新陣形へ移行するための時間を稼ぐため、進撃してきた皇帝軍の先遣重装歩兵(テルシオの槍兵・銃兵)の進軍を、文字通り「命を賭して遅らせる」遅滞戦闘だった。
春のぬかるんだ泥と、残雪が混ざり合う最悪の足場の中、血生臭い白兵戦が勃発する。
冬の終わりを告げる冷たい雨が、俺のジャック・オブ・プレーツ(鉄片内袋鎧)を容赦なく濡らす。足元は深い泥。甲冑をつけたヨーロッパの兵士たちが足を取られる中、俺は重心を低く保ち、静かに日本刀を抜いた。
霧の向こうから現れたのは、皇帝軍の頑強なスペイン式槍兵たちだ。長さ四メートルを超える長槍の穂先が、容赦なく俺たちの急造陣地へと突き出される。
「突き崩せ! プラハへの道を拓け!」
長槍の密集陣形が迫る。まともに受ければ串刺しだ。俺は正面からぶつかるのを避け、泥に濡れた岩場を蹴って跳躍した。敵の長槍の軌道の上をすり抜け、その「懐」へと一気に着地する。
「……トォッ!」
泥を撥ね上げながら、俺は刀を横一文字に薙いだ。
研ぎ澄まされた日本刀の刃が、先頭の槍兵が持つ木製の槍柄を、斜めに一刀両断する。武器を失い驚愕する敵の顔面へ、戻りの刃が襲った。兜の錣の隙間、首筋を深く切り裂かれた兵士が、どさりと泥の中に崩れ落ちる。
「東洋の曲者がいるぞ! 銃兵、撃て!」
後方からハルバードを持った下士官が叫び、マッチロック(火縄銃)を構えた銃兵が足を止める。俺は即座に、倒れた槍兵の重い鉄製胸甲を左手で掴み、盾代わりに引きずり起こした。
ズドォン! と激しい銃声と共に鉛の弾丸が死体の胸甲にめり込み、激しい火花が散る。
その硝煙の隙間を縫い、俺は死体を敵へ投げつけるようにして突進した。ハルバードを振り下ろそうとした下士官の右腕を、すれ違いざまに肩口から斜めに叩き斬る。
溢れ出る鮮血が、まだ溶け残っていた白い雪をどす黒く染めていく。
狭い渓谷の道に死体が積み重なり、それが敵の重い陣形の進軍を物理的にストップさせた。俺たちが泥にまみれて執念の抵抗を続けたことで、カトリック軍の先遣隊は「これ以上の前進は危険」と判断し、一時撤退を余儀なくされる。春の最初の血戦は、辛うじて防衛側の勝利で幕を閉じた――。
敵が引いた後、俺は泥まみれの岩に腰を下ろし、刀の血を拭った。と、背後からどしどしと重い足音が近づいてきた。
「スケハル! 生きてたか! いや、お前が死ぬとは思ってなかったけど!」
クルトだ。同じ遅滞部隊に配属されたドイツ人傭兵で、身の丈六尺近い大男のくせに、いつも妙なところで間が抜けている。今日も兜の顎当てが半分外れたまま走ってきた。
「お前、さっき槍兵の懐に飛び込んだろ。あれ、死ぬ気か思ったぞ。なんで生きてんだ」
「足場を読んだ」
「足場ぁ? 泥じゃねえか、全部」
「泥にも硬いところと柔らかいところがある」
クルトは口をぽかんと開けてから、「……東洋人ってよく分からんな」と首を振った。
撤退する敵の背中を見送った後、俺は鞘に刀を収めながら、じわりと滲む左手の傷に目を落とした。泥と血が混じり合い、もはやどちらがどちらか判然としない。
「……相変わらず、無茶をする」
不意に別の声がした。振り返ると、渓谷の上手の岩陰に、灰色のマントを羽織った男が立っていた。ヤン・デ・フリースだ。商会のエージェント。この男がいつの間にか戦場の傍まで来ていることなど、今さら驚くに値しない。
「見ていたのか」
「最初から。なかなか見事な捌きだった。ただ、観劇するよりも先に、あなたに話しておきたいことができてね」
ヤンは薄く笑いながら、懐から折り畳んだ紙を取り出した。俺がそれを受け取ると、彼はすぐに踵を返す。
「詳しくは、今夜。ハールセンから直々に話がある。商館に来てくれ」
彼の姿が霧の中へ溶けるように消えていく。俺は広げた紙を一瞥した。そこには一言だけ、オランダ語でこう書かれていた。
――「Xデーが近い(De Dag X nadert)」。
傍らでクルトが覗き込んできた。
「なんだそれ、暗号か? お前、商人とも繋がってんの?」
「傭兵は食えるうちに食っておくものだ」
「……なんか怖いこと言うなあ、お前は」
クルトは首をすくめ、外れかけた顎当てをがちゃりと直しながら歩いていった。
裏の契約
この三月、前線の泥沼化とカトリックの大軍の始動を見て、オランダ商会の幹部たちはプラハからの「完全撤退」のXデーを算定し始めていた。
商会は俺に対し、マンスフェルト軍としての給料(それすら滞っている)とは別に、「商会の金庫番と機密文書を、プラハ陥落の直前に生きてドイツ西部のプロテスタント都市(ニュルンベルク等)へ送り届ける」という、破格の報酬(金貨)を伴う秘密の私兵契約を正式に結ばせていた。
商会のソロバンはすでに、この戦争の「戦後処理」へと向かっていた。彼らは俺を、前線で無駄死にさせる駒ではなく、確実に利権を回収するための「最後の切り札」として温存し始める。
1620年三月。雪解けの大地は、これからヨーロッパを30年間にわたって焼き尽くす本物の地獄の火に、ついに火をつけられたのだ。
夜、商館の暖炉が音を立てている。
「……マンスフェルト軍としての給料(あんなはした金)のことは忘れろ、兵よ」
ハールセンは、羽ペンをインクに浸しながら静かに囁く。
「この二月でザクセンが寝返り、ティリー伯のバイエルン軍が動き出した。暗号書が示した通り、春の大攻勢が始まればボヘミア(この国)は長く持たん。マンスフェルト将軍は有能だが、彼もまた金で動く男だ。いざとなればピルゼンを捨てて逃げ出すだろう」
彼は契約書を俺の目の前へと滑らせた。そこには、見たこともない額の「オランダ・ギルダー銀貨」の数字、そして俺の偽名が記されていた。
「我が商会はボヘミア王フリードリヒを見捨てる。これはその損切りの特命だ。俺たちの狙いは、プラハが陥落するその瞬間、城内の秘密金庫にある『プロテスタント諸侯との莫大な借用書』と『商会の極秘帳簿』、そして金塊を回収し、ハプスブルクの包囲網を抜けてニュルンベルクへ脱出することだ」
ハールセンの目が、怪しく光る。
「お前への依頼は、マンスフェルトの兵として前線で戦い、敵の進軍を遅らせるフリをしながら……『Xデー』が来たら軍を脱走し、商会の金庫番と機密資産を乗せた馬車の護衛へと切り替えることだ。国を裏切り、将軍を裏切る。だが、生き残ればお前は一生遊んで暮らせる富を手にする」
俺が黙ったまま契約書を見つめていると、扉の傍に立っていたヤン・デ・フリースが、おもむろに口を開いた。
「付け加えるなら」とヤンは静かに、しかし正確に言葉を選ぶ。「今日の渓谷でのお前の動きを見て、確信した。ハールセン殿が適任と判断したのは、剣の腕だけじゃない。あの泥の中で、お前は決して無駄に動かなかった。そういう男にしか、この仕事は頼めない」
芝居がかった言い方だが、嘘は言っていないだろう。それがこの男の厄介なところだ。
「ヤン。お前も共犯か」
「私はただの……連絡係ですよ」
口元に薄い笑みを浮かべたまま、ヤンは視線を羊皮紙の契約書へ向けた。それ以上は何も言わない。
俺は無言で契約書を見つめた。
マンスフェルト軍の仲間たちと共にカトリックの大軍に立ち向かい、玉砕するか。それとも、この冷徹な商人の手を取り、泥船からいち早く脱出するか。答えは、この時代を生き抜く傭兵として、最初から決まっていた。
俺は懐から日本刀を引き抜き、その鋭利な切っ先で自身の左手親指の腹を薄く切った。じわりと滲み出る赤い血。それを、羊皮紙の署名欄へと強く押し付ける。
「……話は乗った。プラハが火の海になるその時まで、俺は忠実なマンスフェルトの犬として泥にまみれてやろう」
ハールセンは満足げに口元を歪め、引き出しからずっしりと重い革袋を取り出した。中から覗くのは、眩いばかりのオランダの純銀貨。
「これが手付金だ。そして、これを受け取れ」
彼が銀貨と共に差し出してきたのは、一振りの見事な短銃(フリントロック式ピストル)だった。銃身には、商会の紋章である不気味な獅子の刻印が彫られている。
「来たるべき破滅の日に向けて、牙を研いでおけ、東洋の死神。お前のその『刀』と『二枚目の契約』が、我が商会の命運を握っている」
ヤン・デ・フリースは壁際で腕を組んだまま、俺がその革袋と短銃を受け取る様子を静かに見届けていた。眼鏡の奥の瞳に感情はない。だが、俺が立ち上がりかけたとき、彼だけが低く、短く言い添えた。
「……生きて戻れよ、資晴。死んだ護衛など、商会には一文の得にもならない」
銀貨の重みと、冷たい短銃の感触。
1620年三月。春の嵐が吹き荒れるボヘミアの地で、俺は王国と将軍を売り渡し、破滅する戦場から生き残るための「最後の切り札」となる契約を、闇の中で交わしたのだ。
商館の夜
1620年三月末。春の嵐がプラハの街を濡らす夜、ヴルタヴァ川を臨む一角にあるオランダ商会の表向きの商館は、異様な熱気に包まれていた。
昼間は平穏を装っているが、夜の帳が下りると同時に、すべての窓に厚手の遮光カーテンが引かれる。部屋の中央では、数日前に俺がヴァン・ハールセンと血の密約を交わしたあの暖炉が、今夜もパチパチと音を立てて書類の山を灰に変えていた。
「おい、そっちの箱はもういい! 早く紐で縛れ!」
商会の金庫番や書記官たちが、血走った目で帳簿を仕分け、頑丈な革袋やオーク材の木箱へ詰め込んでいる。俺はマンスフェルト軍の制服のまま、部屋の入り口に寄りかかり、腕を組んでその様子を監視していた。いつでも日本刀と、懐の短銃に手をかけられるように。
これから始まるのは、ボヘミア崩壊を見据えた「プラハ・オフィス完全撤退作戦」の泥臭い舞台裏だ。
ヤン・デ・フリースは部屋の奥、帳簿の山の傍で一人、細かい文字を走り書きしていた。誰かへの報告書か、それとも別の何かか。俺が視線を向けると、彼は目を上げることなく言った。
「気にしなくていい。お前が見ても読めない暗号だ」
「そうか」
「……ただ、一つ教えておく。もし今夜、外から誰かが来たとしても、私が先に対応する。お前は荷物から目を離すな。それだけだ」
念を押すでもなく、命令するでもない。だが、その一言には確かな意味が込められていた。この男は、いつでも自分の役割を正確に把握している。
灰にするもの、残すもの
ハールセンの指示は冷酷かつ的確だった。
「カトリックの連中に、我が商会がどの新教徒貴族にいくら貸し付けていたかの記録を渡すわけにはいかん。没収された領地から債権を回収する際、奴らに先手を打たれるからな」
商会の若手書記官たちが、膨大な顧客リストを二つに分けていく。オランダ本国やドイツ西部の銀行でまだ決済可能な「生きた債権(為替手形や信託状)」は、厳重に油紙に包まれて金庫番の特製トランクへ。すでに回収不能と判断されたボヘミア地方貴族の古い領地担保書などは、容赦なく暖炉の火へと放り込まれた。
部屋に充満する、羊皮紙が焦げる特有の酸っぱい臭い。俺はその灰を、火かき棒で徹底的にすり潰す。ハプスブルク家の審問官やスパイが後から侵入しても、一文字たりとも読ませないためだ。
その作業を黙々と続けていると、ヤンが横に来て火かき棒を奪った。
「貸せ。お前がやると、灰が飛び散って床が汚れる」
彼は慣れた手つきで灰を散らさぬよう丁寧にすり潰し始めた。この男は普段こういった地味な作業を自らやる男ではないはずだが、今夜はそういう晩らしい。
「ヤン、お前は何回、こういうことをやってきた」
「……さて、何回だろうな」
それだけ言って、彼は答えを濁した。どうやら相当な回数らしい。
金塊はジャガイモの下に
商館の地下倉庫では、さらにきな臭い作業が進んでいた。
ここに保管されているのは、プラハ宮廷から担保として差し押さえた、あるいは融資の利子として回収した大量の銀貨の詰まった樽と、未加工の金塊だ。これをそのまま馬車に積めば、街道にたむろする飢えた傭兵や、カトリックの斥候に「襲ってください」と言っているようなものだ。
ハールセンは、手慣れた手つきで金塊の箱の上に、ボヘミア名産の干し肉や、泥のついたジャガイモの袋を大量に積み上げさせた。
「検問に引っかかったら、これはマンスフェルト軍の前線へ運ぶ『ただの安物の兵糧』だと言い張る。前線の兵士の口に入るものなら、皇帝軍のケチなパトロールも中身をすべて引っ繰り返して調べるような面倒は避けたがるからな」
俺はその荷台の構造を確認した。外見はただの薄汚れた仕出し馬車。だが、座席の下の隠し銃架には、俺がいつでも引き抜けるように装填済みの短銃が三丁、仕込まれていた。
ヤン・デ・フリースは荷台の脇で、ジャガイモの袋をひとつ手に取り、軽く持ち上げてみながらつぶやいた。
「ジャガイモの袋と金塊の重さは随分違う。検問の兵が少しでも勘が良ければ気づく」
「それで、どうする」
「金塊の周りにわざと軽いものを詰めて、全体の重量を均等に近づける。荷台の重さが妙に一定だと、それはそれで怪しい。適度に偏りをつける方が自然に見える」
そこへ、地下倉庫の入り口から顔を突っ込んできた者がいた。クルトだ。今日は夜番の当直を抜け出してきたらしく、ランタンを手に、目を丸くして荷台を見回している。
「……なんか、ジャガイモがやたら多くないか?」
「前線の兵糧だ」と俺は即座に答えた。
「こんな夜中に? しかも地下に?」
「腐りにくい場所に保管している」
「ふーん……」
クルトは首を傾けながら、積み上がったジャガイモの袋をひとつ持ち上げようとした。ヤンが素早く割り込んで、にこやかに笑いかけた。
「重くて大変でしょう。ご苦労様です、クルト殿。当直の持ち場は別でしょうから、どうぞお戻りを」
「あ、はあ……すんません」
クルトはなぜか敬語になりながら引き下がっていった。ヤンは彼の背中が消えるのを確認してから、静かに言った。
「……あれが、毎晩うろうろしているのか」
「悪い男じゃない。ただ、少し好奇心が過ぎる」
「好奇心は人を生かしも殺しもする。彼には当面、知らないままでいてもらった方がいい」
なるほど、この男は細かいところまで考えている。俺は黙って彼のやり方を見ながら、その手順を頭に叩き込んだ。
密輸商人の山道
作業の合間、ハールセンは俺を机の上のボヘミア全図の前へと呼んだ。
「見ろ、東洋の兵よ。これが来月以降、お前が俺たちを護衛して駆け抜けるルートだ」
彼の指が指し示したのは、通常のニュルンベルクへと続く大街道(西ルート)ではなかった。そこはすでにザクセンの裏切りとバイエルン軍の進軍によって、いつ封鎖されてもおかしくない危険地帯だ。
あえて南西の険しいボヘミアの森を抜け、中立を保っている小諸侯の領地を縫うようにしてドイツ西部のプロテスタント都市へと至る、密輸商人が使う山道だ。
「険しい道だが、お前のその『氷の上でも動ける足捌き』と隠密性があれば、敵の斥候を無音で処理しながら進める。前線でマンスフェルト将軍が派手に防衛戦をやっている隙に、俺たちはこのルートからプラハを抜け出す」
地図を覗き込んでいたヤン・デ・フリースが、無言で一点を指でなぞった。
「ここに、小さな修道院がある。表向きは中立だが、商会の古い取引先でね。万が一、追っ手が来た場合に一晩匿ってもらえる手筈は整っている」
「保証は?」
「金だ。事前に相応の額を払ってある。神に仕える方々も、銀貨には正直なものでね」
言いながら、ヤンは薄く笑った。諦念とも皮肉ともつかない笑みだった。
発火を待つ日々
夜明け前。すべてのパッキングが終わり、オフィスは何事もなかったかのように綺麗に片付けられた。机の上には、カモフラージュのための数枚の「偽の取引書」だけが残されている。
馬車は商館の裏手にいつでも発車できる状態で待機し、御者には「いかなる時も馬の手綱を離すな」と厳命が下った。
ハールセンは、旅装(旅行用の厚手のマント)を羽織り、俺の肩を叩いた。
「準備は整った。明日からはまた、マンスフェルトの忠実な兵隊の顔に戻れ。だが忘れるな、プラハの空に『赤い煙(ハプスブルク軍の接近)』が上がった瞬間が、俺たちの契約本番だ」
俺は静かに頷いた。
出口へと向かいかけたとき、ヤン・デ・フリースが廊下の端に立っており、すれ違いざまに短く言った。
「資晴。今夜のことは忘れるな。だが、忘れているふりをしておけ。特にマンスフェルト将軍の前では」
「言われなくても分かっている」
「……そうだな」
彼は一瞬だけ、俺を正面から見た。その瞳の奥に何があるのか、今の俺には読めない。ただ、この男が単なる「連絡係」ではないということだけは確かだった。
商館の外へ出ると、夜明け前のプラハの石畳は雨に濡れ、遠くでヴルタヴァ川が音を立てていた。
少し先の角を曲がったところで、当直明けらしいクルトが欠伸をしながら歩いてきた。
「あ、スケハル。朝飯どうする? 昨日のジャガイモがまだ余ってるけど」
「……いらない」
「そうか。なんか顔色悪いぞ、お前」
「夜通し仕事だった」
「ご苦労さん。まあ、生きてりゃ飯は食えるからな」
クルトはそれだけ言って、あっさり反対方向へ歩いていった。
――生きてりゃ、か。
俺は日本刀の柄の感触を確かめながら、再び泥濘の前線へと戻るべく、夜明けのプラハの街へと歩き出した。
俺たちの「本当の戦い」の舞台が、水面下で完成した瞬間だった。
1620年三月。ヨーロッパを三十年間燃やし続ける地獄の幕は、静かに、しかし確実に上がり始めていた。




