第62話 雪原の暗殺者
一月 凍てつく街道の「情報・物資強奪戦」
一月中旬。ピルゼンからプラハへと続く、雪に埋もれた林道。
大規模な戦闘がないからこそ、一通の手紙、一車分の食料をめぐる小部隊同士の「裏の戦争(斥候戦)」は激化していた。
俺のような近接戦のスペシャリストは、オランダ商会の特命を受け、皇帝軍(カトリック側)がウィーンの本営からボヘミア内の前線(ブクア軍)へ派遣した「秘密伝令兵」の暗殺と、暗号書の強奪任務に就いていた。
出発の前夜、俺に任務を言い渡したのは商会のエージェント、ヤン・デ・フリースだった。プラハの安宿の一室、蝋燭一本だけが灯る薄暗がりの中で、彼は地図を広げることもなく淡々と告げた。
「伝令は三騎構成。うち一人が将校で、暗号書を持っている。問題は護衛の二人だ――キュラシエだよ。重い。面倒だろう?」
「給料分は働く」
「そうじゃなきゃ困る」とヤンは薄く笑い、羊皮紙を一枚だけ俺の前に滑らせた。通過予定の街道と、おおよその時刻。「生け捕りは不要。書簡だけ持って戻ってきてくれれば、それで十分だ。東洋の君が雪の中で何をするかは、私は知らない」
――つまり後始末の責任は負わない、ということだ。商会の人間らしい物言いだった。
―――
月光が雪原を青白く照らし、吐き出す息が一瞬で凍りついて白い粉になる。
俺は純白の外套(ギリースーツの役割を果たす布)をまとい、街道脇の雪壕の中に完全に気配を消して潜んでいた。耳をすませば、脈拍まで凍りつきそうな静寂の奥に、やがて乾いた音が滑り込んでくる。雪を固く踏みしめる蹄の音だ。遠い。だが確実に近づいている。
皇帝軍の伝令将校と、それを護衛する二騎の鉄甲騎兵。彼らは凍える寒さの中、馬の鼻に布を巻き、音を殺してプラハ方面の密偵へと向かっていた。息の白い痕跡だけが、夜気の中にしばらく漂ってから消えていく。
馬が俺の横を通り過ぎる――その刹那、雪が爆発した。
「……!」
俺は雪中から跳ね起きると同時に、殿の騎兵の馬の鼻面へ、手にした日本刀を真下から突き上げた。鈍く重い手応え。狂奔する軍馬。落馬する巨躯の騎士が夜の街道に轟音を立てて転がる。
驚いた先頭の伝令将校が、凍りついた手で慌ててフリントロック式ピストルを引き抜こうとする。だが、俺が雪を蹴って間合いを詰める速度の方が圧倒的に早かった。
抜刀の勢いをそのまま乗せた、斜め一文字の斬撃。
研ぎ澄まされた刃が、将校の厚い防寒着ごと右腕を肘の上から叩き斬る。雪原に転がる銃と、切断された腕。白い地に赤が散った。
「化け物め……!」
残る一騎の護衛が重いブロードソードを振り下ろしてくるが、俺は日本の「組討」の要領で、落馬して立ち上がろうとしていた一人目の騎士の体を盾として引きずり込んだ。ガキィン、と身内同士の鉄甲がぶつかり合う鈍い音が響く。
怯んだ隙を見逃さず、俺は盾にした騎士の兜の隙間へ刀を突き立てて絶命させ、そのまま刀を引き抜きざまに、三人目の馬の脚を薙ぎ払った。
わずか数十秒。
静寂の雪原に残されたのは、三体の骸と、湯気を立てる赤い雪だった。俺は物言わぬ伝令将校の懐から、オランダ商会が血眼で探していた「皇帝軍の春の進軍計画」が記された革袋(書簡)を毟り取り、再び闇へと消え去った。
―――
1620年一月、極寒のプラハ。ボヘミアの首都は、降り積む白雪と、間近に迫るハプスブルク軍の影に怯え、静まり返っていた。
一月のオランダ商会は情報戦に全精力を注いでいた。春にカトリック同盟(バイエルン軍)がどのルートからボヘミアへ侵攻してくるのか、商会のネットワーク(ニュルンベルクやフランクフルトの商人)を使ってスパイ活動を展開していたのだ。そして俺が奪取した皇帝軍の秘密書簡は、その最大の成果となる。
―――
1620年一月下旬、プラハからニュルンベルクへと続く、雪深きボヘミアの街道。
前年十二月に決定されたオランダ商会の「損切り(資産回収)」方針に基づき、俺は極秘の脱出馬車を護衛していた。馬車の荷台に積まれているのは、ボヘミア王の二の舞を避けるべく回収された金塊、そしてプロテスタント諸侯との莫大な貸借関係が記された「秘密帳簿」。これがカトリック(皇帝軍)に渡れば、商会の息の根は止まる。
深夜、猛吹雪が街道のすべてを白く染める中、最悪の事態が発生した。
ハプスブルク家の息がかかった精鋭の重装騎兵と、夜間の略奪を専門とするクロアチア軽騎兵の混成部隊、約十五騎。彼らは商会の動きを察知し、退路を断つべく林道に待ち伏せ(アンブッシュ)を仕掛けていたのだ。
「敵襲! 馬車を死守せよ!」
御者の悲鳴と共に、闇の向こうから黒い鉄甲に身を包んだ騎兵たちが、雪を蹴立てて突撃してくる。吹雪の中、銃兵が火縄銃を構える猶予などない。馬車の車輪が泥と雪に捕まり、完全に孤立した狭い街道で、絶体絶命の防衛戦が始まった。
俺は馬車の屋根から雪原へと音もなく飛び降りると同時に、日本刀を鋭く引き抜いた。
―――
襲いかかる最初の波は、機動力を活かしたクロアチアの軽騎兵二騎。一人が落馬を狙い、凍てつくサーベルを斜めに振り下ろしてくる。
俺は下がらない。あえて突進してくる軍馬の懐へと滑り込み、上半身をわずかに右へ開いて刃をかわす。すれ違いざま、刀の刃を真上へと跳ね上げ、防具のない馬の腹部を深く切り裂いた。
「ヒヒィーン!」
狂乱した軍馬が転倒し、乗り手が雪原へ叩きつけられる。その男が起き上がるより早く、俺の鋭い踏み込みが、男の首筋を無慈悲に一文字に断ち切った。温かい鮮血が、白い雪を瞬時に赤く染める。
「次だ!」
二人目の軽騎兵が、馬を旋回させて俺の背後から襲いかかる。しかし、俺の耳は吹雪の音の奥にある「雪を踏む正確な蹄の音」を捉えていた。
振り返りざま、刀を順手から逆手へと素早く持ち替える。突っ込んでくる馬の胸元へ、己の体重のすべてを乗せた突きを放った。強靭な日本刀の切っ先が、馬の胸の肉を貫き、心臓に達する。馬は棒立ちになり、そのまま後ろへと倒れ込んだ。
「うおぉ! 東洋の悪魔め!」
地鳴りのような足音と共に、本命が迫る。全身を黒い鉄甲で固めた、皇帝軍の重装騎兵だ。馬体ごと俺を押し潰さんとする圧倒的な質量。彼らはジャック・オブ・プレーツ(鉄片内袋鎧)など歯牙にもかけない重いブロードソードを頭上から振り下ろしてきた。まともに受ければ、刀ごと肉体を叩き割られる。
俺は日本の古流武術の体捌きを繰り出した。
刃が触れる寸前、左へ鋭くステップし、相手の剣の風圧を頬に感じながら、敵の馬の「右横(死角)」へと回り込む。
重装騎兵の鎧の最大の弱点――それは、激しい動きを可能にするために、「脇の下(腋窩)」が鎖帷子のみ、あるいは完全に露出している点だ。
「ハッ!!」
短い呼気と共に、下から上へと突き上げるような一撃。研ぎ澄まされた日本刀の切っ先は、黒い鉄甲の隙間、敵の右脇の下へと吸い込まれるように滑り込んだ。
手応えがあった。刃は鎖帷子を食い破り、騎士の心臓を確実に貫通した。
「が、はっ……」
騎士は重い剣を手放し、鉄の塊となって落馬した。
わずか数分の間に、敵の突撃の先頭にいた四騎が一瞬で屠られた。吹雪の闇の中から現れ、ヨーロッパの騎士たちが見たこともない速度と軌道で命を奪っていく東洋の剣士。その圧倒的な戦闘力に、残るカトリックの騎兵たちは恐怖し、馬の手綱を引いて一歩後退した。
「化け物だ……あれは人間の動きではない!」
敵の戦列に明確な動揺が走る。その隙を見逃さず、俺に率いられた商会の護衛兵たちが、息を吹き返してフリントロック式のピストルを一斉にぶっ放した。
「今だ、馬車を出せ! 駆け抜けろ!」
俺の死守によって時間を稼いだ極秘馬車は、再び車輪を回転させ、雪の進路を猛然と進み始める。背後に重装騎兵の骸を残し、俺とオランダ商会の資産は、ハプスブルク家の冷たい包囲網を力ずくで引き裂き、西欧への脱出ルートへと滑り込んでいった。
夜明け近く、ようやく街道が開けた場所で馬車が速度を落とした。雪の中を早馬で先行していたヤン・デ・フリースが、馬上からこちらを眺めていた。俺の返り血で染まった白い外套を一瞥し、それから骸の数を数えるように街道の後方へ目を向けた。
「十五騎の待ち伏せを、突破したわけか」
「馬車の護衛もいた」
「二人だろう。ピストルを撃っただけの」ヤンは肩をすくめた。「まあいい。帳簿は無事か?」
「無事だ」
「それが聞きたかっただけだ」と彼は言い、馬を返した。感謝の言葉も、労いの言葉もない。だが、その背中には確かな安堵が滲んでいた――金勘定しか頭にない男が、安堵を見せる。それがヤン・デ・フリースという男の、唯一の誠実さだった。
―――
俺は雪原の死闘で皇帝軍の伝令から奪取した革袋入りの秘密書簡――「皇帝軍の春の進軍計画書」を懐に忍ばせ、オランダ商会の幹部と共に、プロテスタント陣営の最高中枢であるプラハ城(フラッチャニの城)へと入った。
絢爛豪華だが、どこか焦燥感の漂う謁見の間。暖炉の炎が赤々と燃えるその部屋で、俺たちを待っていたのは、ボヘミア新王フリードリヒ五世と、軍の総司令官トゥルン伯だった。
―――
謁見 凍てつく宮廷、突きつけられる現実
「よくぞ戻った、オランダ商会の友よ。そして……東洋から来た比類なき戦士よ」
若き王フリードリヒ五世は、高級な毛皮をまとっているものの、その顔には隠しきれない疲労と焦りが刻まれていた。前年八月の華々しい即位から数か月、資金不足とカトリック同盟の脅威に、彼は精神的に追い詰められていた。
俺は一歩前へ出ると、片膝を突き、懐から凍てついた血痕の残る革袋を取り出した。
「王よ、これを受け取りくだされ」
商会の幹部が厳かに告げる。
「我が商会の護衛陣が、命を賭して皇帝軍の隠密伝令から奪い取ったものにございます。ブクア伯がこの春、バイエルンのティリー伯と合流し、いかなるルートでこのプラハを圧殺せんとしているか……そのすべてがこの暗号書に記されております」
トゥルン伯が鋭い手つきでそれを受け取り、机の上の蝋燭の光に照らす。解読を進めるにつれ、老将の顔が驚愕と戦慄で歪んでいった。
「……馬鹿な。ブクアは南からではなく、西のニュルンベルク街道を迂回して我らの防衛線を完全に孤立させる気か! カトリック同盟の歩兵連隊、その数……事前に聞いていた数の倍はあるぞ……!」
―――
激論 崩壊しかけた同盟
「イングランドからの援軍はまだか!? オランダの資金はどうなったのだ!」
フリードリヒ五世が取り乱したように机を叩く。
「王よ、落ち着かれよ!」
トゥルン伯が諫めるが、宮廷の空気は一瞬で氷点下へと叩き落とされた。暗号書が示したのは、新教派の予想を遥かに上回る、カトリック側の「本気の動員数」だった。春になれば、このプラハは文字通り鉄の津波に飲み込まれる。
商会の幹部が冷徹な声で告げる。
「イングランドもオランダも、勝てぬ者にこれ以上の金は貸しませぬ。王よ、この暗号書にある敵の進軍ルートへ、今すぐマンスフェルトの残存兵力を回し、防衛線を再構築なされ。さもなくば……我が商会はこれ以上の融資を完全に打ち切り、プラハから撤退いたします」
それは、事実上の最後通牒だった。
―――
決意の瞬間
王は絶望に目を曇らせ、俺を見つめた。
ジャック・オブ・プレーツの隙間から覗く、数々の修羅場をくぐり抜けてきた東洋の戦士の眼光。その冷徹な佇まいに、王は何かを察したように深く息を吐き、机の上の黄金のメダル――王家の紋章が入った「通行許可証(護衛小隊長の任命証)」を俺に差し出した。
「……わかった。この情報を元に、全軍の配置を組み替える。東洋の兵よ、そなたの忠義と武勲に感謝する。引き続き、商会と共に我が足元を支えてくれ」
頭を垂れてメダルを受け取る俺。しかし、俺の耳には、城外の激しい冬の風の音の向こうに、春になればやってくる「白山の戦い」という、このボヘミア王国の息の根を止める大決戦の足音が、確かな地鳴りとなって聞こえ始めていた。
プラハ城を出ると、石畳の上でヤンが待っていた。謁見には同席せず、外で煙草を吹かしていたらしい。俺の手元のメダルを見て、彼は一度だけ目を細めた。
「任命証か。なかなか」
「王が感謝してくれた」
「感謝はいい。だが」とヤンは煙草の火を雪の上で踏み消し、低い声で言った。「このプラハは、あと数か月ももたない。君も知っているだろう?」
答えなかった。ヤンも答えを期待していなかった。彼はただ外套の襟を立て、冷たい北風の中へと歩き出した。「春になったら忙しくなる。体を大事にしてくれ――君に死なれると、私の損になる」
それだけ言い残して、彼の姿は暗い城外の路地へと消えていった。
―――
二月 凍てつく氷河の「関門防衛戦」
二月下旬。プラハへ続く南の要衝、いまだ凍結している河川に架かる石橋の砦。
ザクセンの裏切りや皇帝軍の増援の動きを察知したマンスフェルトは、春の雪解けと共に敵が殺到する前に、主要な街道の「関門」を物理的に封鎖・破壊するよう命令を下した。俺はオランダ商会の利権――プラハへ続く最後の安全な交易路――を守るため、この凍りついた石橋の砦で、偵察を兼ねて強行突破を試みてきた皇帝軍の先遣精鋭部隊(山岳歩兵と銃兵)と激突することになる。
―――
氷の石橋、吐息も凍る超近接戦闘
凍結したドナウ川の支流。その上に架かる古い石橋は、薄氷と雪で磨かれた鏡のようになっていた。
霧の向こうから現れたのは、白い防寒外套の下に胸甲を隠した皇帝軍の精鋭歩兵、約十人。彼らは橋の対岸に臨時の陣地を築こうと、障害物を運び込んでいた。ここで拠点を確保されれば、春に敵の本体がノーチェックでプラハへ流れ込むことになる。
「橋を渡らせるな。ここで叩く」
俺は短く仲間に告げると、白い雪を蹴って石橋へと躍り出た。
敵の銃兵が慌てて火縄銃を構えるが、寒さで火縄の点火が狂う。その一瞬の遅れを、俺の俊足が見逃すはずはない。
スケートリンクのように滑る石畳の上を、俺は日本の古流武術の足捌き――重心を低く保ち、滑りを推進力に変える――で滑走した。
「……フッ!」
すれ違いざまの一閃。銃を構えたままの兵士の、防具のない首筋を日本刀の刃が滑るように切り裂いた。防寒具の毛皮ごと肉を断たれた男が、石壁に激突して川面の氷の上へと真っ逆さまに落ちていく。
「なんだこの速度は!? 囲め、突き殺せ!」
二人の歩兵が、ハルバードとショートソードを同時に突き出してくる。足場は氷。普通のステップを踏めば転倒する状況で、俺は刀を両手で強く握り込み、あえて正面から敵の武器の交差点へと突っ込んだ。
敵のハルバードの柄を、刀の鎬で激しく擦り合わせながら受け流す。火花が散る。そのまま敵の懐に密着すると、古流柔術の当身(頭突きと肘打ち)を相手の面当てにぶち込んだ。
顎の骨が砕ける鈍い音が響き、一人の動きが止まる。
もう一人が驚いて剣を引き戻そうとする瞬間、俺は氷の上を滑る勢いをそのまま利用して半回転。遠心力を限界まで乗せた、戻りの横一文字が敵の胴体を襲った。ジャック・オブ・プレーツの布が裂け、中の鉄片が金属音を立てて弾け飛ぶ。肉を深く断ち切られた兵士が、自身の血で赤く染まった氷の上に頽れた。
わずか数瞬の間に前衛を屠られた皇帝軍の残党は、東洋の武芸者が氷の上で自由自在に舞う姿に畏怖を覚え、対岸へと這うようにして撤退していった。
俺は冷たい風に刀の血をさらし、凍りつく前に素早く拭い取った。
石橋の上には静寂が戻り、血に染まった氷だけが赤黒く凝固していく。春の大攻勢まで、この関門は守り切らなければならない。だが、眼前に広がる冬の荒野の向こうに、カトリック同盟の黒い影が、じわじわとその輪郭を濃くしつつあることを、俺は肌で感じていた。




