第60話 黄金の季節、破滅の足
三月に皇帝が死んだ隙を突き、ボヘミア軍の総司令官トゥルン伯(新教側)は、数千の精鋭を率いて一気に南下を開始した。
マンスフェルトがピルゼン周辺でハプスブルク軍(ブクア伯)を足止め・牽制している間に、トゥルン伯の別動隊がオーストリア本土へ侵攻。カトリックの総本山であるウィーンの目と鼻の先まで迫った。
四月まで中立を保っていた隣国モラヴィア(現チェコ東部)では、戦況を見てプロテスタント派の貴族たちがクーデターを起こし、ハプスブルク家への臣従を公然と拒否しはじめた。これによりモラヴィアの軍勢も新教側に合流。ウィーンへ向かうトゥルン伯の背後(補給線)が完全に安全となり、新教側の勝勢はいよいよ決定的に見えた。
五月下旬、トゥルン伯の軍勢がついにウィーン郊外に到達した。ドナウ川の対岸を抑え、ウィーンを完全に包囲する。宮殿に取り残された次期皇帝候補フェルディナント二世は、文字通り「生け捕り」にされる寸前まで追い詰められた。
総司令官のトゥルン伯が華々しくウィーンへ進撃している間、俺たちマンスフェルト軍は「最も地味で、最も危険な防衛・攪乱任務」を課されていた。
なぜなら、ハプスブルク軍の名将ブクア伯の主力部隊が、いまだに南ボヘミアに居座っていたからだ。もしブクア軍が動けば、ウィーンを包囲しているトゥルン伯の背中を突かれてしまう。
マンスフェルトは、自軍を実数以上に大きく見せるため、ブクア軍の防衛線や補給路に対して激しいゲリラ戦(小競り合い)を仕掛けていた。俺のような近接戦のスペシャリストは、夜陰に紛れて敵の陣地を強襲し、放火や略奪を行う「おとり部隊」として酷使された。
一方で四月から五月にかけて、新教側の圧倒的優勢を見たオランダ商会(および西欧のプロテスタント諸国)は、「ハプスブルク家はこれで終わりだ」と確信していた。商会はハイデルベルク(プファルツ)を経由して、これまでにない規模の追加融資(軍資金)や、最新の銃弾・火薬をライン川ルートで前線へ送り込み始めていた。
戦場にいる俺のもとには、商会から「ウィーンが落ちたら、宮殿にあるハプスブルク家の家宝や、カトリック教会の利権を真っ先に差し押さえる準備をせよ」という、いかにも気の早い秘密の命令書が届いていた。だが、俺は結果を知っていた。だから「ウィーンが落ちたら動くよ」と安請け合いはしなかった。
誰もが「新教側の勝利」を疑わなかった1619年五月末。ウィーンの城壁の下で歓声を上げる新教徒たちの背後で、最悪の破滅の足音が静かに近づいていた。
―――
そのころ、オランダ商会から派遣された現地エージェント――ヤン・デ・フリースと名乗る、アムステルダム訛りの抜け目ない男――が、俺の野営地の焚き火に遠慮なく腰を下ろした。
「ミスター・サムライ、少しよろしいですか」
そう言いながら、奴はすでに皮袋から干し肉を取り出して齧っている。「少しよろしいか」と訊く前に座っている男の礼儀など、最初から期待するほうが間違いだ。
「見ての通り暇だ」と俺は答えた。
「素晴らしい。では単刀直入に」ヤンは焚き火の向こうで細い目をさらに細めた。「ウィーンが落ちた際の、宮殿地下への突入ルートについて、商会はいくつかの案を持っています。あなたの意見を聞きたい」
「俺の意見より、まず地図を見せろ」
「これは手厳しい」と言いながら、奴はにやりとして羊皮紙を広げた。「東洋の方は話が早くて助かります。ドイツ傭兵どもに同じことを言うと、まず一時間かけて値段交渉が始まりますから」
「そっちのほうが賢い」
「違いありません」とヤンはあっさり認めた。「では値段の話をしますか?」
「ウィーンが落ちてからにしろ。落ちなかったら値段は関係ない」
ヤンは一瞬だけ笑みを消し、それからまた元に戻した。「……なるほど。あなたはウィーンが落ちないと思っている」
「何も言っていない」
「言わないことが答えです、ミスター・サムライ」
奴は干し肉を一口噛み切り、焚き火の火の粉を目で追いながら、しばらく黙った。それから、ぼそりとこう付け加えた。「商会は、負ける賭けにも保険をかけます。それがアムステルダム流です」
「良い商売のやり方だ」
「ええ。だからあなたのような人間が必要なんです」
それきり、二人の間に言葉はなかった。焚き火が爆ぜ、遠くでフクロウが鳴いた。俺もヤンも、互いに腹の底を見せないまま、夜が更けていった。
―――
五月末、ウィーンが包囲されて焦ったカトリック(皇帝軍)の総司令官シャルル・ド・ブクア伯爵は、乾坤一擲の勝負に出た。
南ボヘミアにいたブクア軍は、俺たちを監視していたはずのマンスフェルト軍の防衛線を、夜陰と深い森に紛れて完全に迂回。マンスフェルトが拠点にしていたサブラートの村へ向かって、電撃的な強行軍を仕掛けてきた。新教側の油断と「情報の遅れ」が致命傷だった。
六月十日の朝、マンスフェルト軍(約三千から四千人)がサブラート村周辺で移動の準備をしていたまさにその瞬間、地平線からハプスブルク家の精鋭騎兵隊――重装騎兵「キュラシエ」やクロアチア軽騎兵――が怒涛の勢いで押し寄せてきた。ブクア軍の総兵力は約五千人。完全に不意を突かれた戦闘が始まった。
結果は知っていた。だが俺だけが役目を放棄して単独行動するわけにはいかない。
サブラート村の民家は燃え盛り、崩落する梁の火の粉が降り注ぐ中、俺は刀を抜いた。突っ込んできた鉄甲騎兵の馬を間一髪でかわし、すれ違いざまに馬の膝の腱を正確に一文字に切り裂く。巨躯が激しく転倒する。落馬し、重い鎧のせいで起き上がれない騎士の兜の「目の隙間」へ、無言で日本刀の切っ先を深く突き立てた。だが、一息つく間もなく、背後からさらに三騎の騎兵が迫ってくる。
向かってくる敵を一人ずつ倒しながら、部隊に合わせて撤退してゆく。追撃してくる者は全て退けた。戦いは夕方までに、皇帝軍の圧倒的勝利で幕を閉じた。
死傷者は千五百人以上。マンスフェルト自身も馬を殺され、身につけていた兜や防具を脱ぎ捨てて、命からがら戦場から逃げ出した。
この戦いで最も致命的だったのは、マンスフェルト軍の「輜重隊(荷馬車部隊)」が丸ごと皇帝軍に鹵獲されたことだ。そこには、オランダ商会や新教徒の貴族たちから集めた大量の金銀、そして各地の銀行で決済するための「為替手形(信託状)」が保管されていた。これらがすべてハプスブルク側の手に渡ったことで、マンスフェルト軍は一瞬にして「破産」してしまった。
この大敗のニュースがウィーンに届くと、ウィーンを包囲していたトゥルン伯(新教側)は「背後からブクア軍に挟み撃ちにされる」と恐れ、大急ぎで包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。ハプスブルク家は文字通り滅亡の危機から救われたのである。
前線で大敗を喫し、荷物も軍資金も失った俺と商会のメンバーは、敗残兵となってチェコの荒野を敗走することになった。給料の支払いが滞った傭兵たちは暴徒化しやすい。これからは、味方であるはずの兵士たちからも身を守らなければならない、最も過酷なサバイバルが始まるのだ。
サブラートの戦いは、俺にとっても日の本では経験したことのなかった「ヨーロッパの戦争の本当の恐ろしさ――一瞬の油断で全てを失うリアル」を骨の髄まで叩き込まれる、血の洗礼となった。反乱軍はウィーンへの進撃を断念せざるを得なくなり、プラハへ撤退することになった。
敗走の二日目、泥だらけの街道脇の廃屋で、俺はヤンと再び顔を合わせた。奴は戦場から逃げ延びていた。それも、どういうわけか傷ひとつなく。
「生きてたか」と俺は言った。
「私は常に一番危険な場所にはいませんので」ヤンは焼け焦げた木の梁に背をもたせかけ、なぜかまだ干し肉を齧っていた。非常食の備蓄だけは万全らしい。「あなたは?」
「見ての通りだ」血と煤で汚れた俺を一瞥して、奴は静かに頷いた。
「為替手形が全部持っていかれましたね」
「知ってる」
「商会は激怒しています」
「そうだろうな」
「しかし」ヤンは指を一本立てた。「不思議なことに、私個人は激怒していません」
「なぜだ」
「なぜなら、あなたが生きているからです」奴はさらりと言った。「為替手形は紙です。紙は再発行できる。しかし、あの刀の使い手を一から育てるのは、紙よりはるかに時間がかかる」
俺は少し考えてから言った。「それは褒めているのか、それとも俺がまだ使えると確認しているのか」
「両方です」とヤンは答えた。「アムステルダム流で言えば、これを『資産の再評価』と呼びます」
「俺を資産扱いするな」
「失礼、言い方が悪かった。『最も信頼できるパートナーの再確認』とでも言いましょうか」
俺は何も言わなかった。奴も何も言わなかった。廃屋の外では、敗残兵たちの怒号と、誰かが泣く声が混ざり合っていた。
「ピルゼンまで持つと思いますか」とヤンが静かに訊いた。
「マンスフェルトが諦めない限りは」
「彼は諦めるタイプではない」
「だな」
「ではピルゼンへ行きましょう」とヤンは立ち上がり、当然のように俺の隣に並んだ。「次の賭けの話は、城壁の中でゆっくりしましょう」
―――
サブラートでマンスフェルトを破った皇帝軍の総司令官ブクア伯は、そのまま破竹の勢いで北上した。新教側の拠点を次々と制圧・略奪しながら、かつて俺が血戦を繰り広げたピルゼン、そしてボヘミアの首都プラハへと迫ってきた。
七月のボヘミアの街道は、皇帝軍の黒い鉄甲騎兵や略奪専門のクロアチア軽騎兵が走り回り、新教側の補給路を完全に遮断した。
サブラートで大敗し、兜まで脱ぎ捨てて逃げ出したマンスフェルトだが、ただでは起きないのがこの男の凄みだ。彼は残存兵力を集め、ピルゼンの強固な城壁に再び立てこもって徹底抗戦の構えを取った。ブクア軍に対して正面衝突を避け、城壁からの砲撃と夜間の小規模な奇襲(ゲリラ戦)で敵を消耗させる戦術に切り替えたのだ。
戦場が泥沼化する一方、ドイツ西部のフランクフルトでは、亡くなったマティアスに代わる「次の神聖ローマ皇帝」を決める選帝侯会議の準備が大詰めを迎えていた。新教側(プファルツ選帝侯フリードリヒ五世など)は、カトリックのフェルディナント二世の即位を阻止するため、必死の政治工作を行っていた。
サブラートの敗戦から生き延びた俺たちは、ピルゼン城内あるいはその周辺の砦で、精神的にも肉体的にも限界に近い防衛戦を強いられていた。
マンスフェルトはブクア軍の進軍を遅らせるため、ピルゼン周辺の村落や作物をあらかじめ焼き払う「焦土戦術」を命じた。夏の強い日差しの中、煙と熱気が立ち込めるボヘミアの荒野で、俺は俺の得意とする隠密性と近接戦闘(剣技・体術)を活かし、夜陰に乗じて敵の先遣隊のキャンプや見張りを無音で仕留める「決死の遊撃任務」を繰り返した。敵に「ピルゼンの周りにはまだ恐ろしい伏兵がいる」と思わせ、包囲のスピードを鈍らせるための戦いだ。
オランダ商会はサブラートでの敗戦により、マンスフェルト軍が為替手形を奪われた影響がこの七月に重くのしかかっていた。傭兵たちへの給料が完全にストップし、怒った傭兵たちがいつ暴動を起こしてもおかしくない一触即発の事態だった。
オランダ商会は、このままボヘミア戦線が崩壊すれば投資がすべて水の泡になり、地中海への交易ルート(ライン川〜スイス)もハプスブルク家に完全封鎖されると危機感を募らせていた。そのため商会はハイデルベルクの宮廷と連携し、新たな軍資金(銀貨)の輸送や、マンスフェルトに代わる新たな新教派の救世主(サヴォイア公やトランシルヴァニア公)との裏交渉に奔走し始めていた。
包囲が続くある夜、俺とヤンは城壁の内側の物見台で、動く気配のない皇帝軍の篝火を遠くに眺めていた。話すことも特になく、それでいてなぜか黙っているのも妙に落ち着かない、そういう夜だった。
「あなたの国では、籠城の夜は何をして過ごすんですか」とヤンが唐突に訊いた。
「寝る」
「なるほど。実用的だ」
「そっちはどうなんだ」
「そうですね」ヤンは少し考える仕草をした。「商会の若い衆は、帳簿をつけます。損益の計算をしていると、不思議と眠くなる」
「役に立つ眠り方だな」
「あなたにも試してみますか? 今期の利益率を一から――」
「いらない」
ヤンは小さく笑った。「では、素朴な疑問を聞いていいですか」
「内容による」
「あなたは、なぜまだここにいるのですか」奴の声に、珍しく軽口の色がなかった。「戦える人間は、負け戦が見えたら逃げます。あなたほどの腕があれば、もっと高く売れる場所がいくらでもある。なのにマンスフェルトと一緒に、この城に残っている」
俺はしばらく篝火を眺めてから答えた。「逃げる理由がない」
「それは理由になっていません」
「じゃあ、面白いからだ」
「面白い」とヤンは繰り返した。「……なるほど。それは商会の論理では理解できない動機ですね」
「そちらこそ、なぜまだここにいる。エージェントなら逃げ道くらいいくつも持ってるだろう」
奴は少し間を置いた。「……あなたが残っているからですよ」
「俺が資産だからか」
「今日は、そういう言い方はしません」
また沈黙が戻ってきた。遠くで皇帝軍の馬が嘶いた。ヤンが懐から小さな瓶を取り出し、無言で俺に差し出した。アムステルダムから持ってきたというジュニパーの蒸留酒――ジェネーバだ。俺は一口飲んで、瓶を返した。松の香りがした。
「不味くはないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ジェネーバの瓶が、ふたりの間を静かに行き来した。篝火の向こうで、ピルゼンの夜はまだ長かった。




