第58話 鬼、西へ
俺は今、ゴアにいる。
年末前に日本を旅立って約四ヶ月。数度の海賊を退けながら、ここまで来た。
日本では今頃、朝廷から亡き徳川家康に「東照大権現」という神号が贈られているころだろう。家康はただの権力者ではなく「徳川幕府を守る神」になった。静岡の久能山に埋葬されていた遺体が、遺言通り栃木の日光へ移され、臨時の社殿に祀られている。後世に「日光東照宮」として世界遺産になる場所の、記念すべき始まりだ。
(家康様——良い神様になってくれ)
俺はそう思いながら、ゴアの港に積み荷を降ろす作業を眺めていた。
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ゴアを発ち、紅海ルートで念願のイスタンブールを目指した。
事前のリサーチは念入りにしてある。オスマン帝国はキリスト教徒が自由に入国できる場所ではない。そこで、帝国と国交のあるオランダ商船か現地のムスリム商人の船に身分を隠して便乗し、「書記」や「現地使用人」として偽装して入国する計画を立てた。
まずマラッカでポルトガル船に乗り換えてゴアへ。そこで面識のあるアルメニア商人の船に「使用人」として潜り込み、インド洋を渡ってイエメンのモカを目指した。
モカには、コーヒーを買い付けに来たイギリスやオランダの商船・商館がある。ここで彼らの「書記」としての正式な身分を手に入れた。
次はキャラバン(隊商)でエジプト・カイロへ向かう。キリスト教徒は紅海をそれ以上北上できないため、陸路を選んだ。小舟に乗り換えてコスィエル(紅海の港)に着いたら、そこからワディ・ハンママート(岩の谷道)をひたすら西へ。四日から五日かけてケナ(ナイル川の街)まで歩き、あとはナイル川の流れに乗って豪華な川船でゆったりとカイロへ北上する。
砂漠でラクダに揺られる過酷な旅が終わり、大きな白い帆を張った川船のデッキで、ナイル川の涼しい風を浴びた時の気持ちよさといったらなかった。両岸には緑豊かな農村とナツメヤシの木々、そしてルクソールの巨大な遺跡が次々と後ろへ流れていく。数日もすると、前方にお馴染みのピラミッドと、目的地の巨大都市カイロが姿を現した。
カイロまで来れば、イギリス・フランスの通商特権の「傘」が完全に発動する。商人の付き添いとして地中海を北上し、首都イスタンブールのガラタ地区へ安全に入国することができた。
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ついに、イスタンブールにやってきた。
船がマルマラ海からボスポラス海峡へと入った瞬間、目の前に広がった景色に息を呑んだ。船の上から見るイスタンブールのパノラマは、まさに圧巻の一言だ。丘の上には巨大なモスクがそびえ立ち、天に向かって細く尖ったミナレットが何本も伸びている。
特に驚いたのが、今年(1617年)完成したばかりというアフメト1世のモスク——いわゆる「ブルーモスク」だ。なんとミナレットが六本もある。夕暮れ時、海が黄金色に染まる中、この巨大なドームと塔が黒いシルエットになって浮かび上がる姿は、ヨーロッパのどの都市にもない幻想的な美しさだとオランダ商会の連れが言っていたが、まさにその通りだった。ただ、中に入って見学できないのが本当に悔しい。
旧市街にある「カパルチャルシュ(バザール)」にも足を運んだ。護衛を連れていれば外国人でも散策できる。
一歩踏み込むと、そこは光と影と色彩の迷宮だ。シルクロードの富というべきか、ペルシャの高級絨毯、中国の磁器、インドのスパイスが山積みになっている。見たこともない輝きの金銀細工、大粒の宝石が眩しい。商人たちはみなターバンを巻き、長い髭を蓄えていて威厳があるが、「オランダから来た」と分かると、意外にも笑顔で商談に応じてくれる。
街を歩いていると、香ばしい、少し焦げたような良い香りが漂ってくる。現地の人々が「カフヴェ・ハネ(コーヒーハウス)」と呼ぶ場所に集まり、小さな杯で黒い熱い液体を飲んでいる。日本でも飲んでいたが、本場のコーヒーを一杯試してみた。ここイスタンブールで飲むのは気分が違う。現地の人たちは、これを飲みながらバックギャモンをしたり、政治の話に花を咲かせたりしているようだ。
街はとても清潔で驚いた。あちこちに美しい公共の噴水があり、水が豊富だ。そして何より、街中に犬や猫がたくさんいる。しかも住人たちが皆優しくエサをやっていて、動物たちが全く人間を怖がらない。回教の教えらしいが、この穏やかな空気感もこの街の美しさの一部だと感じた。
滞在は「ガラタ地区」だ。金閣湾の対岸にある外国人居住区で、キリスト教の教会もあるしワインも飲める。
注意事項を一つ。街を歩くときはムスリムの聖なる色である「緑色」の服は絶対に着てはいけない。トラブルになると連れから念を押された。
旧市街へ観光に行く時は必ず通訳を雇う——この注意を守って観光したことで、世界一の帝国の力を肌で感じることができた。
数十年来の目的を、ついに達成した。
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イスタンブールを存分に堪能したあと、最終目的地へ向かうことにした。ガラタ地区の港からオランダ商会の武装商船に乗り込み、地中海へ出る。
船はベネチア共和国の港に入港した。当時のベネチアはイスタンブールからの船が着くと、まず湾に浮かぶ隔離の島「ラザレット・ヌオーヴォ(新検疫所)」に数週間滞在することになる。ペストの流入を極度に恐れているためだ。
巨大な倉庫で荷物や衣服がハーブや煙で徹底的に消毒される様子を見学した。退屈だが、ここでヨーロッパ各地から来た商人たちと情報交換をするのが定番らしい。
俺は六月十七日、熱狂的なカトリック信者であるフェルディナント2世が、プロテスタントの多いボヘミア(チェコ)の国王に選ばれるという情報を確認した。これが翌年(1618年)にヨーロッパ全土を地獄に変える「三十年戦争」の引き金になる。
(来年から、ヨーロッパは三十年間燃え続ける——)
転生者の俺には分かっていたことだが、こうして現地で確認すると、また違う重さがある。
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検疫を終えてベネチアに上陸すると、まずサン・マルコ広場へ向かった。
サン・マルコ寺院の東洋風のドームを持つ美しい教会は、イスタンブールのアヤソフィアに似たビザンツ様式の黄金のモザイク画が見事だ。完成直後の「マルチャーナ図書館」はルネサンス建築の傑作とされる白い石造りの建物で、ヨーロッパ中の知識人がその美しさを見ようと集まっていた。
最もエキサイティングだったのはリアルト橋の周辺だ。完成(1591年)から二十数年しか経っておらず、まだ街の最新ランドマークとして輝いている。橋のすぐそばにある「フォンダコ・デイ・テデスキ(ドイツ商館)」の壁面には、ティツィアーノやジョルジョーネが描いた華麗なフレスコ画がまだ鮮やかに残っており、それを見上げるだけで美術館並みの価値があった。
音楽には明るくないが、モンテヴェルディの音楽を勧められた。1613年からサン・マルコ寺院の楽長を務める音楽史の巨人だ。日曜日の無料ミサに足を運び、彼が指揮する初期バロック音楽を生で聴いた。教会の空間に音が広がる様子は、言葉にしにくい体験だった。
公認の高級娼婦の文化もここの名物だ。彼女たちは詩を詠み、楽器を奏で、政治を語る教養人としてヨーロッパ中に知られている。日常的に仮面をかぶる文化も広まり始めており、街全体が祝祭の空気を持っている。
少し離れたムラーノ島へ渡ると、ベネチア・ガラス(クリスタッロ)の工房を見学できた。息をのむほど透明で繊細なガラス器が職人の手で一瞬で作られる様子は、現代の観光客と同じように旅人を感動させる。俺はオランダ商会を通じて日本に送ることにし、製法の概要を資景への文に添えておいた。
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ベネチアを出発し、北西へ向かってアルプスを越えた。プロテスタント都市のチューリッヒやバーゼルを経由し、ライン川を船で北上してハイデルベルクへ直接乗り込んだ。オランダ商会とはここでお別れになった。
商会の連中からすると、俺は実年齢より若く見えるらしい。三十代で通っているようだ。
ここでの次の目的は傭兵団への志願だ。入隊すべき指揮官はエルンスト・フォン・マンスフェルト一択だ。「カトリック名門の私生児」という複雑な生い立ちで実力一本でのし上がった男で、身分制度にこだわらない。日本という異国から来た、見たこともない刀と組討・柔術を持つ男を面白がって採用するはずだ——そう楽観的に考えていた。
前線へ向かうマンスフェルトの臨時キャンプを見つけ、募兵官に自分をアピールした。
「おいおい、鉄砲も持たずにその反り返った剣一本で何ができる? ここは銃と大砲の戦場だぞ」
「では、後ろにいる大柄な護衛の兵と、木刀で手合わせさせてくれ。一瞬で終わらせてやる」
開始の合図と同時に、体格で勝るヨーロッパ兵が剣を振り下ろすより早く、俺は懐に潜り込んだ。柔術の技で相手を地面に叩きつけ、首元に木刀を突きつける。わずか数秒だ。
周囲の傭兵たちが「……な、何が起きたんだ!?」と固まった。
募兵官が立ち上がり、手を叩いた。
「素晴らしい! 剣の速さもさることながら、その体術は見たことがない。マンスフェルト将軍の直属の突撃部隊には、お前のような化け物が必要だ。一般の歩兵の倍の給料を約束する。すぐに契約書にサインしろ!」
オランダ商会の紹介状という「知性」と、サムライの「暴力(技術)」を併せ持つ、新参者の誕生となった。
乱戦・隠密・突撃のスペシャリストとして、マンスフェルト軍の中で必要とされる存在になった。
さて——三十年戦争が、始まろうとしている。
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注:本文から西暦表記に変わります。




