第57話 那須の幕引き——家康逝きて、世は動く
烏山に帰ってくると、予定より数年は押したが、那須疎水が順調に育っているとの報告があった。
「初めての田植えが終わり、順調に育っています」
典之が帳簿を持ってきた。これで大田原家の広大な領地に見合った石高が計算できるようになる。ただし用水の足りない場所はまだある。次の工事はそこだ。
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夏、京から文が届いた。茶屋清次からだ。
古田織部殿が豊臣家への内通を疑われ、切腹を命じられた——とある。
俺はその文を持ったまま、しばらく動かなかった。
(また茶人が政争で死んだ。利休殿の次は織部殿か)
利休が切腹したのが天正十九年。あれから二十年以上が経つ。織部は利休の後を継ぎ、武家茶の世界を作り上げた。那須家と縁を作ってくれた人だ。本阿弥光悦を紹介してくれたのも織部だった。
弥十郎を呼んだ。
「織部殿が亡くなった」
弥十郎が黙って頭を下げた。しばらく何も言わなかった。
「……あの方が那須小砂焼に目をかけてくれなければ、光悦殿とも出会えなかった」
「そうだな」
「黒楽茶碗——完成しました。見ていただけますか」
弥十郎が工房に案内した。棚の上に、黒い茶碗が一客置かれていた。利休の黒楽でも、織部の歪みでもない。那須の土の温かみが残る、弥十郎らしい黒だ。
「光悦殿への注文の品か」
「はい。ただ——届ける前に、まず殿に見ていただきたかった」
俺は茶碗を手に取った。思ったより軽い。手に馴染む。
「良い器だ」
「ありがとうございます」
「織部殿に見せたかったな」
弥十郎が静かに頷いた。
その夜、光悦に文を書いた。
『茶の世界が、また一人を失いました。しかし弥十郎の手は止まりません。那須の土は、まだまだ化けます』
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大坂が終わって数ヶ月後、那須に戻った資景が俺のところへ来た。土産にウイスキーを一本持ってきた。
「父上、恩賞をいただきました」
「何をもらった」
資景が少し笑いながら答えた。
那須家の石高(元和元年)
那須本領(烏山含む)が約三万石——那須疎水の完成で直轄領が五千石増加した。
茂木全土が約一万五千石——(千本家配置換えで茂木中心地五千石を除く)。
大洗周辺が約四千五百石——涸沼への堤防設置や農地拡大で五百石増。
益子周辺については、陶土の採掘権と窯場の設置権を受けた。
帳簿上でも五万石に近づき、実質は産業を含めると十万石相当になる。もはや「小大名の看板を維持するのが難しい」という笑える状況になった。
資景の恩賞交渉の中で、益子の地形を見事に読んでいた。関東平野の北に位置し、西側に小貝川沿いの平野部、南部は丘陵——農地は限られており石高は低い。だから資景は土地ではなく「採掘権と窯場の設置権」として受け取ることを提案した。
「まったく大したものだ。チートが使える俺より、頭の出来は既に上を行っている」
心の中でそう思いながら、資景に聞いた。
「それで、家康様にはどのように交渉した」
資景が話した。初めは益子の一部の土地を提示されたが、こう述べたのだという。
「益子周辺の土地は石高が低うございます。ただ、良い陶土が出ます。陶土の採掘権と窯場の設置権をお願いしたい」
「土地ではなく、土の権利か」と家康様が面白そうに言う。
「はい。石高より値打ちがあります」
「那須家は変わっておるな。よかろう」
「『那須家は変わっておるな』か——」
俺はその言葉が気に入った。それで良し、だ。
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婚儀が迫る前に、俺が資景に問う。
「婿の名前はどうなった」
「家康様のお許しをいただき、那須景長と決まりました。景は那須家の通字、長は長丸殿の字を残すようにとの仰せで」
「家康様が決めたか」
「はい。那須と松平、どちらも残した名だと」
俺は少し黙ってから言う。
「なるほど、気が利いている」
(家康様らしい——細かいところまで見ている方だ)
十一月、婚儀は恙無く執り行われた。次の世代から徳川の身内として扱われることになる。資景の二人の娘は大関家・大田原家へ嫁ぐことが決まり、続く満の子も家臣へと、徳川の血がつながっていくだろう。
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年が明けて元和二年。
一月、鷹狩りに出かけた徳川家康様が駿府城に戻った後、体調を崩された。「鯛の天ぷらを食べて食あたりを起こした」という説が有名だが、今では胃がんだったのではないかと言われている。
俺はその知らせを聞いて、しばらく動かなかった。
(来た——ついに、この時が来た)
二月、女真族(満洲族)の英雄・ヌルハチが諸部族を統一し、国号を「アイシン(金)」とする国を建てた。後の「清」の始まりだ。天津の周一族とは縁があるが、もう孫の時代になって関係も薄くなっている。資景は大洗に商業の本所を設け、茶屋清次を正式に武士として商館を運営させることにした。新しく生まれた国との商いは、商業部が何とかするだろう。
茂木の半国は赤井家が代官として赴任した。土地の管理と益子の陶土・窯場の管理がメインになる。丹波からの赤井家の家臣と那須領内各家からの人材を集めて運営している。
主馬は自宅でよく研究をしている。領内の学問に関心がある者たちが集まりすぎて、資景が自宅兼学び舎を建ててやった。図書室には大量の本が管理されて専門の司書がいる。もはや小さな大学だ。
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平戸に立ち寄ったらメルが教えてくれた。
「カトリック教会が、ガリレオに地動説の禁止を宣言しました。二月二十六日、ローマ教皇庁がコペルニクスの地動説を異端と判定して」
詳しく聞けば、天文学者ガリレオ・ガリレイに対し「地動説を主張してはならない」と正式に警告したという。科学と宗教が真っ向から衝突した事件だ。
俺はここまでの西の出来事を鵜飼一族にまとめて伝え、かわら版として印刷を依頼した。二代目勘右衛門から売り上げを聞くと、親父譲りのニヤリとした笑いで答えた。
「好調です。この感じだと奥州から九州まで行くと思います」
「日ノ本制覇か。別の意味で天下を取ったな、勘右衛門」
「ははー、誠に嬉しい限りです。死んだ父親に見せたかったです」
四月、イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアが五十二歳で死去。スペインの小説家ミゲル・デ・セルバンテスも同月に亡くなった。世界の文学界にとって最大の損失とも言える月だ。
俺はセルバンテスの代表作「ドン・キホーテ」の翻訳本を書くことにした。騎士道物語を読みすぎて現実と妄想の区別がつかなくなった老紳士の物語だ。日ノ本でも受けるはずだ。
数週間かけて挿絵も付けて完成させ、典膳の孫で図書室の司書を兼任している朽木典之にチェックを頼んだ。
典之が感想を述べた。
「理想を追い求める狂気の男と現実に生きる凡人の対比を通じて、『人間とは何か』を深く描く本です。大変感銘しました。南蛮の本をもっと読みたくなりました」
俺は確信を突いた。
「日ノ本で売れるか?」
「売れると思います。祖父が生きていたら読めたのですが。主馬先生にも感想を伺うと良いと思います」
数日後、主馬からも返答が来た。
「売れます。ただしかわら版と抱き合わせて、数回に分けて掲載して続きを販売する方法がよろしいかと。この様な本があるのなら、どんどん翻訳してください。私が評価いたします」
別の本が読みたいらしい。次は「模範小説集」、その次はシェイクスピアか。勘右衛門に製作を依頼した。
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四月十七日(西暦六月一日)、徳川家康様が駿府城にて死去された。七十五歳。遺言により遺体は久能山に葬られ、翌年には日光へ改葬されることになる。
史実通りに進んだ。
(家康様——長い間、お世話になりました)
俺はしばらく、その言葉だけを繰り返した。
家康様の死後、実権を完全に握った二代将軍・徳川秀忠は、外国船の寄港地を「平戸」と「長崎」の二港に限定した。鎖国への明確な第一歩だ。
三浦按針から知らせが届いた。アイルランドの貴族ヒュー・オニールが亡命先のローマで死去したという。
「故郷に戻らなくていいのか?」と聞くと、
「私がもう少し若かったら希望もあるが、イギリスまで体力が持つか分からない。それに今はここにも家族がいる」
家康様が亡くなり、秀忠・家光の時代になって警戒されながら、アダムスはこの四年後に平戸で死去する。史実通りに。
七月、陸前国を震源とする大きな地震が発生した。仙台城の石垣や建物が崩れ、三陸沿岸には津波も押し寄せたという。烏山も揺れたが城の被害はなかった。大洗も津波の被害はなかった。
十月、大名・坂崎直盛が自害した。大坂の陣で千姫を炎の中から救い出した直盛が、千姫の再婚に激怒して誘拐を企て、幕府に察知されて一族取り潰しになった。二代目勘右衛門のかわら版で知った。挿絵入りで良くできていて、これは売れただろう。いまや勘右衛門は大富豪だ。
家康様という巨大な存在が世を去ってから初めての冬を迎える。二代将軍・秀忠を中心に、慌ただしい年末が続く。
―――
俺の日本での戦働はここで終わりだ。
残り少ない寿命を、他の地に向けるつもりだ。長く生きても鎖国令が強まれば帰る道も閉ざされる。
那須の土に水が流れ、烏山の城から煙が上がり、大洗の波が防波堤を叩いている。
注:ここで国内編は終了です。
次回からは舞台を海外に移します。
引き続きよろしくお願いします。




