第55話 鬼の引き継ぎ——大坂の陣を前に
慶長十七年、正月。
烏山城の大広間に家臣が揃った。年始の挨拶が終わり、資景が家臣一人一人に言葉をかけていく。二十二歳になった。俺が隠居した時よりも落ち着きが出て、重臣たちの信頼も厚くなっている。
(あとは俺が出しゃばらないことだ)
俺は別室で茶を飲みながら、その様子を眺めていた。主馬が隣に来た。
「殿、今年も出しゃばらないつもりですか」
「そうだ」
「大坂の陣まで、あと二年ほどですが」
「資景に任せる。俺は見守るだけだ」
主馬がため息をついた。いつものことだ。
この年の正月、満が十二歳になった。縁組が決まっている松平長丸も今年十三歳。来年には婚儀の話が本格化するだろう。
「殿、満姫様がお呼びです」
六之助が声をかけてきた。
広間の端に満が待っていた。蓮に似た、意志の強そうな目だ。
「祖父様、弓を教えてください」
(おや)
「俺が教えるのか」
「父上は忙しい。祖父様の弓が一番と聞きました」
俺は少し考えた。
「明日の朝、的を用意しておけ」
満が深く頭を下げた。その仕草が、どこか春に似ていた。。
(那須に、また弓を引く者が生まれる——)
―――
春、那須疎水の第二期がついに完成した。
西岩崎から引いた水路が、下野の荒野に細く光る。その脇に整地された田が広がり、農民たちが水路に歓声を上げていた。
俺は水路の端に立って、流れる水を眺めた。主馬が隣に来た。
「殿、言っていた通りになりましたね」
「そうだな」
「何年前でしたか。那須の地に水を引くと言った時、大関殿も大田原殿も仰天していた」
「覚えている」
遠くで農民の声がした。水が田に入ったのだろう。歓声が上がっている。
(転生者の俺には、この水路が那須を変えることが分かっていた。だが実際に目の前で起きると——やはり違うものがある)
典膳が帳簿を持ってきた。
「殿、第二期完成分の新田石高の試算が出ました。二年後に稲が安定すれば、那須直轄地だけで五千石の増加が見込まれます」
「第三期はいつから始められる」
「来年には着手できます。大田原家の財政が少し楽になれば——」
「典膳、大田原に金を貸してやれ。無利子で」
典膳が目を丸くした。
「よろしいのですか」
「第三期が遅れたら意味がない。大田原の広い原野が一番水を必要としている。那須家全体の石高が上がれば、貸した金など惜しくない。米が実れば貸した金などすぐに戻ってくる」
典膳がしばらく考えてから、静かに頷いた。
―――
夏、弥十郎が鷹ヶ峰から帰ってきた。
土の入った袋を一つ、黙って差し出した。
「鷹ヶ峰の土か」
「はい。光悦殿に頼んで、工房の裏山から採ってきました」
「那須の土と混ぜてみたか」
「まだです。帰ってきたかったので」
弥十郎がさっさと窯場へ向かう。マーが出迎えて、二人で袋の中を確かめ始めた。何か言いながら土を掌で感じている。
(あの二人が揃えば、また那須に新しいものが生まれる)
光悦の注文——黒楽茶碗——はいつ完成するか分からない。
だが弥十郎が「やってみます」と言った。それで十分だ。
―――
秋、茶屋清次が堺から来た。
「殿、少し気になることがあります」
「何だ」
「大坂城の様子が、じわじわと変わってきています。淀殿の周りに、戦を望む声が増えている。このままでは——」
「清次、それ以上は言わなくていい」
俺は遮った。清次が黙って頭を下げた。
(大坂冬の陣は慶長十九年。あと一年だ)
「清次、那須小砂焼の在庫を増やしておいてくれ。戦が始まると物が動きにくくなる。今のうちに売れるだけ売っておけ」
「……承知しました」
清次が部屋を出た後、主馬が入ってきた。
「殿、聞いていましたか」
「聞いていた」
「資景殿には知らせますか」
「知らせる。ただし俺からではなく、主馬から伝えてくれ。資景は自分で判断しなければならない」
「……承知しました」
主馬が頭を下げた。
―――
年の瀬、満と松平長丸の縁組の話が正式に進み始めた。
資景が俺のところに来た。
「父上、長丸殿は良い方です。会わせてもらいました」
「そうか。どんな男だ」
「物静かで、馬が好きだと言っていました。那須の馬の話をしたら目が輝いていた」
(悪くない)
「満は何と言っている」
「……まだ十二歳ですから」資景が少し笑った。「でも、弓の話をしたら打ち解けたようです」
「弓か」
「長丸殿、那須の弓の話をよく知っていて、祖父様のことも知っていました」
(満が弓で縁を作るとは)
「資景、縁組を進めろ。良い話だ」
資景が深く頭を下げた。その仕草が、俺が若い頃に信長様の前でしていた所作に似ていた。
(どこかで見た動きをする——やはり親子だ)
那須の冬が来た。疎水の水が薄く凍り始め、田には冬枯れの稲が残っている。来年の春にはまた田植えが始まる。
(大坂の陣まで——あと一年。資景は準備できている。那須家も準備できている。あとは、その時を待つだけだ)
―――
慶長十八年、晩秋。
那須の原野に朝霧が立ちこめる頃、馬場の端で直勝と直房の親子が向き合っていた。
直勝が木刀を構える。直房が正面から踏み込む。一合、二合——三合目で直勝の木刀が直房の腕を弾いた。
「まだ踏み込みが浅い」
直勝の声は変わらない。淡々としている。
俺は少し離れて眺めていた。六之助が隣に来た。
「直房殿、初航海の戦から三年。格段に上がっています」
「そうだな。良い目をしている」
「殿、直勝殿は資景殿の側付きに移るとのことですが」
「聞いた。直勝らしい決断だ」
直勝が木刀を下ろし、直房に何か言いながら肩を叩く。俺に気づいて、こちらへ歩いてきた。
「殿、お早い」
「眠れなかった。大坂の件が気になってな」
「直房は如何でしょうか」
「良い目をしている。あとは場数だ」
直勝が深く頭を下げた。
「殿、永年のご厚情、誠にありがたく存じます。今後は資景殿のお側で、那須の守りを担います」
「俺より資景の役に立てよ。お前の太刀筋は、那須家の宝だ」
直勝が目を細めた。珍しく、少し表情が崩れた。
―――
その日の夕方、弥右衛門がやって来た。
土産に巨大な干し芋を持ってきた。那須名産の干し芋だが、それにしても大きい。
「弥右衛門、それを一人で食うつもりか」
「殿の分も持ってきました。蒸したてを切ったやつです」
弥右衛門が縁側に腰を下ろして、干し芋を齧り始めた。俺も隣に座った。
「直房は如何だ」
「良い子ですよ。人当たりが柔らかい。俺みたいなぶっきらぼうより、資景殿の側近向きかもしれません」
「お前も資景についてくれるのか」
「はい。直勝殿と二人で。……殿、俺は一人では動けません。殿か直勝殿がいないと、ちょっと物足りない」
俺は笑った。
「お前が物足りないと言うとは珍しい」
「那須に来て二十年以上ですから。もう切っても切れません」
弥右衛門が干し芋を一切れ、俺に差し出した。
「大坂が戦になる前に、これだけは言っておきたかった。殿、長い間ありがとうございました。……これからも宜しくお願いします」
「水臭いことを言うな。俺たちはまだ現役だ」
「ははは、そうですね」
二人で干し芋を食いながら、しばらく黙っていた。遠くで直房の稽古の声が聞こえている。
―――
年が明けて慶長十九年、一月。
朝稽古が終わった後、主馬が俺に声をかけた。
「殿、少しよろしいですか」
離れの部屋に通された。主馬が文机の前に正座して、俺を待っていた。珍しい。
「改まってどうした」
「殿、私は今年で資景殿の軍師に専念します。那須家の軍学は資景殿の下に引き継ぎました」
俺は少し間を置いた。
「そうか」
「殿に仕えて三十年以上になります。最初に会った時、殿は二十歳でしたか」
「お前は二十六歳だったな」
「そうです。殿より六つ上でした」
(そんなに経つか。俺も五十七、主馬は六十を過ぎた——)
「悔いはないか」
「一つもありません。那須家は豊かになり、戦死者を最小限に抑え、家康様の信頼も得た。殿の傍にいて、良い景色を見せていただきました」
「大げさなことを言うな」
「事実です」
主馬が静かに笑った。三十年以上、変わらない笑い方だ。
「殿、最後に一つ聞かせてください」
「何だ」
「大坂の戦、那須家はどう動きますか」
「資景が決める」
「殿は」
「戦場に立つ。一兵として」
「……変わりませんね」
「お前もな」
二人はしばらく黙っていた。主馬が立ち上がり、深く頭を下げた。
「長い間、ありがとうございました」
「こちらこそ、頼りにした」
主馬が部屋を出た後、俺はしばらく一人で座っていた。
(主馬がいなくなるわけではない。資景のところにいる。それでいい)
窓の外に、冬の那須の山が見えた。白く雪を被っている。
(冬は今福。夏は天王寺か——俺が一兵として立てる場所は、まだある)
―――
二月、大洗の湊に見慣れない船が入ってきた。
桟橋に立っていた弥四郎から文が届いた。
「メル殿がお見えです」
駆けつけると、波止場にメル(メルヒオール・ファン・サントフォールト)が立っていた。平戸での商売が軌道に乗って、顔つきが随分と貫禄を増している。
「メル、来たか」
「那須殿、お久しぶりです。大洗はすっかり大きくなりましたね」
「お前が最初に来た頃とは別の湊だ」
メルが波止場から防波堤を眺めた。ローマンコンクリートで固められた堤が、太平洋の波を受けている。
「あの防波堤、本当に凄い。ヨーロッパでも見たことがない」
「弥四郎の仕事だ」
「那須殿、今日は商談に来ました」
「聞こう」
二人で湊の倉庫の一室に入った。
「シャイアー種の大型馬、二頭届けました。ポルトガルの友人のおかげです」
「約束通りだな。礼をする」
「それよりも——那須の小砂焼を平戸でもっと売りたいのです。今、南蛮商人の間で那須の器の評判が上がっています。特に金結晶の杯が人気で、持っているだけで自慢できると言われている」
「茶屋清次と話してくれ。俺では器の値段の話はできない」
「分かりました。それともう一つ」
メルが懐から小さな包みを取り出した。
「これはポルトガルのワインです。那須殿のウイスキーと比べてもらいたい」
俺は包みを受け取った。
「メル、正直に言う。那須のウイスキーは日本の水と木で作ったものだ。ヨーロッパのワインとは根本的に別物だぞ」
「それが良いのです。別物だから、売れる」
メルがにやりと笑った。この笑いはパタニの頃と変わらない。
「殿、大坂は戦になりますか」
「なるだろう」
「では平戸の商売、少し縮小しておきます。戦が始まると物が動きにくくなる」
「賢い判断だ」
「那須殿に教えてもらったことです。戦でも後方にいれば安全に稼げる。それを那須殿に教えてもらいました」
俺は笑った。
「俺はそんなことを言ったか」
「言いました。マラッカの帰りに」
(言ったかもしれない)
「メル、大坂が落ち着いたら、また来い。ウイスキーの十五年物が出来上がる頃だ」
「必ず来ます。那須殿のウイスキーは——飲むたびに、別の酒になっている」
「そうだ。那須の時間が作るものだから」
メルが深く頷いた。
夕方、メルの船は大洗の湊を出た。太平洋の水平線に、夕日が沈んでいく。
(大坂の陣まで、あと数ヶ月——)
弥四郎が隣に来た。
「殿、那須軍は準備できています」
「そうだな」
「資景殿も、主馬殿も、直勝殿も——皆、動ける状態です」
「分かっている」
大洗の波が、コンクリートの防波堤を叩いている。打っては返し、打っては返す。那須の海は、変わらない。
(これでいい——あとは戦場に立つだけだ)




