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『那須資晴、二度目の転生』  作者: 山田村
第一章 那須資晴

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第51話 関ヶ原、そして那須へ帰る





 九月十四日、夜。


 赤坂に布陣して数日、夜の冷え込みが厳しくなってきた頃、主馬がふと顔を上げた。


「殿、西軍が動きましたよ。大垣城から関ヶ原のほうへ。明朝が決戦ですね」


(知っている。明日の正午には終わる——)


 ちょうどそこへ、黒田長政殿からの文が届いた。


「那須殿、明朝は儂の右側に付いてくれ。島左近の槍が鋭い。崩れた時の押さえが欲しい」


 那須の馬と酒で縁を作った甲斐があった。俺は二つ返事で承諾した。


 主馬がにこりと笑って言う。


「殿、明日は出番がありそうですね。黒田隊の右翼で、石田の木柵を削る役目です」


「分かった」


 大砲部隊は赤坂の丘に残した。万が一の追撃支援と、戦線が崩れた際の盾だ。表に出すのは最後でいい。



―――



 九月十五日、夜明け前。


 深い霧の中、関ヶ原への進軍が始まった。


「霧で何も見えませんな」と弥右衛門がぼやく。


「見えなくていい。音で分かる」


 感知能力を静かに研ぎ澄ます。人の気配が何万もある。霧の向こう、西軍の息遣いまで届いてくる気がした。



―――



 辰の刻、開戦。


 霧の中で鉄砲の音が轟いた。東軍先鋒の福島正則が動き、続いて黒田隊も攻めかかる。黒田隊が石田三成の笹尾山方向へ進む。那須軍三百がその右に展開した。


 石田隊の前衛——島左近の槍組が飛び出してきた。


 俺は弓を引く。霧の中、馬上の将を狙う。一矢——馬ごと倒れる。二矢——また一人落馬する。三矢を放った頃、霧の向こうから「那須の鬼の弓だ」と叫ぶ声が聞こえてきた。射程内の将を、矢が尽きるまで射ち続けた。


(弓で馬を射て乱す。混乱した歩兵に、直勝と弥右衛門を当てる)


 那須軍が木柵の手前まで詰め寄る。島左近の精兵が押し返してきた。


 赤井直勝が前に出る。大太刀で槍衾を薙ぎ払い、文字通り道を開けていく。鈴木弥右衛門が右から切り込む。自称「徳川の鬼」が、関ヶ原で本領を発揮した。


「直勝が通ったところは、死体の道になりますな」


 主馬が以前そう言っていた。今日もその通りだ。


 俺も弓を置き、剣を持って前に出た。足軽や中間を崩して陣形を乱す。一対一で勝てる者はいない。押し込む。押し込む。


 小半刻ほど、スピードを上げて急所を衝き、負傷者を増やしていく。後ろの兵が止めを刺す連携は健在だ。三人でじわじわと削り取っていった。


「鬼が来るぞ——」


 西軍の方からそんな声が上がった。地獄から三匹の鬼が襲ってくる——彼らの目にはそう映ったのかもしれない。


 黒田隊の右翼が前進を始めた。



―――



 島左近が反撃に出た。「鬼の島左近」の異名は伊達ではない。精兵が那須軍にぐっと圧力をかけてくる。


 主馬が静かに後退の合図を出した。那須軍が少し引く。島左近が追ってきた。


(罠だ)


 引いた那須軍の後ろから、旋回砲が火を噴いた。島左近の前衛が崩れる。那須軍が再び前進する。


 その時——


「右だ!」と六之助が叫んだ。


 蒲生郷舎の右翼部隊が、那須軍の側面に食い込んできていた。間に合わなかった。新兵四名が倒れた。


 ほぼ同じ頃、黒田隊の鉄砲五十挺が島左近を撃った。「島左近が倒れた」という声が戦場に広まり、石田隊の動きが一瞬止まった。


(また死者が出た。関ヶ原でも——)


 俺は一瞬、足が止まった。だが、止まる場所ではない。


「前へ!」


 那須軍が、また前進を始めた。


―――



 巳の刻(午前十一時頃)。


 松尾山から轟音が上がった。小早川の旗が動いた。


「来た——」と俺は思った。


 小早川秀秋が大谷吉継の部隊に側面から襲いかかり、西軍が総崩れになった。


 西軍が崩れ始める。島左近の前衛が退き始める。那須軍はそれを追わなかった。


 主馬が言う。


「ここまでです。追うのは他の隊に任せましょう」


「そうだな」


 那須軍は前進を止め、その場に立った。



―――



 正午——那須軍の戦果と代償。


 那須軍の戦果——石田隊の前衛を削り、黒田隊の右翼突破を支援した。


 那須軍の代償——死者四名、重傷者十一名。大半は新兵だった。


 六之助が静かに言った。


「那須軍が一人も死なせない——その記録が途切れた!」


「分かっている」


「……殿」


「分かっている」


 弥右衛門が、庇いきれなかった一名の前でしばらく動かなかった。


 関ヶ原の霧が完全に晴れた空の下、俺は思う。


(四人。四人を死なせた。これが戦だ。これが俺が積み重ねてきたものの——代償だ)


 主馬が隣に来た。


「那須家は東軍として関ヶ原に参陣し、戦果を上げた。家康様の天下が来ます」


「そうだな」


「これからどうしますか」


「下野に帰る。田を耕して、馬を育てて、酒を造る」


 主馬が笑った。


「相変わらずですね」


「それが那須家の戦い方だ」



―――



 翌日、家康様は小早川秀秋・井伊直政・田中吉政らに石田三成の居城・佐和山城を攻撃させた。石田一族は切腹し、十七日の辰の刻に佐和山城が落城した。余談だが「佐和山には落城の後、金銀は少しもなし。三成は貯えていなかったようだ」という記録が残っている。


 一方、西軍主力が関ヶ原へ移動した十四日夜、水野勝成殿が大垣城を攻撃していた。「三ノ丸の西の門口で熊谷直盛・垣見一直・木村由信を討ち取り、この三首を送られ請取りました」という訴状が残っている。那須で世話になっていた男が、この日ついに徳川の武将として本格始動した。二十三日、大垣城の福原長尭が投降して開城となった。


 家康様が大津へ移動し、三成らを捕らえる動きが活発化した。十九日に小西行長を捕縛、二十一日に石田三成を北近江の古橋村で発見・捕縛、安国寺恵瓊も京都六条から捕縛された。


 石田三成が捕らえられたとの報告を受け、関ヶ原の終わりを感じた。俺はこの時点で会津の資景と上杉景勝殿・伊達政宗殿に文を送った。景勝殿には戦場に居ない者には分からない事情を書いて知らせた。結びに「那須に攻めるなら大砲隊が出迎える」と添えておいた。


 資景には九月末で本隊の撤退と平時の警戒への切り替えを指示した。



―――



 二十三日、捕縛された石田三成が大津城の門前で家康様と対面した。三成は敗軍の将でありながら決して卑屈な態度は見せなかったという。


 家康様が「このようなことになって、無念であろう」と言葉をかけると、三成はこう返したとされる。


「天運が味方しなかったまでのこと。武運拙く敗れるのは、古今珍しいことではない」


 自分は正義のために戦ったのであり、ただ運が悪かっただけだという強い自負の表れだ。だが、初めから勝敗は決していたと俺は思う。


 三成を憎んでいた福島正則が「無様な格好だな」と嘲笑した。すると三成は、


「汝を捕らえてこのようにできなかったことこそ、我が無念である」


 と言い放ち、周囲を黙らせたというエピソードも残っている。気の強さがよく分かる。


 家康様は三成に対し、丁重に扱うよう命じた。自身の羽織を掛けてやったという説もある。家康様の度量の広さを周囲に見せつけるための政治的な振る舞いでもあろうが、何もしないよりはましだ。


 十月一日、六条河原で石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が処刑されて、俺の関ヶ原は終わった。家康様の砲術頭に大砲を引き渡し、部隊を引き上げて下野に帰ることになった。



―――


下野に戻り、那須与一を祀る社の境内に「忠勇之碑」を建てた。



 ここに眠る者たちは

 那須の旗のもと戦い

 名もなく散りし英魂なり

 慶長五年 那須資晴 建之

 



 北伊勢・長嶋 十五名。山崎の戦い 四名。関ヶ原 四名——合わせて二十三名の名を刻んだ。


 武の祖の前で、彼らの名は永く残る。それでいい。


領民も、武士も、参拝に来た者が必ず目にする場所だ。


(二十三人。二十三人を死なせた。名前を見て、忘れるな)


 頭を下げた。しばらく、動けなかった。



―――



 年末、朝稽古に玄妙が姿を見せなかった。直勝が家を訪ねると、穏やかな寝顔で息を引き取っていた。五十四歳——この時代では相応の齢だが、少し早い。惜しい人材だった。共に海外を渡り、幾多の戦場を共にした、信頼できる男だった。


 幸い、力を付けた弟子が数名いる。玄妙の槍使いは弟子の中に宿り、技として生き続ける。それが玄妙の残し方だと俺は思う。



―――



 年が明けて、那須資景に正式に松平定勝の娘・蓮姫(架空名)との婚儀が執り行われた。後継者の未来へつながった。


 史実では小山氏の娘を妻にするが、一年前から大田原資清を通じて小山高朝氏の娘・松(架空名)の婚儀の話もあったという。関ヶ原が落ち着いた時に再度、「正室が徳川家なら側室でも」という話を聞かされ、運命の糸を感じた。孫の資重が早く誕生するかもしれないし、養子を迎えることもなくなるかもしれない。未来は不透明だ。



―――



 幾何学・数学・天文学・航海術・造船技術・砲術に特化した英日翻訳辞書と蘭日翻訳辞書を典膳の協力で仕上げた。文字が多すぎるのでかなり絞ったが、少し時間がかかった。これをウィリアム・アダムスに届ければ俺の仕事は一段落だ。


 余談だが、善吉の弟子たちが新しい技法が覚えられると喜んでいた。アダムス自身も造船所に職人が揃っていること、国友孫四郎の大砲にも驚愕していた。アダムスから造船技術・兵器・砲術の手書きの文書の翻訳も依頼されている。これは家康様案件だ。



―――



 今年も業績が上がっている。そんな中で「上杉景勝が百二十万石から三十万石で出羽米沢へ減転封」との話が飛び込んできた。


「思いきりやっておられますな」と典膳が唸っていた。俺は知っていたが、これからが本番だと思っている。続いて隣の佐竹家が常陸一国(約五十五万石)を没収、出羽久保田(二十一万石)に減転封となる見込みだ。その後の常陸の海側が欲しい。最悪、高師の浜のように港を作る許可だけでも何とかしたい。


 そんな考えを巡らせていたら、


「また、悪だくみをしていますね」と主馬が言う。


「そうだ、佐竹の事をな」


「上杉でこの状況ですから、間違いなく減転封です」


「減封処分ではなく減転封になる根拠は?」と俺は主馬の意見を聞いてみた。


「噂では家康様追撃の密約を上杉景勝と結んでいた、ということと、江戸に近く広い領土に多い石高——なるべく遠くに置きたいのは常ですから」


「流石だ。噂の真偽は分からないが、近くに危険な者を置けないのは理解できる」


「いずれにしても来年京に行けば分かることです」



―――



 それから数ヶ月経ち、蓮姫の妊娠が知らされて那須家では大騒ぎになった。無事に生まれてほしいものだ。その目出度い時期に、小山高朝氏の娘・松の婚儀の話が再び持ち上がった。結局、二人の嫁を迎えることにはならなかった。資景の人生も変わることだろう。


 あっという間に年が明けて慶長七年。内政が順調な我が家は金銭に困ることがなくなった。


 五月、伏見に呼び出しがあり、船で高師の浜まで来て、堺で宿を取り旅の疲れを癒していたら、佐竹氏の減転封の話が飛び込んできた。五月八日、常陸一国(約五十五万石)を没収、出羽久保田(二十一万石)に減転封——主馬の読みが当たった。


 十日、伏見城に拝謁した。


「那須殿、希望はあるか?権威や土地の希望はないのか?何かやりたい事があるのか?」


「ははーっ、恐れ入ります。では土地の件で、那須領に近い湊が欲しいです。それと以前採掘した土が取れる土地をお願い致します」


「分かった。全てかなえよう。湊は大洗を授ける。陶器の土地は茂木半国。ただし、自国から那珂川の街道を大洗まで整備することが条件になる」


「ははーっ、ありがたく……」


「して、蓮は息災か?」


「は、帰る頃には子が生まれていると思います」


「おー、そうか。……関ヶ原、ご苦労であった。相変わらずえげつない戦いをするのー」


「恐れ入ります。今に戦には合いませぬが、昔の戦の仕方が好みでして……」


「まあよろしい。しっかり励め」


 家康様が静かに笑った。


(大洗の湊と茂木の土——那須の海と陶器が、また一歩広がる)


 俺はそう思いながら、伏見の空を仰いだ。


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