第50話 岡山の呼び鈴——赤坂、夜の轟音
九月十一日朝、家康様本隊が清洲城付近に到着し、那須軍と合流した。我らは挨拶もそこそこに、隊列を組み直して美濃へ向かう。
主馬が小声で言う。
「殿、ここからが本番です。今回の働き次第で——」
「分かっている。水戸の那珂湊だ」
俺は短く答えた。
徳川領となる関東のうち、太平洋に開けた港は限られている。横浜は既に押さえた。あと一つ、北関東への補給を考えた時に喉から手が出るほど欲しいのが、常陸・那珂川河口の那珂湊だ。江戸湾と東北を結ぶ海上動脈の中継地——ここを那須家が押さえれば、北関東の物流と海軍力は徳川の影で完成する。
主馬が頷いた。
「では、家康様の目に焼き付く働きが必要ですね」
「そういうことだ」
―――
九月十三日、美濃・赤坂着。
ここは関ヶ原の手前、東軍の前線基地となる地だ。岡山と呼ばれる小高い丘に家康様の本陣が築かれることになっており、池田輝政殿や本多正信殿がすでに地ならしを進めていた。
主馬が一帯を見渡しながら、淡々と解説する。
「岡山の地を本陣として選定し、事前に確保していたのは、先行していた池田輝政殿や、家康様の側近で兵站・軍事を担当していた本多正信殿です。家康様の到着前から、布陣の骨格はすでに組まれていたわけです」
「お膳立て済みということか」
「東軍の主力である黒田長政殿や福島正則殿らは、さらに前線の赤坂周辺に布陣し、小競り合いを繰り返して三成を挑発しています。家康様は、これら血気盛んな武将たちの少し後ろ——岡山——にドカッと座ることで、『自分はあくまで全体の裁定者である』という重みを持たせるおつもりです」
なるほど。武断派を前に出して挑発させ、自分は山の上から戦況を眺める——いかにも家康様らしい配置だ。
―――
布陣を整えながら、俺は孫四郎と段取りを詰めた。
「セーカー砲二十門は岡山本陣の南斜面に展開、カルバリン砲五門は本陣の中腹に据える。射手と装填手の組分けは終わっているな」
「はい。馬牽引で位置を変えられますから、本陣の方角から大垣城方面と佐和山方面、両方に砲口を向けられます」
「大砲の発射指示は徳川に任せる。我ら那須は『運用と整備』だけ受け持つ。家康様の手柄として記録される形にしておきたい」
孫四郎が一瞬目を上げた。
「……あえて、那須の名を出さぬのですか」
「大砲は徳川の威勢として響かせる。那須は別の働きで名を残す」
孫四郎は黙って頷いた。寡黙な男だが、こちらの意図はもう汲んでいる。
―――
大砲を孫四郎たちに任せ、俺は那須軍精鋭百五十を率いて別行動に入ることにした。
主馬と作戦会議を開く。
「赤坂で小競り合いを繰り返している東軍の中で、どの隊と組むべきか」
主馬が即座に答えた。
「黒田長政殿の隊と組むのが最善でしょう」
「理由は」
「三つあります。一つ、長政殿は冷静で軍紀が利く。福島正則殿は突撃癖があり、那須軍の戦死者無しという原則と相性が悪い。二つ、父・如水殿との情報交換の縁があり、那須染付と十年物ウイスキーを贈った相手——既に下地ができています。三つ、関ヶ原本戦で長政殿は小早川秀秋への調略の取次役として家康様の信任が最も厚い武将になります。長政殿の隣で働けば、家康様の目に直接届きます」
主馬は続ける。
「福島殿の隊で派手に暴れるより、長政殿の隊で『冷静に、しかし決定的に働く』方が、那珂湊という具体的な褒美につながります。家康様は派手さより、効きどころを見ている方ですから」
「決まりだ。黒田殿のところへ挨拶に行く」
―――
九月十三日夕刻、黒田長政殿の陣を訪ねた。
「那須殿、ようこそ。父より文をいただいておりました。『今与一は必ず役に立つ、隣に置け』と」
「ははっ、如水殿には過分のお言葉を」
長政殿は穏やかな笑みを浮かべた。父譲りの、感情を出さぬ落ち着いた眼差しだ。
「我らは赤坂で連日、三成方の陣に近づいては小競り合いを仕掛けております。明日も同様の予定。那須殿の精鋭百五十、後備として遊撃に回していただけますか。武田流の遊撃戦に通じておられると伺っております」
「承知。後備で待機し、流れを見て横撃を入れます。深追いはしません」
「それで結構です。我らはあくまで挑発役。三成を大垣城から引きずり出すのが今夜と明日の仕事ですから」
長政殿は俺の役割を完璧に理解していた。さすが如水の血だ。
―――
九月十四日朝、岡山本陣に家康様が入った。
家康様は、あえて彼らの前で「江戸からの強行軍で疲れた顔」を一切見せず、堂々と本陣に入った。そして、即座に大砲を撃ち込ませたり、「佐和山——三成の本拠地——を攻めるぞ」という偽情報を流したりして、主導権を一気に握りにかかった。
岡山本陣に入った家康様は、休む間もなく大砲(大筒や石火矢)の準備を命じた。ターゲットは大垣城、そしてその周辺に布陣する西軍の陣地だ。
孫四郎が砲列の最終確認を済ませ、徳川の砲術頭に発射指示の権を引き継いだ。火薬の調合比率、装填手順、砲身の冷却間隔——すべて書付にして渡してある。
俺は岡山の中腹で、その様子を見届けてから、黒田隊の方角へ馬を進めた。
―――
昼前、最初の轟音が大垣方面へ向けて放たれた。
「ドゴォンッ!」
体の芯まで響く音だ。続けて二発、三発——間隔を空けながら、絶え間なく轟音が鳴り続ける。
東軍が放った弾は大垣城の門や櫓を直接破壊するほどの威力はなかった。しかし、城内の石垣や屋根に当たって激しい音を立てた。家康様はあえて「当てる」ことよりも、「絶え間なく轟音を響かせること」を重視した。
家康様の狙いはこうだ。
『江戸から来たばかりのわしの軍には、これほどの大砲と弾薬が唸るほどあるぞ』——という物量の誇示。
俺は黒田隊の脇でその音を聞きながら、内心で頷いた。
(さすがだ。あの音は、攻撃ではなく演説だ)
―――
黒田長政殿が傍らに来て、低く笑った。
「那須殿、あの大砲は那須から運ばれたものと聞いておりますが」
「徳川様の大砲です。我らは運んだだけで」
長政殿はそれ以上聞かなかった。聞かないでくれる、というのが大人の付き合いだ。
午後、赤坂前線で小競り合いが始まった。三成方の前哨が、東軍の挑発に応じて押し出してきたのだ。福島隊が真っ先に飛び出し、黒田隊もそれに続く。我ら那須軍百五十は、黒田隊の左後方で待機した。
主馬が双眼鏡——ガリオン船から持ち込んだ南蛮の遠眼鏡——で前方を観察する。
「殿、三成方の右翼が伸びすぎています。福島殿に押されて陣形が崩れかけている。今、左から横撃を入れれば、彼らを大垣城に押し戻せます」
「行くぞ」
俺は弓を背負い直し、馬を駆けさせた。直勝と六之助が左右に並走する。百五十の精鋭が、田畦を縫って静かに前進した。
―――
横撃は一瞬で決まった。
三成方の右翼側面に、我らが現れた瞬間、彼らの陣形が悲鳴を上げた。直勝が剛槍で先頭の騎馬武者を払い落とし、玄妙が——いや、玄妙は会津押さえに残してきた。代わりに鈴木弥右衛門が槍で続く。俺は弓を引き、敵将らしき指物の武者を一矢で落とした。
「鬼だ——那須の鬼だ——」
誰かが叫んだ。それで充分だ。
三成方の右翼が崩れ、福島隊と黒田隊が一気に押し込む。我らは深追いせず、敵が大垣城方向へ後退するのを見届けてから引いた。損害は軽傷数名。狙い通りだ。
黒田長政殿が陣に戻った俺に近づき、静かに言った。
「那須殿、あの一撃——見事でした。横から入って深追いせぬ。あれが一番難しい」
「お役に立てたなら何より」
「家康様にお伝えしておきます。本日の崩しは、那須殿の一手によるものと」
俺は深く頭を下げた。これでいい。長政殿の口を通せば、家康様には正しく届く。
―――
家康様の真骨頂は、十四日の夜から深夜にかけての行動だった。
大砲を撃ち込ませる一方で、本陣周辺で大量の松明を焚かせ、軍勢が移動しているように見せかけた。
砲声に紛れて、わざと三成の陣に聞こえるような大声で「これより三成の居城・佐和山を包囲し、一気に落とすぞ!」と兵たちに叫ばせた。
大砲の音が響くたびに、三成の兵たちは「家康が動いたのではないか?」「背後の佐和山が危ないのではないか?」という疑心暗鬼に陥った。
我らは黒田隊の陣営の片隅で、その松明の灯と轟音を眺めていた。主馬が静かに言う。
「殿、家康様は『戦をしている』のではなく、『芝居を打って』いるのです。大垣城の中の三成殿の頭の中で、戦をしているのです」
「うまい言い方だ」
「三成殿は当初、防御力の高い大垣城に籠もって家康様を迎え撃つ——長期戦にする——構えでした。しかし、家康様の岡山本陣からの砲撃と『佐和山攻め』の噂が、三成殿の決断を狂わせます」
―――
家康様の狙い通り、三成は「大垣城で大砲の餌食になりながら孤立するより、打って出て関ヶ原で野戦を決行し、家康の首を直接狙うしかない」と判断させられた。
十四日の夜、雨が降りしきる中、西軍が大垣城をこっそり抜け出して関ヶ原へ向かったのは、まさに家康様が放った大砲と心理戦の成果だった。
雨音と砲声の合間に、六之助が偵察から戻ってきた。
「殿、大垣城から西へ——西軍が動き始めました。雨に紛れて関ヶ原方面へ」
主馬がニヤリと笑う。
「釣れましたね」
「釣れた、と言うより——出されたのだ」
俺は弓を握り直した。
―――
後世の記録では、家康様はこの時、側近の本多正信殿に対し、こう漏らしたと伝えられている。
「大砲の音は三成への挨拶よ。奴が寝られぬよう、一晩中景気よく鳴らしてやれ」
家康様が岡山本陣で大砲を撃ち込ませたのは、「三成を大垣城という安全地帯から追い出し、自分の土俵——関ヶ原——へ引きずり出すための呼び鈴」だったのだ。
この砲撃がなければ、三成は大垣城に籠もり続け、戦争は泥沼の長期戦になって家康様に不利に働いたかもしれない。家康様の「大砲一発」は、歴史の針を大きく動かした。
主馬が遠くの本陣の灯を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「これが、天下を取る男の戦のやり方ですね」
「真似はできぬな」
「ええ。真似はできません。だから、隣で見ておくのです」
―――
十四日深夜、黒田長政殿の陣で打ち合わせをした。
「明日は関ヶ原本戦だ。那須殿、引き続き我らの後備でお願いしたい」
「承知。ただし——」
俺は地図を指した。
「松尾山方面に注意を払っておかれた方がよろしいかと。小早川殿の動きが、合戦の鍵になるはずです」
長政殿が、わずかに目を細めた。
「……那須殿、なぜそれを」
「勘です。武断派の血気と、調略の流れを合わせて読むと——あの位置で迷う者が出るはずだと」
長政殿は数瞬黙ってから、深く頷いた。
「貴殿の勘、信じます。明日、私は松尾山への目配りを増やします」
(これでいい。長政殿が明日、小早川への取次役として動く流れを、ほんの少しだけ早めた)
―――
戻った陣で、主馬が静かに言った。
「殿、那珂湊は、もう半分手の中ですよ」
「そうか」
「岡山の大砲は徳川様の威光として響き、那須の名は黒田殿の口から家康様へ届きます。派手さはありませんが、効きどころを押さえました。家康様は必ず覚えています」
俺は雨の音を聞きながら、頷いた。
大垣城から関ヶ原へと向かう西軍の松明が、遠くで雨にかすんで揺れている。
(家康様の呼び鈴が鳴った。三成は出てきた。明日、舞台は関ヶ原に移る——)
俺は弓を傍らに置き、短く目を閉じた。
明日の朝、那須の鬼は、もう一仕事だ。




