第49話 七年の果実——関ヶ原前夜
(慶長二年、戦はあと一年続く。六年間、那須家は戦わずに過ごしてきた。戦わない者だけが、戦後の果実を独り占めできる——)
主馬が「殿、また恐ろしいことを考えていますね」と鋭く読んでくる。
「まあ——そんなところだ」
二人で笑った。
年末に二通の知らせが届いた。一つはルイス・フロイスの死だった。大村領長崎のコレジオにて没した。望郷の気持ちはあったかもしれないが、この地に留まることを選んだ人だ。人は死ぬものと分かってはいるが——しばし感傷にふけった。
もう一通は家康様からだ。輸送に関する依頼と贈答品のお礼、その他の件だった。今はまだ異変はない。だが転生者の俺には、この年明けからが正念場だと分かっている。
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慶長三年三月十五日、秀吉は醍醐寺で花見の宴を開いたが、この頃から体調が悪化し始めた。
俺は年明けから六之助を伏見城周辺の情報網(堺・商人ルート)に配し、秀吉の動向を監視させていた。三月の花見の宴以降、表舞台に立つことが激減し、四月頃になると次第に食が細くなり、身体の痛みを訴えるようになった。
六之助がある日、ニヤリと笑いながら言う。
「秀吉公、死病では?」
俄然やる気が出ているのが分かる。さすが忍びだ、嗅覚が鋭い。
五月末になり、いよいよ病状が隠せなくなってきた。俺は密かに家康様に進言した。
「家康様、太閤殿下の御体、今年が峠かと存じます」
家康様が静かに目を閉じた。
「……そうか。那須殿、お前から聞くとは思わなかったが——信じる」
(転生者の俺には死ぬ日付まで分かっている。だが直接言うことはしない。「察知した」という形にしておく)
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七月、死期を悟った秀吉は、なりふり構わず「豊臣政権維持」のための根回しを始めた。四日、徳川家康ら五大老に対し、秀頼への忠誠を誓う起請文を提出させた。
中旬には病状がいよいよ深刻化した。意識が混濁することもあり、五大老・五奉行を枕元に呼び寄せ、涙ながらに秀頼の補佐を頼み込んだ。「秀頼のこと、頼み申し候」——有名な遺言はこの時期の言葉だ。秀吉は死に際して「撤兵が完了するまで喪を秘すること」を五大老に遺言した。
六之助が死去当日の夜、家康様に知らせを届けた。家康様は翌朝から動き始めた。
(秀吉が死んだ。七年かけて朝鮮で散財し、家康は七年待った。そして那須は七年稼いだ——三者三様の七年だ)
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史実では、家康様は秀吉が禁じていた大名同士の婚姻を積極的に進め、福島正則や黒田長政らと姻戚関係を結ぶことになる。
「那須殿、一つ頼みがある。朝鮮から帰ってくる武断派の連中は、三成への恨みで腹が膨れている。彼らが帰国した折に——那須の馬と酒で、労ってやってくれ」
「それは喜んで。ただし、家康様のお名前は出しません」
「当然だ」
武断派の武将たちは帰国後に博多・堺に立ち寄る。茶屋清次がそこに先回りして接触する。
「那須の殿より、ご帰国のお祝いにと」
勘右衛門も京で動く。詐欺師的な人心掌握術が活きる場面だ。どちらも役者だから問題なく仕事をするだろう。
朝鮮出兵時の兵站で面識がある福島正則殿にはアラブ馬二頭と五年物のウイスキーを贈った。父・如水との情報交換の縁がある黒田長政殿には那須染付の瓶入り十年物のウイスキーを贈り、加藤清正殿には小砂焼の茶碗と那須馬(アラブ混血)を贈った。「那須の馬は戦場で役立つ」という評判はすでに届いていたようだ。
その後、主馬が静かに分析した。
「武断派は三成への恨みで動きます。家康様はその恨みの火に油を注ぐ立場に立てばいい。那須家はその火種を運ぶ役目です」
「詐欺師みたいなことを言うな」
「褒め言葉として受け取ります」
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一つの懸念だった前田利家殿は、家康様にとって最大の牽制役だった。だがその死により、家康様の発言力は一気に増大することになる。
主馬が言う。
「前田利家殿とは、距離を置きましょう。あの方がいる間は家康様も動けない」
「分かっている。那須家は動かなくても問題なし。時間が解決する」
「あの方は——長くない、ということですか」と主馬が感づいた様子だった。
俺は何も答えなかった。それが答えだと、主馬は分かっている。
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家康様に反感を持つ石田三成は大谷吉継や五奉行の増田長盛・長束正家らを巻き込み、反家康派を形成してゆく。
那須家が気をつけるべきことは「三成に疑われない」工夫だ。俺は典膳に命じた。
「那須の帳簿を整理しておいてくれ。石高を少なめに見せる工夫を」
「どれくらいまで?」
「実際の三分の一でいい」
「……かなり怪しくないですか」
「小さく見せることが那須の最大の防衛策だ。三成の標的になるような大きさに見せてはいけない」
六之助が三成の監視網を把握していることも伝える。
「三成殿の間者が那須を見ています。今のところ動きはありませんが——」
「那須は田舎の小大名だ。関わる価値なしと思わせておけ」
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那須のガリオン船が朝鮮撤退の輸送を担う中で、帰国する武断派の武将と自然に接触できた。博多で福島正則殿の荷物を那須の船で運んだ後、酒を一杯酌み交わす機会があった。
「那須殿の船は速いな。来年も頼むぞ」
「はい。来年は——もう朝鮮へは行かなくて済む年になると思います」
福島正則殿が目を細めた。
「……どういう意味だ」
「器は変わらないが、中身が変わる。そういうことです」
(政宗に使ったのと同じ言葉だ。だが福島はもっと単純な男。酒と馬で十分だ)
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主馬が帳簿を持ってきて言う。
「七年間の収支をまとめました。朝鮮出兵前の那須家と比較すると——」
典膳が横から口を挟む。
「私が先に申し上げます。那須家の資産は七年前のおそらく五倍を超えています」
沈黙。
「……典膳、それを家康様に知られたら」
「知られています。知っているから信頼されているのです」
主馬が言う。
「戦わずに稼いだ。その稼ぎで関ヶ原の準備を整えた。那須家は——豊かすぎる小大名から、用意が整った東国の要になりました」
(秀吉は七年かけて朝鮮で散財した。家康は七年待って天下を拾おうとしている。そして那須は七年かけて稼いだ。この三者の差が、関ヶ原を決める)
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慶長五年六月。関ヶ原が目の前に迫ってきた頃、横浜から少し離れた小山で、俺は家康様を迎えていた。
木のない小山に砦を的として設け、カルバリン砲とセーカー砲の砲撃実演を行う。国友孫四郎が各砲の能力——飛距離・破壊力・大きさ・重量——を丁寧に説明した。フランキ砲や旋回砲とは比べ物にならない質量だが、今回は馬牽引と位置変更が可能な改良版だ。
実演では馬に引かせて軽々と移動させた。
「ガリオン船に積んで移動すれば、短時間で展開できます」と孫四郎が説明する。
家康様がしばらく考えてから、静かに呟いた。
「正に……」
次の想定をしているのが分かる。
「では、五町離れた砦を城に見立てて演習します」
各砲から交互に二発ずつ。かなり離れていても体に響く音と振動が伝わってくる。精度も悪くなく、運よく砦に当たった一撃に見学の皆が「おー」と声を上げた。
側にいた酒井家次殿が戦慄しながら言う。
「これは向けられた側はたまったものじゃない」
「大砲は撃ちすぎると傷みます。随時生産して在庫を保ちます」
説明を終えた。家康様はその力を目の当たりにして、至極満足している様子だった。
ちなみに、徳川の面々の中に水野勝成殿の姿があった。那須家の客人として過ごしていた彼は、昨年ようやく徳川家に戻った。高師の浜の頃は酒と喧嘩に明け暮れていたが、那須で主馬や典膳の知識に触れてから本を読み漁り、次は剣術で修練し、最後は茶に落ち着いた。随分と変わったものだ。
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そして、もう二人、驚愕の表情で控えている者たちがいた。
ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)と、オランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)と船長ヤコブ・クワッケルナックと、船員メルヒオール・ファン・サントフォールトだ。
日本の小舟(関船など)に牽引・護衛されながらの航海で、瀬戸内海から沿岸を辿って江戸湾に入るのが精一杯だったらしい。ボロボロのリーフデ号は到着後ほどなく、そのまま朽ちて沈没してしまった。
家康様から紹介を受けて、俺は英語で話しかけた。
「徳川家家臣、那須資晴だ。よろしくお願いいたす」
二人は動揺した。日本人が英語を話すことへの驚きが顔に出ている。
「イングランド人のウィリアム・アダムスです」「オランダ人のヤン・ヨーステンです」
二人が握手を求めてきた。
奥にいるオランダ船の船長と船員にはオランダ語で挨拶をして、握手を求めてきた。
「那須殿はゴアまで行ったことがある人物だ。これから色々と協力してくれるだろう」
家康様がフォローしてくれた。
「家康様、我らは何をすれば良いですか。差し当たって、簡単な日英翻訳辞書でも作りますか?」
「それは良い。早めに日ノ本の言葉を覚えて、直接話ができるようにしてくれ」
「は、畏まりました」
それから俺たちは、三隻のガリオン船が停泊している横浜の湊に移動した。ボロボロのリーフデ号が沈没寸前で辛うじて浮いているのを横目に、海軍基地へ向かう。
「皆さん、きちんと食べていますか?」
俺が聞くと、二人とも芳しくない表情を浮かべる。
「今はこれしかありませんが、腹の足しにはなるでしょう」
鶏肉と飯、ワインの代わりにウイスキーの三年物を出して、宿舎の食堂でふるまった。
「聞きたいことは沢山あると思うが、今は大事な戦争がある。家康様が落ち着いたら、ゆっくりお話ししましょう」
そう言って俺はその場を離れた。
(按針が来た。あと四年もすれば、こいつと共に船を作るはずだ——史実通りに)
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家康様は実演に満足して、会津征伐へ向かうことになった。
主馬がその展開を解説してくれた。
「会津征伐は、家康様にとって仕組まれた罠を逆手に取った壮大な賭けです」
慶長五年正月、上杉景勝が領内で城を築き、道を整え、武器を集めているとの報が入る。詰問状を送ると、重臣・直江兼続から返ってきたのが「直江状」だ。
「家康様の心中としては——上杉を朝敵として討つ大義名分が整った、ということです。しかも、大坂を空ければ石田三成が必ず動く。三成が挙兵すれば、彼を豊臣家を私物化する反乱軍として一掃できる」
さらに主馬は続けた。
「伏見城には腹心の鳥居元忠殿を残しました。三成の挙兵を足止めするための捨て石です。そして七月二日に江戸城に入りながら、すぐに会津へは向かわずに約二週間留まった。三成挙兵の確証を待っていたのでしょう」
七月十九日、三成挙兵の報が届いた。家康様はこれを待っていたかのように利用する。七月二十四日、下野国小山で従軍していた諸大名を集めた——いわゆる「小山評定」だ。
「三成が挙兵し、諸君の妻子を人質に取った。三成に味方したい者は、今すぐここを離れて上方へ戻っても構わぬ」
この言葉が福島正則らの激昂を誘い、「家康殿のために戦う」という団結を生んだ。会津へ向かう軍を、そのまま西へ向かう東軍へと鮮やかに塗り替えたのだ。
主馬の解説が終わり、船の中で主要メンバーが各自の思考に沈んだ。
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那須軍五百は、横浜で大砲その他を積み、桑名で荷下ろしを行った。数年前に水深の深い桑名の湊を、堺の大店の要望と協力で整備しておいたのが功を奏した。
九月に入り、家康様が動き始めた。今回はセーカー砲二十門とカルバリン砲五門を美濃の赤坂を目指して進んだ。大砲を運ぶ行軍も、訓練の一環として良い経験だ。
十日に清洲城付近に到着した。那須軍五百とセーカー砲二十門、カルバリン砲五門が到着すると、どよめきが起きた。明日には家康様本体が到着して合流する。
(ここから関ヶ原まで——すぐそこだ)
那須の大砲が、歴史の歯車を少しだけ押す。
なお、家康様の命を受けた資景は、史実通りに伊王野資信らと共に会津の上杉景勝に備えた。念のため、典膳と玄妙と旋回砲の部隊を予備戦力として付けておいた。
東国は那須家が守る。畿内は大砲が語る。
(関ヶ原——あと五日)




