第48話 種を蒔く——マー、那須の土に還る
資景にこの数年で「那須家の将来」を仕込んでいる。
講師は主馬と典膳という最高の師だ。男の家来と女の者を守り役として付けているが、それ以外に主馬は軍学・地図の読み方・算盤(数字感覚)を、典膳は法令・外交・帳簿の読み方を担当している。俺も基本的な武芸は教えている。
蓮姫と資景(伝門丸)の縁組の話も進み、家臣団に精神的な落ち着きが出てきた。俺としては関ヶ原が終わってからでも良かったのだが——戦乱の中でも家臣たちの顔に落ち着きが見えている。先が明るいことを肌で感じているのだろう。
朝、皆で稽古をしていると、伝門丸も端で木剣を振っている。担当は以前、高師の浜で柳生家から来た者がそのまま清水から那須へと付いてきて、柳生家との窓口になっている。江戸にいる柳生宗厳もたまに顔を出してくる。どうやらアラブ馬が欲しかったらしい。
「高師の浜での徳川様の護衛の件で無理をさせた。まだ二歳馬だが連れて帰ってくれ、代金は要らぬ」
と言ったら、「忝い」と礼を深くして満面の笑みで馬を迎えに行った。
(俺が関ヶ原まであと七年、この子を育てれば那須家は安泰だ。俺の一番の内政は、資景を育てることかもしれない)
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産業が進むと、文字と計算ができないと話が進まない場面が増えてきた。そこで江戸の寺子屋を手本にして、領内の教育を整えることにした。
初めは武士(主に下級・中級)を対象に公費で学校を作り「読み・書き・そろばん」を教えることから始めた。
方針は四つある。
一つ目は地域密着型の教育だ。僧侶・神官・浪人・読み書きのできる村役人などが師匠となり、身分に関わらず子供たちに教える。二つ目は実用性の重視だ。商人の子には『商売往来』、農民の子には『農業往来』、大工には『番匠往来』——将来使う単語や知識を効率よく学べる教材を揃える。三つ目は個別学習で、生徒それぞれの進度に合わせた「手本」を与える現代の公文式に近いスタイルだ。四つ目は道徳の同時教育で、正直さや勤勉さをセットで教える。
「学ばないと損をする」という社会構造を作ることが肝心だ。将来は出版文化を普及させて、娯楽出版物を流通させ「本を読んで楽しみたい」という欲求を学習の動機につなげるつもりだ。
主馬が一言言った。
「殿、那須の地から徳川の時代を先取りするつもりですか」
「そういうことだ」
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出版事業の具体的な段取りを鵜飼勘右衛門に任せた。以下は勘右衛門からの報告だ。
【鵜飼勘右衛門の視点】
私が京都の北、とある静かな寺院の片隅に工房を構えたのは、ちょうど秋口のことでした。
まず最初に動いたのは「人選」です。腕は確かだが頑固で有名な、奈良から来た老彫師を訪ねました。腕がいい職人は必ず一癖あります。正面から「仕事をくれ」と言っても首を縦に振らない。そこが肝心なところです。
私は老師匠の前に、一枚の図案を静かに置きました。経典ではなく、活き活きとした商人のやり取りと街道の地図が描かれた『実用・道中往来』の版下です。そして、こう言いました。
「師匠、仏様のお経を彫るより、もっと面白い仕事があります。文字が読めぬゆえに騙され、計算ができぬゆえに貧窮する——そんな民を、この版木で救えるとしたら、どうですか」
老師匠は最初、鼻で笑いました。予想通りです。
そこで懐から取り出したのが、堺の鉄砲鍛冶に特注させた、吸い付くような切れ味の鋼の彫刻刀でした。職人というのは不思議なもので、道具を目の前に置いた瞬間、目の色が変わります。一言も言わず手に取って試し彫りを始めた老師匠を見て、私は「もらった」と思いました。
工房には若狭から取り寄せた最高級の山桜の板を並べました。絵師が薄い和紙に墨を乗せ、裏返して板に貼り付けます。職人が薄く油を塗り、紙をこすり落とすと、板の上に鏡文字の原稿が浮かび上がる。「カン、カン」と気持ちのいい音が響き、桜の板に実用的な太い文字が刻まれていく。経典とは違う、民のための文字が板に宿る瞬間です。私は何度見ても、この瞬間が好きです。
刷りの工程は少しだけ体力がいります。越前の良質な和紙を湿らせ、版木の上に置いて、竹の皮で編んだ馬連で円を描くように撫でていく。紙が墨を吸い込む感触が手に伝わり、ゆっくりと剥がすと——見事な一枚が現れます。千部刷っても潰れない。これが「知恵の結晶」というものです。
出来上がった本は、私が懇意にしている連尺衆(行商人)に託しました。
頼み方にも一工夫しています。
「これはお経じゃない。お前たちの商売を助けて、子供たちが世を渡るための武器だ。売れれば売れるほど、お前たちにも実入りがある」
欲と義理、両方に訴えるのがコツです。行商人というのは全国を回る情報屋でもありますから、口コミで広がる速さが違います。
京の町角で一人の商人の子がその本を手に取り、たどたどしく地名を読み上げたとき、周囲から歓声が上がりました。それまで一握りの貴族や僧侶のものだった「文字」が、民の手に渡った瞬間です。
私はその光景を、工房の煤けた軒下からニヤリと眺めていました。
「これでいい。版木がある限り、知恵はいくらでも刷れる」
詐欺師と呼ばれることもある私ですが、この仕事だけは胸を張って言えます——誰も騙していない、と。
次の板をすでに用意してあります。民が腹を抱えて笑える「合戦の絵物語」と、殿から依頼のあった「塵劫記」の基本的な「往来物」。どちらも売れる算段は立っています。
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次はそろばんの話だ。
中国式「二五珠」は上が二玉・下が五玉の構造で、中国の十六進法の計算に適している。しかし日本の貨幣や米の単位は十進法が基本だ。到達点は昭和の「四一珠」——転生者の知識がつい先を見てしまう。
図面と作業手順書を作り旋盤職人(ろくろ師)に依頼した。安価な木材を囲炉裏の上で燻すと、水分が抜けて防虫効果と硬度が増す。これで黒光りする渋い安価なそろばんが完成する。品質のランクは三段階だ。極上(松)はツゲ・黒檀で堺の豪商・大名向け、普及(竹)はカバ・カエデで商店主・名主向け、入門(梅)は燻し雑木で寺子屋の子供・一般農民向けだ。
「本を一冊買う値段で、このそろばんも付いてくる」というセット販売を仕掛ければ、読み書きそろばんの普及につながるはずだ。
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横浜拠点の整備が進み「江戸開発」の核心地になりつつある。那須家としては横浜の大型船拠点を「家康専用の軍港」として整備し、見返りに江戸周辺の交易権の一部を得ることになった。善吉(船大工)を横浜に常駐させ、次世代のガリオン船建造を開始した。
タイミングよく九鬼家の事情も変わった。朝鮮の海戦での苦戦により嘉隆殿が隠居を余儀なくされ、息子の守隆が家督を継いだ。この分裂に関係のない九鬼徳隆を頼って、一定数の水軍衆が移ってきた。徳川の時代に海で生きる九鬼家水軍は、徳隆の子孫だけになるのではないかと俺は見ている。
(嘉隆殿には申し訳ないが——他人の不幸がこちらの機会になることは、戦国ではよくある話だ)
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慶長元年。那須家の財政指数がこの三年でグラフの角度が異常に跳ね上がっている。戦での商売は儲かる。
この年、伏見地震が起きた。京・山城を中心に甚大な被害をもたらした内陸直下型地震だ。
しばらくして、見知った顔が那須に現れた。
「旦那、ここ良い土が取れるよ。特に小木須の白土は良い器できるよ」
マー(馬仲)だ。地震で丹波の窯が全壊して逃げ延びてきた。当時のことを話してくれた。
「俺、あそこで死ぬところだったよ。今井さんが来なかったら……」
今井宗久の手の者が助け出し、家族ごと堺へ連れて行き、船を使って那須まで来たらしい。秀吉公が朝鮮から連れてきた陶工たちとの軋轢も重なり、この機に丹波を離れると決めたらしい。土師弥十郎の焼いた金結晶釉に興味を持っていたことも、後押しになったと言う。
そういう訳で、マー(馬仲)一家はここで暮らすことになった。
俺は茶屋清次・土師弥十郎・本阿弥光悦にマーを交えて相談した。工房はどこに設けるべきか。
「そう遠くなく、集中できる場所に作るべきかと」
光悦が言い、二人も頷く。
「分かった。マーの要望を聞いて、後は典膳に伝えてくれ。人は出す」
そう言って散会した。
マーは窯と工房と家が出来上がるまで、弥十郎の所で作品を眺めたり作ったりしながら、牧の奥にある温泉に家族で出かけたり、昼からウイスキーを飲んだりと気ままに過ごした。その合間に窯場の整地や穴窯の築窯を指示しながら、二ヶ月かけて築窯が完了した頃には工房と新居も完成した。
試し焼きと土の精製を開始して、やっと丹波にいた頃のペースに戻ってきた。
成形して乾燥させ、素焼きで二ヶ月。年が明けて慶長二年に絵付けをして本焼きをした。初めて窯を開けるまで、さらに二ヶ月。
皆が固唾を飲んでマーの動きを見守った。
「んー。土が違うのと、初めての窯でこのくらいなら合格点だ」
マーの一言で、皆が一斉に作品へ向かった。
「見事ですね。土の違いが那須の器として個性が出てる」と茶屋清次が言う。
「これでいいんですよ。同じものなら明で買えばよろしい」と本阿弥光悦が言い、土師弥十郎も頷いた。
「旦那、ここの土、気に入りました。これ——織田長益殿に贈りたいと思います。かなり心配していたので」
「初物ですから、私が選んでよろしいか?」と光悦が息巻く。負けじと茶屋清次も動き出す。
那須に移動後の段取りを織田長益殿が引き受けてくれるとのことで、こちらでの活動が円滑になった。お礼を兼ねて、金結晶釉の器と合わせて贈ることになった。
(那須小砂焼の窯が三基になった。弥十郎、マー、そして次は——)
俺はそう思いながら、窯場から上がる薄い煙を眺めた。土が人を呼び、人が土を生かす。那須の地は、まだまだ化ける。




