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『那須資晴、二度目の転生』  作者: 山田村


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第45話 利休逝きて、土は黄金を宿す





 小田原征伐の折、山崎の戦いで共に戦った縁がある高山右近に声を掛けていた。秀吉から距離を置きたい右近と、秀吉の目を欺きたい俺の利害が一致していたのだ。


 前田利家の元にいる高山右近は、武将であり茶人。茶室の設計にも通じている。建築のみの関わりになるが、完成まで那須の地に逗留してもらった。その時のやり取りは、今でもよく覚えている。


「右近殿、改易後の身と聞いた。那須の地で茶室を一室、設けたい。指南を頼めるか」


「……那須殿から茶室の話が来るとは、思わなかった。キリシタンであることを気にされぬのですか」


「俺は武の者だ。信仰より腕を見る。茶の腕もな。それに儂は、ルイス・フロイスと二回も旅に出ているぞ!」


 この一言で右近が那須行きを決めた——そして茶室の完成した経緯がある。しかし本格的な茶はこれからで、茶室が有るだけであった。




   ―――


 天正十九年二月、横浜の拠点に今井宗久から急ぎの文が届く。


『千宗易殿が……切腹との由』


 今井宗久は堺の人脈の要だ。利休と宗久は共に「天下三宗匠」と呼ばれた仲でもある。その宗久から届いた文には、珍しく動揺の気配があった。


 俺は文を閉じて、しばらく黙っていた。


 主馬が静かに問う。


「殿、千宗易殿との縁は?」


「数度だけ、堺で顔を合わせた。磁器を見る目が凄まじくてな。あの目は本物の審美眼だと思った」


(利休が死ぬ——転生前の知識では知っていた。だが実際にその報せを受けると、違うものがある)


 典膳が静かに言う。


「秀吉様は、諫言する者を好まれない。利休殿は恐らく、朝鮮への出兵に反対意見を持っておられたのでは……」


「典膳、それ以上は言わなくていい」


 俺はそう遮った。言葉にすると、別の誰かまで危うくなる。


 沈黙の後、主馬が切り替える。


「では、殿。今年中にやるべき内政の話をしましょう。あの方の死を、無駄にせぬ方法を考えるべきです」


 俺は頷いた。主馬らしい切り替えだ。


「そうだな。やるべきことをやるだけだ」




   ―――



 堺商人ネットワークの再編。


 利休の死で、堺の茶人・商人たちが秀吉から距離を置き始める。今井宗久も動揺している。俺はこの機を使って「堺商人の取引先を、徐々に横浜の一部へ変更する」と提案した。


「宗久殿、堺は今後も安全ですか?」


「……那須殿、それを聞かれると辛い」


 宗久が黙って頷いたことで、俺は家康様との方針でもあった横浜拠点の整備を、加速させる決断をする。


 典膳が、利休の弟子たちを下野に招くことを提案してきた。利休の弟子の一部が、京・堺にいられなくなる。俺は典膳を通じて二、三名を、下野の烏山城付近に「茶師として招く」ことにした。


 目的は二つ。表向きは茶の文化振興。裏の目的は「堺の情報網を下野に引き込む」ことだ。


「利休殿の美意識を、那須の地に残す。それだけだ」


 と俺は言うが、典膳はその本当の意図を読んでいる。


 主馬は「茶と政治は切り離せない」と分析した。


「利休が死んだ理由は、茶席が政治の場だったからです。秀吉は茶席で本音を言われるのを恐れた。逆に言えば——那須家が茶を整えれば、諸大名と本音で話せる場ができる」


 俺はこの提案を採用し、烏山城の茶室を本格運用することに決めた。


 それとは別に、厳密に言えば利休関連になるのだが、伴六之助が、


「マー(馬仲)の弟子で、利休の弟子でもある土師弥十郎という人物が、支援を求めています」


 と報告してきた。利休の死の知らせを受けた後、織田長益殿から文が届いていた、あの同一人物だな。


『利休殿の弟子筋に、行き場を失った陶工がひとりおります。那須様のお役に立てるかと思い……』




   ―――


 俺が会いに行くと、弥十郎は堺の裏長屋で黙々と土を捏ねていた。


「利休殿とは、どんな縁だ」


「茶碗をひとつ、認めていただきました」


「それだけか」


「それだけです」


(寡黙な男だ。だが、その手が語っている)


 土師弥十郎(はじやじゅうろう)。大和国・奈良の瓦師の家系で、土師氏の末裔を自称する。年齢は三十五歳。利休の茶会で茶器の目利きとして重用されていた陶工だ。


 堺の今井宗久の紹介でマー(馬仲)の工房に出入りし、明の技術を独学で吸収した。明の青花技法と日本の侘び土を融合した「和洋折衷の焼き物」が持ち味で、利休に「余白の美を知る、数少ない陶工」と評された。


 性格は寡黙。だが、土と窯の前では別人のように饒舌になるという。食い物への執着が強い——これは俺と気が合う。利休の死後、後ろ盾を失い、行き場をなくしていた。


 マー(馬仲)の工房で、隅に控えていた職人がいたのを覚えている。言葉は交わさなかったが、見覚えがある。あの男だ。


「下野に工房を作る。ついて参れ」




   ―――


 下野の小砂(こいさご)には、良き土がある。


 これは——水戸藩の第九代藩主・徳川斉昭が、那珂川の景勝地を巡視していた際、小砂(こいさご)の地で非常に良質な陶土が採れることを発見した、という史実をそのまま頂くことにした。


 江戸末期の焼き上がりは、黒みがかった茶色や深い飴色が中心で、「重厚で渋い質感」だった。それが昭和初期にかけて、小砂特有の土と釉薬の化学反応によって生まれる「金結晶(きんけっしょう)」という技法が確立される。


 まるで金粉をまぶしたような美しい輝きは、小砂焼の代名詞となり、贈答品としても人気を博した。俺は、これを目指そうと思う。密かに、作業手順を本にまとめることにした。


 典膳に任せた二、三名の茶師。一人目は、今井宗久の紹介で利休と行動を共にし、宗久との関係も深い茶屋清次(堺の茶商)に確定した。茶屋清次の役目は、堺や京、畿内の情報網の橋渡し役だ。面識があったので、すでに下野に向かっている。


 秀吉側の古田織部、細川忠興、それに山上宗二にも連絡を取った——が、初めに調べたところ、山上宗二はすでに亡くなっていた。古田織部、細川忠興の二人は、共に秀吉側の家臣や領地持ちなので、情報提供者として、また外交ルートとしての交流はできる。


 特に古田織部は利休七哲の筆頭格で、最も信頼された弟子だ。行き場のない利休の弟子に手を差し伸べる那須家に対して、わざわざ謝意の文が届いたほどだ。そして、織部から、


「儂は下野には行けぬが、弟子を紹介する」


 と一筆あった。


 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、三十三歳。京在住。刀剣鑑定師にして、芸術家である。織部の美意識に触発され、独自の芸術を開花させた男だ。陶芸・書・蒔絵・庭園・漆芸——複合芸術家。性格は自由奔放、権威を嫌い、美に対して妥協しない。


 本阿弥光悦は織部の勧めもあったが、利休の死後、京の茶の世界が息苦しくなった時期に「面白い東国の武将がいる」と聞いて興味を持った、とのことだ。


 いずれ「那須の小砂焼」の美的方向性を決める監修役として、陶芸家・土師弥十郎との対話の中から、那須の小砂焼の独自様式が生まれることを期待する。




   ―――


 那須の地、整備された「小砂の土」の産出地にて。


 土師弥十郎、本阿弥光悦、茶屋清次が、土を真剣に観察している。皆が、品質の良さに唸っていた。俺は問いかける。


「下野の中で、陶器に一番適した土だと思う。皆はどう思うか?」


「驚きました。予想外に良い土です」


 土師弥十郎が静かに言い、皆も頷く。


 その後、ほど近い中山にある、白い粘土(カオリン)の「烏山粘土」を見てもらった。鉄分を少し含むが、精製すればかなり明るい色になる。カオリン質を含んでいるため、耐火性が高いのが特徴だ。


「これは、マー(馬仲)が作っていた磁器の原料だ。精製すれば、白に近い色になる」


「なんと——白磁の土」


 全員が驚く。


「他もあるが、徳川様の許可が下りれば、そちらからも入手が可能だ」


 その後、屋敷で本を二冊見せた。それは『那須小砂焼の手引書』と『那須磁器製作手引書』である。


 初めに土師弥十郎が磁器の書を読み、集中している。本阿弥光悦は小砂焼の手引書を読み、集中する。茶屋清次は——


「殿、このような物を、どこで」


 との問いに、


「一つは明で、後は秘密じゃ」


 と答えた。それ以上の追及はしなかった。


「それにしても、あの茶室は、流石、右近様ですね」


 と茶屋清次が言う。


「あー、何ともいえぬ佇まいだ。儂でもわかる」


 土師弥十郎が読む内容を、要約すればこうだ。




―――


一、白土(カオリン)の選別


 那須烏山南部、中山・小木須の沢より出づる「白き石の如き土」を求めるべし。


 目利き:水に浸して容易に崩れ、指でこねて雪の如く白きものを選び抜くこと。


 精錬:砕いた白土を水に溶かし、目の細かい布で幾度も漉して、砂や鉄の粒(黒い点)を徹底的に取り除くべし。


二、磁石(長石)との調合


 白土のみにては火に耐えかねて割れるゆえ、同じく八溝の山より採れる「長石(ガラス質の石)」を粉末にして混ぜ合わせるべし。


 配合:白土七に対し、長石三の割合を基本とする。これが「骨」と「肉」の関係なり。


三、成形と乾燥


 轆轤(ろくろ)にて、極限まで薄く挽くべし。磁器の価値は、光を透かす「薄さ」にあり。


 影干し:急激な乾燥は割れを招く。風通しの良き日陰にて、数日間じっくりと乾かすこと。


四、施釉(せゆう)


 内側を白く、かつ滑らかにするため、長石の粉に木灰を混ぜた液に潜らせる。


 秘伝:陶器(錫釉)と違い、素地そのものが白いため、釉薬は「透明」であるべし。


五、焼成(1300度の極限)


 これこそが最大の難関なり。通常の陶器(1000度前後)では、磁器にはならぬ。


 登り窯:山の斜面に「登り窯」を築き、大量の赤松を焚き続けるべし。


 火加減:窯の中が「白熱し、目が開けられぬほどの輝き」に達した状態で、三日三晩維持せよ。これによって、土は石へと還る。




―――


 土師弥十郎は汗を拭い、


「間違いありません。マー(馬仲)の工房での学びが、実践できます。特に白土の選別と施釉は、参考になりました」


「すまんが、細かい所は自分で工夫してくれ」




 本阿弥光悦が読む内容を、要約すればこうだ。




―――


那須小砂焼製作秘伝手引書


 この書は、那須の至宝「小砂の土」を用い、黄金の如き輝き(金結晶)を出すための、禁断の作法を記したものである。


一、土の選定(地中の宝を見極むること)


 小砂の里の山より、赤みの強き土を掘り起こせ。


 指南:粘り気が強く、手で捏ねた際にひび割れぬ土が最上なり。


 秘伝:土の中に混じる「黒き石の(マンガン)」こそが、後の黄金を呼ぶ種となる。これを取り除かず、極限まで細かく砕いて混ぜ込むべし。


二、釉薬の調合(水の如き薬の作り方)


 基本:イスの木、あるいは(なら)の木を焼きし「木灰」を水に溶かし、何度も漉して「アク」を抜け。


 黄金の粉:先の「黒き石の粉」を、木灰の三割ほど加えよ。この配合を誤れば、ただの黒き器となり、黄金の華は咲かぬ。


三、火入れと「ねらし」(焔を御する術)


 攻め時:薪(赤松)を絶やさず、窯の中が「太陽の如き白光(約1250〜1300度)」に達するまで、三日三晩焚き続けよ。


 秘策「ねらし」:最高温度に達したところで火を止めず、細き薪をくべ続け、半刻(一時間)ほどその熱を保て。これにより、釉薬の中の黄金の種が目覚める。


四、徐冷の極意(黄金を定着させる静寂)


 これこそが、最大の秘伝なり。


 作法:焚き終わるや否や、窯の口、煙突の隙間をすべて「泥」にて塗り固め、一筋の風も入れるべからず。


 (ことわり):急に冷ませば、器は黒ずむ。窯の熱を逃がさず、二日二晩かけて「じわじわ」と冷ますべし。その静寂の中で、器の表面に黄金の結晶が、「雪の華」の如く芽吹くのである。


五、那須家への献上と管理


 この器は、単なる雑器にあらず。那須の土が火と出会い、戦なき世を願う、祈りの結晶なり。




―――


 本阿弥光悦は溜息をついて、


「正に、秘伝書」


 と難しい顔をして、また、溜息をした。


「弟子達で足りぬ場合は、こちらから動ける者を用意する」


 と伝え、散会した。


 最後に、手引書の末尾に記されるべき一文を、こう書き添えた。


『この書、他国へ漏らすべからず。もし漏らす者あらば、一族悉く断罪に処す。これ、那須の国の宝なり』


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