第42話 豊かすぎる小大名の謀
高師の浜に戻り、主馬と典膳を離れに招いた。前回と同じく、二人は重大な話があることを肌で感じているようだ。俺は唐突に切り出した。
「俺は徳川様に臣従と婚姻を考えている」
「なんと、臣従ですか。それは考えあってのことと思いますが、詳しく聞かせてくれませぬか」
主馬が前のめりになる。
「主馬も知っての通り、俺の父はかなり弱っていて寝たきりだ。間もなく亡くなると思っている。そこで本拠地を下野に移そうというのが一点。浜のない下野では今の船を維持できない。そこで徳川様だ」
「それだけではないと思いますが」と典膳が静かに言う。
「次に——いつかと言うと、天正十三年三月に下野でまた戦がある。その後、九月が決戦となる」
「それは可能性はありますが、何時ぞやの予言……!」
「如何にも。それと、十一月に岡崎城代の石川数正が出奔して秀吉の元へ行く。その後、秀吉は臣従を求めてくる。これが二点目だ」
「なんと」と両名が声を揃えた。
「まだあるぞ。天正十四年、家康様は上洛して秀吉に臣従する。これが三点目だ」
「なんと、それらはどうやって……」と典膳が絶句する。
「いじらない限り、史実通りに進む。家康様の代に天下は安定する」
二人は深く頷いた。
それから、徳川様に交易の件とそれとなく資晴の心中を綴った文を、勘右衛門に託して届けさせた。下野の大田原綱清・大関高増には「宇都宮軍が三月から薄葉城付近で動くおそれあり、警戒せよ」と文を送った。
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史実通り、三月に宇都宮軍が攻めてきた。事前に警戒していたため、すべてを撥ね退けることができた。
我らは船で掛塚の浜に降り、浜松の家康様を訪ねた。交易の話、これから起きる下野の戦、下野への帰国、今後の見通しを匂わせて帰った。
その後、清水の浜で交易を兼ねて上陸し、下野へ向かった。
五月、那須家の家臣一同に今後の方針を話した。初めに新たに家臣となった鈴木弥右衛門を紹介する。大田原綱清・大関高増は沈黙していたが、不満はなさそうだった。
「臣従してからが本当の勝負になる。戦はまだまだ続く。各々、気を引き締めて参ろう」
そう締めくくった。
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九月下旬、宇都宮国綱・芳賀高継らが率いる軍勢(約一万超)が薄葉原付近に布陣した。那須軍は精鋭約三千を率い、福原(現在の大田原市)付近から薄葉原へ向けて出撃した。
二十五日午前——開戦。
圧倒的な兵力差を背景に、初めは宇都宮軍が押し気味に進み、那須軍は大関弥四郎と玄妙たちが防戦に徹する。
昼過ぎ——那須軍の奇襲。
那須軍はあえて自軍を引かせて敵を誘い込む「釣り野伏せ」のような戦術を取った。赤井直勝を側面に、鈴木弥右衛門を背後に回し、同時に奇襲を仕掛けた。
午後——宇都宮軍の崩壊。
宇都宮軍は予期せぬ反撃により混乱に陥った。さらに大関高増・大田原綱清らの活躍により、宇都宮軍の有力武将が次々と討ち取られた。
主馬と戦況を眺めていたら、
「作戦通りですね。直勝と弥右衛門が通ったところは死体の道ができていますな。少しやり過ぎでは」
「俺も含め、暴れ足りなかったからなー」
有力武将をすべて失った宇都宮軍の後方は敗走を図ったが、那須軍が追撃して多大な損害を与えた。直勝と弥右衛門の名は、宇都宮軍にとってトラウマになるだろう。鎧を捨てて叫びながら逃走したのだから。
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十月後半、戦後処理を家臣たちに任せ、我らは浜松を目指した。
浜松に着いたのは二十日。事前に勘右衛門に文を届けていたので、すんなりと家康様に目通りが叶った。
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浜松城の奥書院。
石川数正の出奔から数日。徳川家康は軍制の刷新と秀吉への対応という、文字通り「徳川家存亡の機」に直面していた。重苦しい空気が漂う城の奥で、かねてより予約のあった那須資晴が、薄葉原での勝利を背負って現れた。
那須殿とは長篠の戦い以前から縁があり、本能寺の変での伊賀越えの助力、市殿の三姫保護、南蛮船を通じた極秘の交易と、単なる地方領主を超えた経済的・軍事的な信頼関係がある。
家康様は書状から目を離さないまま語った。
「……那須殿か。約束の刻より少し早いな。だが、今のわしにはその性急さがかえって心地よい。……薄葉原の戦果、しかと聞き及んだ。宇都宮を退け、北の門を閉ざしたその武功、見事であった」
俺は入室し、居住まいを正して座った。
「徳川様。戦勝の報告はあくまで表向き。今日参じたのは、この浜松に漂う『迷い』を断ち切るためでございます。数正殿の一件、心中お察し申す。なれど、一人の臣が去ったとて、徳川の根幹まで揺らいだわけではありますまい」
家康様がようやく顔を上げ、俺を直視した。
「揺らいでおらぬと言えば嘘になる。数正はわしの手の内をすべて知り尽くしておった。……だが、那須殿。そなたが今日この時期にわざわざ足を運んだのは、単なる見舞いではあるまい」
「……察しが良い。これをご覧じろ」
俺は懐から一枚の紙を取り出し、畳の上に滑らせた。南蛮交易でもたらされた銃火器と、国友孫四郎が仕上げた新型銃、硝石の目録だ。
「薄葉原で宇都宮を破った際、我らは奴らが密かに蓄えていた物資を奪い取りました。これらを含む最新の備えが、既に陸揚げを待つばかりです」
家康様は目録を手に取り、わずかに眉を動かした。
「……これは。数正が持ち去った軍機を埋めて余りある量だな」
「徳川様。いずれ秀吉に膝を折る道を考えておられることは、以前の文からも読み取っております。時勢に抗えぬことは、私も理解できる。なれど、無様に降る必要はない。この火力が、そして北関東の那須が背後を支えているという事実が、秀吉との交渉において『牙』となるはずです」
家康様は深く溜息をつき、しかしその表情に微かな希望の光が宿った。
「……『臣従』か。わしが関白に膝を折るその時、背後にそなたという不敵な男が控え、最新の南蛮船が海を睨んでいる。……ふっ。そのような構図を突きつけられれば、流石の秀吉も徳川を軽んじることはできまいな」
「左様。徳川様が忍んで天下を待つと言うならば、この資晴、その『楯』となり『楔』となりましょう。数正が去った穴は、我ら那須の武力と海からもたらされる富で埋めてみせる。……さあ、顔を上げられよ。徳川の灯火は、まだ消えてはいない」
家康様は目録を握りしめ、力強く頷いた。
「恩に着る、資晴殿。……さあ、今夜は南蛮船の次の荷についても語り合おう。この窮地を、最大の逆転劇に変えるための策をな」
―――
高師の浜に戻ると、文が届いていた。父が亡くなった。
秀吉様に、高師の浜の知行地返還と下野帰国の旨を文で伝えた。多忙ゆえ目通りは叶わなかったが、了承の返信が届いた。
清水の浜に簡単な拠点を設け、海軍の基地とした。海軍関係はすべて清水へ移り、先月完成した国産ガリオン船「瑞龍丸」を加えた三隻が清水に入港した。那須軍はそのまま下野へ移動となった。
―――
下野に帰ると、畿内とは違う落ち着きを感じる。
天正十四年、嫡男が誕生した。のちの資景だ。春姫はすでに二人の女児を産んでいる。やよいと雪瑤にも二人ずつ女児がいる。小田原征伐まで四年ある。この地で内政に力を入れる時だ。
徳川領の清水に設けた拠点を改良して、船の補修ができるドックを整備し、海軍の駐屯施設を作った。船大工の善吉たちも清水へ移動した。大砲組の国友孫四郎も清水に工房を構えた。清水の海軍は家康様のお抱えのような扱いを受けている。
下野での内政方針は大きく三点だ。
まず「那須の金・銅」と「硝石」の増産。戦には金と火薬が必要だ。領内の那須・八溝山系にある金山・銅山の採掘を強化し、得た金をガリオン船での南蛮交易の元手にして家康様の経済力を陰で支える。また、家康様から伝授された「古土法」を用い、領内の村々に硝石生産を割り当てる。後の小田原征伐や関ヶ原で徳川軍が使う火薬の備蓄となる計算だ。
次に城郭の「対大砲」改修。烏山城・大田原城に南蛮の築城術の発想を取り入れ、石垣の積み方や土塁の厚さを改良。フランキ砲などを配備し、北関東最強の要塞群へと変える。同時に領内に宿場と伝馬を整備し、軍勢の移動速度を飛躍的に高める。
三点目に「那須衆」の軍事再編。薄葉原で勝利した精鋭たちを近代的な軍団へ昇華させる。石川数正の出奔後に家康が導入した武田流軍学と、諸外国の軍学も取り入れる。那須の名産である馬を改良し、ガリオン船で輸入した大型のアラブ馬を交配させて突撃力の高い騎馬隊を育てる。
そして役割分担を定めた。
外交・知略の総責任者は大関高増。那須家臣団の中で最も発言力が強く、実質的な「最高責任者」だ。朽木典膳・鵜飼勘右衛門・九鬼徳隆が補佐する。徳川・北条との外交交渉と機密管理を担い、高増が俺の代弁者として浜松の家康様との交渉を取り仕切る。
軍事・防衛の重鎮は大田原綱清。対宇都宮・佐竹の最前線防衛と、大砲・硝石の秘密輸送の実務を担う。鈴木弥右衛門・赤井直勝・玄妙・秋津主馬が補佐する。
隠密・山岳ルートの番人は千本資俊。足尾・日光ルートの警備と佐竹領への攪乱工作、秘密の物流ルート確保を担う。伴六之助が補佐する。
奥州——伊達政宗——に対する情報収集と牽制は、芦野盛泰・伊王野資信の両名が担う。
この戦略には名前をつけた。「豊かすぎる小大名」だ。
この四年間、那須家は表向き「宇都宮との小競り合いに明け暮れる地方領主」を演じながら、内実として徳川並みの軍事・経済水準を築き上げる——それがこの名の意味だ。
家臣たちの前で「家康様との密約と今後の計画」を初めて明かした時、皆がどんな内心を抱いたかは分からない。だが俺には確信があった。
あの目の輝きは、希望の光だ。




