第40話 天正十年、三人の沈黙
高師の浜も、チラホラと家々が立ってきた。高石神社から少し堺寄りに屋敷兼代官所、その周りに家臣屋敷、そして道を挟んで商人屋敷が浜沿いに建ち並んできた。高石神社から浜までの道を舗装し、途中で十字路を設けて、南は和泉方面へ途中まで、北は堺まで繋げた。
「舗装した道路の区画を縄張りしていますが、立地の良いところは摂津・和泉・近江・山城・河内の大店が借りていきますね。堺の今井・津田・千などは、代官所の近くに借りています」
典膳が言う。浜の海軍砦の要所には大砲を設置しており、その中心には新造艦を建造するドックを完備している。船大工の善吉と仲間五名を九鬼家からお借りし、俺が面接した船大工二十名が善吉の下で働くことになった。この広い砦は九鬼徳隆が管理している。浜で暴れていた海賊も雇い入れた。俺が面接した者たちは、きちんと仕上げておいた。
善吉が仕上げたガレオン船の半サイズの練習艦が、海軍新兵の訓練に使われている。善吉にはガリオン船を発注中だ。そんな折、客が来た。国友大砲組の国友孫四郎が、妻のさよ、息子の鶴松、辻弥兵衛、市川源次を連れてやってきた。引っ越しの挨拶だった。典膳が親方に声をかけ、海軍砦内に工房を作って手配してくれたらしい。
「頭、よく来てくれた。新天地で苦労をかけるが、頑張ってくれ。鉄砲も作るか?」
「へい、ご要望がある時は承ります」
「ほー、少し待っておれ」
書き溜めた図面を探しに行く。
「これを見てくれ。これはフリントロックの前段階——スナップロック(スナップハンス)だ。火打石をバネで叩きつけて火花を出す。火縄より安全で、携帯性の高い銃の図面だ」
国友孫四郎と辻弥兵衛、市川源次は真剣に図面を見ていた。特に孫四郎の目が真剣だ。
「これは……すごい」と他の二人も頷いた。
「これは南蛮のドイツで今から十年前に考案されたものでな、まだドイツでも完成されていない。この五枚の図面はその写本だ。興味があれば作ってくれ」
「大変興味があります。これほど興奮したのは久しぶりでございます。ぜひやらせてください」
俺は孫四郎に五枚を見せた後、残りの三枚——進化系としてフリントロック式(火打石式・完成形は一六一〇〜一六三〇年代)の図面も渡しておいた。はたしてどのように仕上げるか、楽しみだ。
―――
それから数日後、鵜飼勘右衛門が客を連れてやってきた。服部半蔵と鈴木弥右衛門が訪ねてきたのだ。
服部半蔵については「那須殿の忍びは伴氏・鵜飼氏の系列とか。少し情報を融通してほしい」というお願いだった。徳川様は嫌いではないので、お互い情報を入れ合うのは問題なしだ。
(信長様の命で正室・築山殿を殺害し、嫡男・信康が自害に追い込まれた時期だ。家康様は内部の悲劇を抱えている。「苦境の徳川から探りを入れてくる」——その意図がどこにあるかは、まだ分からない)
厄介なのは鈴木弥右衛門の件だ。鵜飼孫六からの文を携えてのことだった。
「鈴木弥右衛門という自信過剰な馬鹿の目を覚ましてくれ。死んでも構わん」
何とも気の毒な御仁だ。
「では、鈴木殿、今日はこれから海軍砦に所用がある。明日の朝稽古を見学したのち、立ち合いましょう。今日はこちらでゆっくりされたし」
―――
翌朝。
弥右衛門は稽古場で鋭い素振りをして、俺たちを迎えていた。まるで胸を貸してやるというような自信があふれる雰囲気が漂っていた。約束だから俺が一番で相手をした。
「いざ」
声と共に手首、首、胴に木刀を軽く当て——終了だ。ぽかーんとしていたので、
「掛け声、聞こえなかったか。もう一度やるか?」
「今一度」
再び「いざ」と声をかけ、攻撃してくるのを待った。鋭い振りが俺を襲う。木刀を軽くいなし、首に一突きして腕に軽く当てた。返しで振ってきた木刀を高速で払い、胸を一突き。
「参った」
礼をして離れた。まぁ強い、というのが俺の正直な感想だ。上泉信綱殿クラスは間違いない。
「鈴木殿、やり足りないだろう。俺とやろう」
直勝が申し出る。放心状態だった弥右衛門は意識を取り戻した。
二人は小半刻(約十五分)ほど稽古をした。後半、直勝の猛攻で勝負あり。弥右衛門またしても放心状態だった。
俺は玄妙や稽古に来ている連中と、指導しながら稽古をしている。
「鈴木殿、剣豪とお見受けした。儂と立ち合いを」
玄妙が言う。弥右衛門は再度、気持ちを立て直した。
二人は四半刻(約三十分)汗をかき、後半は玄妙の一方的な攻めで勝負あり。弥右衛門またしても放心状態だった。
身支度をして食事を取り、「明日も参加したいか」と弥右衛門に聞くと、
「是非参加させてください。何としても、今より一つ腕を上げたく思います」
良い門下生のような人物に生まれ変わっていた。
改めて鈴木弥右衛門という男を見る。三河・設楽の郷士で、三方ヶ原で武田軍と一人で渡り合った逸話を持つ。無骨で口数が少ないが、食い物の話だけは饒舌になる。徳川の家臣ではなく「那須の鬼」の噂を聞いて試しに来た三河の豪傑で、自称「徳川の鬼」と名乗っている。
戦闘に特化した、一騎当千に値する人物だ。
ちなみに稽古に来ている連中の中に、上泉信綱殿から推薦状を持ってここで修行している柳生宗厳がいる。比較的近い大和の柳生の郷から二人ほど見込みのある者を連れてきている。うちのやり方は「去る者は追わず、来る者は拒まず」だ。もちろん武芸者だけの話だが。
―――
天正十年。運命の年だ。
父・資胤より前年、「北条と結ぶ」と文が届いていた。数年後に小さな戦があるはずだ。
弥右衛門が帰った翌朝、俺は一人で高師の浜に出た。早春の大坂湾は霞み、遠く淡路の山がうっすらと浮かんでいる。波は静かだ。足元の砂を踏むたびに、ぬかるまずに沈まないその感触——典膳が丁寧に整備させた石敷きの路が、浜の入口まで続いている。
(この浜から半刻で堺。堺から京までは信長様の命で造った道が繋がっている。そしてあの道の上を、六月に誰かが駆ける……)
内心でそう呟き、俺は波打ち際に立ち止まった。
昨日の弥右衛門との立ち合いが、頭の片隅に残っていた。あの男の目——完敗を食らった後でも、折れなかった目だ。服部半蔵もそうだが、徳川の人間はどこか芯が太い。苦境の中で鍛えられた芯というのは、一代では作れないものだ。
砂の上に跡をつけ、俺はゆっくりと歩いた。考えるとも考えないともつかない時間だ。
孫四郎に渡した図面の中に、俺が持ち込んだ「知識」がある。フリントロック。スナップハンス。火縄より安全で、雨の夜でも使えることになるかもしれない銃。俺は異世界勇者の頃も、日ノ本転生後も、「戦が好き」だと言い続けてきた。だがそれは、戦が楽しいのではなく——戦の中に、自分が最も研ぎ澄まされる瞬間があるからだと、最近になって思うようになった。
孫四郎は昨日、図面を前にして手が震えていた。職人の目が、武器の図面を見て輝いていた。俺はそれを、妙に懐かしいような気持ちで見ていた。俺の異世界での記憶の中にある——あの「初めて本物の剣を手にした日」の感覚と、きっと同じものだ。
(人が何かに本気になる瞬間というのは、どの時代も同じ顔をしている)
そんなことを考えながら浜を一回りして、俺は砦へ戻った。
―――
年が明けて、屋敷の離れで、俺が二人に酒と肴を用意して待っている。干し柿を一皿、いつもの習慣で食い物を一つ添えた。
二人は「今年の展望」という呼び出し文句に少し怪訝な顔をしている。主馬は「珍しいですな、殿が自ら呼ぶとは」と軽口を叩くが、典膳は無言で座る。この時点で典膳はすでに何かを察しているようだ。
俺は前置きなしに切り出した。
「今年、信長様が謀反で死ぬ」
沈黙。
主馬が最初に口を開く。
「……それは予測ですか。確信ですか」
「確信だ」
また沈黙。
(二人の「知らない顔」を見るのが、こんなにも苦しいとは思わなかった)
主馬は動揺を一瞬見せたが、即座に立て直す。感情より先に頭が動く男だ。
「……誰がやりますか」と静かに問う。
「明智光秀だ」
主馬は目を閉じて数秒考え込んだ。
「丹波で共に戦った方ですな」
「そうだ」
「……なるほど。それで殿は、あの時も止めなかった」
俺は黙って頷く。主馬はここで初めて「殿は最初から知っていた」という事実の重さに気づく。知っていて共に戦い、知っていて何も言わなかった——その意味を、今、計算し始めている。
「では、その後は誰が天下を」
「羽柴秀吉だ」
主馬がふっと笑う。乾いた笑いだ。
「……猿が、ですか。なるほど、道理で」
次に典膳が、主馬とは全く違う角度から口を開いた。しばらく黙って杯を見つめていたが、それから静かに言う。
「……足利様の時と同じだ」
一同が静まり返る。典膳にとって「天下人が消える」という事態は、これが二度目だ。義輝が殺され、義昭が追放された。そしてまた——という既視感が、この男の中にある。
(朽木典膳。足利義輝・義昭の二代に仕えた幕臣だ。将軍が殺され、将軍が逃げた——それを二度、この目で見てきた男だ)
俺は典膳の横顔を、少しだけ観察した。
この男を初めて引き合わせたのは、松井友閑殿と今井宗久殿だった。「那須家に欠けている実務の力を補わせるべく」という目論みで、俺の元へ押しつけられてきた。最初の頃は幕府への未練を捨てきれない浪人の顔をしていた。だが高師の浜に道が通り、三太丸が接岸し、倉庫に荷物が積まれ、楽市の声がここまで聞こえてくるようになったいま——典膳の顔は少し変わっている。那須家の一部になっている男の顔だ。
(だから、今夜の告白は、あの男には特に重いはずだ)
「殿は、止めないのですか」
「止めない」
「……なぜ」
俺は少し間を置いてから答える。
「歴史を大きく変えたくない。それだけだ」
典膳が「歴史」という言葉に引っかかる。が、深くは問わない。聡く、かつ深入りしない賢さを持つ男だ。
「では那須家はどう動くべきか。それをお聞きしたいのですか」
「そうだ。お前たちの意見が聞きたかった」
―――
主馬が一歩踏み込んで問う。
「殿は知っていて、何もしないつもりですか。信長様が死ねば、京は必ず乱れる。高師の浜も、鷹司邸も、国元への道も——すべてが危うくなる」
「分かっている」
「分かっていて、動かない」
「動かない」
主馬が静かに、しかしはっきりと言う。
「……それは、殿の中の『那須家』より大きな何かのためですか」
俺は答えない。これが答えだと、主馬には分かる。
典膳が割って入る。実務家らしく、感情論を切り上げる形で。
「では準備だけしましょう。動かないことと、備えないことは別です」
主馬が「その通りだ」と頷く。
ここで二人の息が初めて合う。それを見て、俺は少し肩の力が抜けた。
「そして、重要な案件がもう一つある。変が起きる日、徳川家康殿は堺にいる」
主馬の目が光る。
「……堺。高師の浜から半刻の距離だ」
「そうだ」
「家康殿はどうなりますか」
「伊賀を越えて三河に帰る。道中は命がけだ」
主馬がすぐに地図を頭の中で広げているのが分かる。
「殿は家康殿を助けるおつもりですか」
「少し手伝う。全部は手伝わない」
「なぜ全部は手伝わないのですか」
「家康殿が自力で帰ったという事実が、後の天下取りに必要だからだ」
主馬がしばらく考える。そして静かに言う。
「……つまり殿は、家康殿が将来、天下人になることも知っている」
「秀吉の後にな」
主馬が目を閉じる。計算している。
「光秀殿——秀吉殿——そして家康殿。その順番で天下が動くと」
「そうだ」
勘右衛門か六之助を事前に堺周辺に配置しておく。変が起きた時、家康一行に「伊賀越えの最短ルートと安全な宿場の情報」だけを渡す。那須家として直接護衛はしないが、土地勘のある柳生宗厳殿を護衛に付ける。家康様は那須の者から情報をもらったと認識するが、俺は直接関わらない——そういう段取りだ。
―――
「変の後、最も速く動くのが羽柴秀吉だ。中国攻めの最中に知らせを受け、信じられない速さで引き返す。そして光秀を討ち、信長様の後継者として台頭していく」
主馬が静かに問う。
「……秀吉殿とは、我らはどう向き合うべきですか」
「敵対しない。かといって深くは仕えない。那須家は東国の家だ。秀吉の時代をうまく泳ぐ」
典膳が珍しく苦い顔をした。
「……幕府の時もそうでした。信長様の時もそうだった。泳ぎ続けることが、生き残ることだと——」
「典膳」
「はい」
「お前は今まで二度、仕えた主を失っている。三度目はない。那須家は潰さない」
典膳が深く頭を下げた。この言葉がこの男には一番響く。
頭を下げたまま、典膳はしばらく動かなかった。
俺はその間、余った干し柿を一つ口に放り込んで待った。甘い。高師の浜に越してきてから、柿をよく干すようになった。越前の遠征帰りに覚えた習慣だ。
(義輝様が殺された夜、典膳はどこにいたのだろうか。義昭様が追放された日、何を思っていたのだろうか——俺には聞けない問いだ)
聞けない問いがある、ということを、この転生を経て俺は初めて実感するようになった。俺が知っている「歴史」の中には、典膳という名前は出てこない。彼は歴史に残らない人間だ。だが俺の隣で、確かにこの時代を生きている。
(歴史に残らなかった人間たちが、この時代の骨格を作っている——)
それが、最近俺の頭の中でよく回る考えだ。
―――
主馬が切り替える。感情から計算へ。
「では具体的な備えを申し上げます。三点です」
「言え」
「一つ、変が起きる日取りを教えてください。六月のいつですか」
「六月二日の明け方だ」
「二つ、那須家の兵を京から一時的に動かすべきです。変の混乱に巻き込まれないよう、高師の浜に集結させる。鷹司邸は伴家に任せる」
「それでいい」
「三つ——」
主馬がわずかに間を置いた。
「信長様に、何も伝えないのですか」
沈黙。
「伝えない」
「……分かりました」
典膳が主馬の後を引き取る。実務家らしく、淡々と。
「では高師の浜の倉庫に三ヶ月分の兵糧を積んでおきます。変の後は京への街道が荒れます。自給できる備えが要ります」
「頼む」
沈黙の中で、俺は今まで死ぬ武将を助けたこと、その後を事例を挙げて話した。多少のズレは生じるが、自然に歴史の修正がされること。二人とも俺が天下という野心の対極にいる人間だと分かっている。だから「変えない」という言葉の意味を、二人はそれぞれの形で受け取っていた。
―――
二人が去り際に、典膳がもう一度振り返る。
「殿。信長様は……どのようにお亡くなりになるのですか」
俺は一拍置いた。
「最後まで戦って、自ら火をかけた。立派な死に方だ」
典膳が目を閉じて、小さく頷いた。それ以上は何も言わずに部屋を出た。
(あの男は今、廊下で何を考えているのだろうか)
俺には見えない。が、何となく分かる。
足利義輝様——将軍御所で戦い、三好・松永の兵に囲まれて死んだ。己の剣を最後まで信じて戦い抜いた将軍だ。信長様の最期も、義輝様の死に方と少し似ている。自ら武を持って果てた、という点で。
典膳はそれを、どこかで重ねて見ているかもしれない。
俺は信長様と雉の唐揚げを食った。あの日のことを、なぜか今夜よく思い出す。大した話もせず、ただ旨いと言いながら揚げ物を食った。天下人の隣で、俺も同じ皿から食った。それだけのことだ。それだけのことが、案外深く刻まれている。
(もうすぐ、その人が死ぬ)
感傷は役に立たない。だが、感傷を持たない人間でありたいとも思わない。
―――
主馬が最後に残って、杯を一つ干す。
「殿、一つだけ」
「何だ」
「秀吉の後に家康殿が天下を取るなら……那須家はその時、東国でどう立ち回るべきですか。今から考えておいた方がいい」
俺は少し笑った。
「お前らしいな。まだ二十年先の話だぞ」
「軍師の仕事は先を読むことです」
「……那須家は、家康殿に早めに頭を下げる。それだけでいい」
主馬が頷いて立ち上がる。
「承知しました。では俺は今夜から地図を引き直します」
その背中を見送りながら、俺は一人呟く。
(本能寺まで、あと半年——。俺にできることと、できないことの境界線が、今夜少し動いた気がする)
空になった杯が、行燈の明かりに鈍く光っている。干し柿の皿にはあと二つ残っていた。俺は一つを食って、もう一つを皿の端に残したまま、しばらく動かなかった。
聞こえるのは波の音だ。高師の浜は夜も静かだ。
主馬は今夜、地図を広げて計算を始めるだろう。典膳は廊下のどこかで、しばらく天井でも見ているかもしれない。それぞれの仕方で、今夜の話を消化しようとしている。
俺には、二人にこれ以上できることはない。
ただ——「潰さない」と言った言葉だけは、本物だ。
(なぁ、信長様。俺はあなたを助けない。でも、忘れもしない——)
行燈の炎が、少し揺れた。




