第37話 壬生落城
加賀から戻った後、信長様に謙信の行動を時系列にまとめ報告した。柴田軍の撤退でそれなりの犠牲が出たこと、秀吉が早々に離脱して防御陣形を敷き自軍を守ったことなども包み隠さず伝えた。
信長様はしばらく沈黙した後、「……であるか」とだけ言った。おそらく、謙信の速さと判断力を頭の中で精査していたのだろう。
その言葉の後、静かに続けた。
「謙信が矢傷を負ったと報告が入った。貴様か」
「何分、暗がりでのことにございます。ただ、矢を射たのは私だけでございますので、恐らくは」
それだけ返答し、その場を辞して京に戻った。
―――
翌年になり、国元から百の武士と足軽が到着した。以前から選抜しておいた百名は弥四郎に任せ、国元に送り返す手配を済ませた。
今回の百名の中に、作右衛門と徳蔵という懐かしい顔があった。かれこれ六年ぶりか。すっかり容姿の変わった俺を見て、作右衛門が目を潤ませながら言った。
「若ぁ、立派になられて……この作右衛門、感激しました」
「作右衛門の旦那、若じゃなく殿ですよ」
徳蔵がそう窘めると、作右衛門は大きく頷きながらも「分かっておる。それでも儂には若なのだ」と言って、ぼろぼろと泣いていた。
それから数日後、直勝が訪ねてきた。
「殿、儂は鷹司様のお勧めで、公家の女子を嫁にもらうことになった。歳は儂より三つ下で、殿と同じ歳だ。今度、鷹司様へご挨拶をするので、よろしく頼む」
ほう、公家の娘か。意外だな。もっと活発な娘を選ぶと思っていたが……。これで所帯を持っていないのは玄妙だけか。玄妙は還俗しておらぬから家庭は持たぬだろうし、それは仕方がない。
翌日、鷹司様が訪ねてきて、直勝の嫁の話を詳しく聞かせてくれた。遊びに来ていた縁者の娘を直勝が見初め、鷹司様に泣きついたのだという。直勝が元は赤井家の嫡男で国人の子であること、娘の家の事情も踏まえた上で、この縁談を進めてくださったらしい。
すでに京に家を買い、迎える準備は整っているとのことだった。ここ数度の海賊退治で銭だけは十分に持っているから、経済面は問題あるまい。おまけに、直勝を慕って付いてきた者の中に実務と内政に明るい者もいる。これならば不安はない。
―――
国元から来た兵たちも数ヶ月で、各地で起きる小競り合いに駆り出されるうちに、田舎ののんびりとした兵が少し京の兵らしくなってきた。
三月の中ごろ、父から文が届いた。北条との緊張が再び高まっているとのことで、急ぎ戻れとある。俺は信長様に帰国の文をしたため、お目通りを願い出た。主馬と玄妙に五十名を先に帰国させるよう命じ、俺は直勝・作右衛門・徳蔵と数名で後を追うことにした。
ほどなく信長様から文が届いた。一言「許す」とだけあった。直接お目通りはかなわなかったが、帰国の許可は下りた。京のことは朽木典膳に任せておけば、何も心配はいらない。
急くほどのことではなかった。先行した主馬たちには碓氷峠を越えたあたりで追いつくだろうと踏んでいた。
―――
上野に入ると、空気が変わった。
旅人の数が減り、街道沿いの宿場は妙に静まり返っている。物見をやった徳蔵が息を切らして戻ってきた。
「殿、先の林に旗がちらほら見えます。主馬様たちではなく……別の軍勢かと」
「何処の旗だ」
「遠くてはっきりとは。ただ、那須の旗ではありません」
直勝が刀の柄に手をかける。俺も静かに弓を手に取った。
待ち伏せだ。
北条方の国人が、小勢での帰国と踏んで動いたのだろう。今は壬生義雄を佐竹・那須連合が圧迫している最中だ。那須の若殿の首は格好の手土産になる。それぐらいの計算はする。
林の端から鬨の声が上がり、五十ほどの軍勢が街道に飛び出してきた。
「囲まれる前に潰す。直勝、右を頼む」
「承知」
直勝が先に駆けた。俺も馬を走らせながら弓を引く。先頭の騎馬武者の胸元を狙い、一矢。馬上から落ちる音がした。
さほどの手練れではない。人数だけを頼りに動く軍勢だった。直勝が右翼を崩し、俺と作右衛門・徳蔵で中央を突く。後方では徒歩の者たちが敵の退路を塞いでいた。
半刻もかからなかった。
散り散りに逃げていく敵兵の背を眺め、作右衛門がぼそりと言った。
「若、あれは……赤岩の旗印ではないですか」
「そうだ。北条に付いた上野の国人だな」
追うなと手で制し、散らばった兵を集めた。俺方に深手を負った者はいない。御の字だ。
―――
しばらく進むと、街道の先に那須の旗が見えた。主馬たちだ。
合流すると、主馬が馬を寄せ、少し声を落として言った。
「殿。途中で六之助から報せが入りました」
「聞こう」
「上杉謙信が……死にました。三月の十三日と」
直勝が息を呑んだ。玄妙が馬の上で静かに目を閉じた。主馬は俺の顔を窺うように見ている。
(天正六年、三月。謙信、脳卒中——)
知っていた。最初からずっと、知っていた。
「内乱が起きるだろうな」
俺は特に間を置かず、そう言った。主馬が一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「はい。すでに景勝と景虎が争い始めているとの話が。景虎は北条に援軍を求めたようですが——北条は関東で佐竹・那須連合と対陣中で動けない。だから武田勝頼が代わりに動くかと」
「武田はどう動く」
「景勝に金と領地を積まれ、中立を装いながら事実上景勝側に傾くかと。それが読めていれば、景虎は詰みです」
「その通りだ」
分かっていても、何かが微かに引っかかる。それが何なのかは、うまく言葉にならなかった。
「先を急ごう。北条が動けない今、この街道は荒れる。さっきが最後とは限らん」
「承知いたしました」
一行は街道を南へ歩き続けた。下野はもうすぐだ。
―――
今は四月の下旬。五月中には氏政も山川陣を引き払い、結城城と山川城の間に位置する武井・但馬に陣城を築き、絹川を挟んで佐竹氏と対陣するはずだ。
我らは父のいる壬生城を目指す。壬生城は天守も櫓もなく、比較的簡素な作りの城郭だと聞いている。水堀で囲まれた平城で、正攻法では攻めにくい構造だ。
下野に入ると、父がすでに那須の兵を率いて壬生城の南に布陣していた。我らが近づくと、先遣隊の弥四郎が走り寄ってきた。
「殿、お久しぶりです。大殿がお待ちです。こちらへどうぞ」
「弥四郎、大儀だ。地元の皆もよく鍛えているな」
帰還組と地元組の顔つきを見比べながら少し歩き、父の陣に到着した。父は俺の姿を一瞥し、体の変化を確かめるように一呼吸置いてから、
「よく来た。間に合ったか」
それだけ言った。
「遅れました。壬生の状況を聞かせてください」
「壬生義雄は今、北条本隊が小川台周辺に引き付けられているせいで身動きが取れん。壬生が妙な動きを見せぬよう、ここで監視を続けていた。佐竹義重殿と宇都宮広綱殿は結城城の救援で手が離せない。儂らが壬生を抑えるか叩くか、決める時が来た」
聞いていた通りの状況だ。水堀に囲まれた平城、天守なし、守兵は三〜四百程度といったところか。
俺は赤井直勝・玄妙・伴六之助、そして秋津主馬を、順に父へ紹介した。父はすでに弥四郎から詳しく報告を受けていたのだろう。それぞれの顔を静かに見て回り、
「あい分かった」
の一言だけで済ませた。父らしい。
―――
「主馬、壬生城の図面と地勢だ。どう攻略する」
主馬が地図を広げ、少し考えてから口を開いた。
「壬生城は平城で水堀が深い。正攻法の力押しでは堀で足が止まり、守兵の弓と鉄砲でこちらの損害が大きくなります。数で押しても消耗戦です」
「では」
「城の弱点は補給路です。壬生城の東南——結城城方面との道を断てば、北条からの援軍も物資も届かなくなります。そこを一隊で抑えながら、同時に城の北側から旋回砲で一撃。守兵が北へ集まったところで、南の水堀の浅い箇所から別の一隊が渡り、城壁へ取り付く。守兵を分散させて城門を開かせる。正攻法に見せかけた分断です」
「補給路を断つのは誰が担う」
「直勝殿なら適任です。力押しを好むようで、実は誰よりも速い」
「そういうことなら任せろ」と直勝が即答した。
父が、主馬が地図を見た瞬間に即座に回答し、城攻めの手本のような攻略を立案し、それを実行できる猛者を的確に配置する姿を、静かに眺めていた。畿内の戦での経験を、父は肌で感じ取っていたのだと思う。今回の戦では初陣の者も多い。帰還組が那須の底上げになると、父は確信したはずだ。
―――
直勝が補給路を断つ別動隊として東南方向へ動いた。玄妙が北側に旋回砲の陣を構える。
「ドゴォンッ!」
轟音が壬生の空に響き渡った。
城内から慌ただしい動きが見え、奇声が上がる。計画通りだ。守兵が北へ集中した隙に、六之助と弥四郎が率いる一隊が南の浅瀬を渡り、城壁へ取り付いた。俺は弓で城門前の旗指物を次々に射落とし、士気を削ぎ続ける。
直勝は素早く簡単な柵を築き、兵を配置して補給路を封鎖した。北条の荷駄隊はこちらへ近寄れない状態だ。壬生の内側でも補給路が断たれたことが確認されたらしく、何より玄妙たちの旋回砲の轟音が城内に恐怖を植え付けていた。
北と南の両方から圧力をかけられること、およそ四半刻。壬生義雄が降伏交渉を申し入れてきた。
「父上、城を潰す必要はありません。壬生を使える駒にした方が後々に利があります」
「……お前に任せる」
父が短く言った。
程なく、壬生義雄が城門を開いた。双方五名ずつ、向かい合って場を設ける。初めて壬生義雄と対面した。
(この男は七年後に北条へ戻る——)
そう分かっていながら、俺は静かに口を開いた。
「北条が越後で手を塞がれていることは、すでに知っているだろう。今後は佐竹殿の傘下で動いてもらう」
義雄は黙って了承した。死ぬか、生き延びて佐竹の傘下に入るか。選択肢はそれしかない。数日もすれば、北条にも壬生城落城の知らせが届くだろう。
佐竹殿へ文をしたため、後始末を父に任せた。
―――
我ら百五十名は、結城城を目指した。
小川台の北条勢も壬生落城の知らせで早々に引き上げるかもしれないが、義父が戦ってる場所だ。顔を出さなければ義理を欠く。おそらくまだ睨み合いが続いているはずで、急ぐ必要もなかった。
ゆっくりと移動していると、物見の六之助が戻ってきた。
「殿、ここから一里弱に大道寺家の百名、二町離れたところに河越衆の百名が待ち構えています」
お客さんが来ているか。
「主馬、今の兵で効率よく戦えないか。初陣の者もいるから、経験を積ませたい」
主馬が少し考えてから答えた。
「二百程度なら、殿・直勝・玄妙の三人で暴れるのが一番効率よいかと。ただ……少し策を加えれば、初陣の者たちにも働かせる余地が生まれます」
「どんな策だ」
「大道寺の百と河越衆の百、二手に分かれているのが肝です。同時に動かれると厄介だが、片方が動く前にもう片方を崩してしまえばいい。まず六之助に、大道寺隊の物見を一人二人始末させてつなぎを断つ。連絡が途絶えれば、河越衆は動けなくなります。その間に殿と直勝で大道寺隊を叩く。玄妙は旋回砲で河越衆を釘付けにする。初陣の者たちは崩れた大道寺隊の追い打ちに使えます」
悪くない。大道寺家と言えば、北条の筆頭宿老・大道寺政繁の手の者か。河越衆は北条でも精鋭の部類に入る。それを百五十で相手にするのだから、少しは頭を使わないと割に合わない。
「六之助、動けるか」
「御意」
静かな声で、六之助は姿を消した。
「直勝、いいか」
「いつでも」
「玄妙」
玄妙は無言のまま、旋回砲の方向へ向いた。返事の代わりだ。
俺は弓を手に取り、馬を進めた。
初陣の者たちには、まず見せることから始める。戦とはこういうものだ——那須の弓がどういうものか、この場で全員に刻んでやる。




