第36話 手取川、鬼の壁
我らはフランキ砲関連の調達と錫の輸入のために、マカオとシャムを往復していた。二隻の船で運航し、海賊退治は余興程度にこなして、二回目の往復を無事に終えた。九鬼の水軍の質も回を追うごとに上がり、シャムまでの道中で何度か海賊と遭遇したものの、いまや俺の出番はほとんどなくなってきた。頼もしい限りだ。
京に戻ると、父からの文が届いていた。中を読めば、北条氏の圧力の話と佐竹義重からの盟約参加への打診、宇都宮氏との関係調整の件が綴られていた。伝統的に対立関係にあった宇都宮氏と反北条で連携し、両者の関係を修復するという内容だ。上杉謙信の後ろ盾への淡い期待も、字の端々に滲んでいた。家中では路線転換をめぐる議論が続き、家臣団内で親北条派と反北条派が対立している状態らしい。
下野では、畿内のように年がら年中戦というわけにはいかない。もしもの時は頼む、というのが文の結びだった。俺の噂は遠く下野にまで届いているようだから、戦経験の豊富な京の部隊を少し送り込んで人員を入れ替え、経験を積ませる提案を父への返書に記し、しばらく様子を見ることにした。
大砲の完成を見守りながら日々が過ぎていったある日、信長様から呼び出しがかかった。
「加賀へ行け」
それだけだった。
俺は一瞬、返す言葉を迷った。
(手取川。九月二十三日。夜。謙信、八千。勝家、壊走——)
記憶の中の年表が、脳裏を静かに流れる。
「……勝家様の配下として、でございますか」
「ああ。だが儂の耳目としてな」
信長様は珍しく、ほんの少し目を細めた。普段の剛直な眼差しとは違う、何かを見通すような静けさがあった。
「謙信が何をしたか、誰より早く儂に知らせろ。それだけでいい。後は、生きて帰れ」
生きて帰れ——か。
(歴史通りに動けば、およそ千名の将兵が討たれ、さらに多数の溺死者を出したとされる。だが、それは本当によいのか。俺が動けば、何人が助かる。俺が動かなければ、何人が死ぬ)
問いは、答えを出せないまま胸の奥に沈んだ。
それから屋敷において、内向きと国元の両方に向けて、赤井直勝、秋津主馬、玄妙、朽木典膳、そして武士身分として伴六之助と鵜飼勘右衛門の忍び二名を、正式に那須家の家臣と発表した。一同の顔に、それぞれの覚悟が浮かんだ。続けて、加賀行きの話に移った。
今回の加賀行きは、内政担当の朽木典膳を除く全員で向かう。織田の大軍は加賀の一向宗を警戒しながらゆっくりと軍行しており、我らは六之助の別働隊を除き、八月の末日に出立して現地で合流するつもりだ。
「あの四万の大軍で、あれほどのろのろ進めば、上杉謙信に居場所を教えているようなものだ」
俺が独り言のように呟くと、直勝が「加賀で謙信と戦える」と純粋に目を輝かせた。若さの光だ。俺の中の野獣も呼応して疼くが、冷静な自分がそれをぐっと押しとどめる。柴田様がどのような考えでいるかは知らないが、歴史は着々と史実通りに進んでいる。我らが合流したのは、秀吉が離反する数日前のことだった。
柴田様と羽柴秀吉様へ合流の挨拶を済ませると、佐々成政殿と前田利家殿から声をかけられた。
「おう、那須の弓鬼か。今度は弓だけじゃなく、頭も貸せ」
成政殿らしい物言いだ。何を借りようというのか、いまひとつ要領を得ないが、悪意はなさそうだった。
「久しぶりだな。……今回は謙信が相手だぞ」
利家はそれだけ言って、静かに笑った。どこか試すような目をしていた。
(利家殿、あなたはこの手取川を生き延びる人だ。謙信が相手だと、本当に分かっているのか)
そんな言葉を、俺は飲み込んだ。
―――
九月十五日、七尾城落城の前夜。
遠眼鏡を手にした六之助の配下が、城内の異変を察知した。
「……城内で動きがあります。松明の数が、おかしい」
「内応か」と六之助が低く答える。
「おそらく。夜明け前には決まるかと」
諜報の別行動から戻った六之助の報告は、予測通りだった。難攻不落の七尾城が、内側から食い破られた。謙信がすぐそこにいることを、勝家様はまだ知らない。謙信の忍びも、おそらくこちらの動きを把握しているだろう。互いに相手の腹を読み合う、静かな戦がすでに始まっていた。
七尾落城の報告が入るや、主馬がすぐに地図を広げた。
「殿。今すぐ勝家様に申し上げてください。上杉軍の接近と、七尾城落城のことを」
俺はすぐさま柴田様の陣へ向かった。ところがこれが最悪の間合いで、陣の手前から激しい口論の声が漏れ聞こえてくる。剣幕の収まらぬ秀吉様とすれ違った。
「那須殿、お主も引いた方がよいぞ。……ああ、お主は柴田派だったな」
「秀吉様、何かありましたか」と俺が問うと、
「なに、畿内で松永久秀が不穏な動きを見せておってな。いつでも戻れるよう退却を進言したのに、勝家様が聞き入れなかったのよ。して、お主は何用だ」
「上杉謙信と、七尾城落城の報告を」と短く答えた。
「なんと、詳しく話せ」と秀吉様が急かす。
「昨夜、上杉軍が七尾城を落とした模様です。上杉軍はこちらへ向かっています」
秀吉様の目が、鋭く細くなった。
「なんと……手取川を背に構えるとは、まさに背水の陣ではないか。今すぐ川向こうへ撤退すれば、上杉軍も無理はしまいが……今、柴田様のところへ行っても無駄かもしれんぞ。儂とさんざんやり合ったばかりだからな」
そう言い捨てると、秀吉様は足早に自分の陣へ戻っていった。その背中には、何か決断を済ませた者だけが持つ、妙な軽さがあった。
勝家様に目通りを願い、状況を説明した。しかし勝家様は眉一つ動かさず、
「貴様、サルと同じに撤退しろと申すか。東国の若造が何を言う」
一蹴された。予想通りだった。主馬の言う通りだとも思った。
―――
その数日後。勝家の元へ急報が入った。
「謙信本陣、動きました。松任城へ入城、兵数は約二万余」
柴田軍は色めき立った。水島は決戦に不向きな地形だ。即座に撤退が決定される。この状況をじっと待ち続けていたのが、上杉謙信という男だった。大軍の陣払いから撤退完了まで時間がかかる上に、前日からの雨で手取川は増水している。撤退とは、すなわち混乱だ。謙信はそれを知っていた。
夜が深まる頃、勝家の元へ上杉軍の進軍の知らせが届いた。勝家が檄を飛ばし、撤退を急がせる。兵たちが雨の中を動き出す音が、闇の中に広がった。
俺たちは手取川を渡らず、少ない手勢で抵抗を試みた。那須軍は木製の三脚架台に旋回砲を据え付け、その時を待った。雨と泥と、増水する川音だけが周囲を満たしている。
砲手が三脚の脚を地面に深く蹴り込んだ。旋回軸に据えられた砲身が、左右に滑らかに振れる。
「来るぞ……角度そのまま、撃て!」
「ドゴォンッ!」
腹に響く爆音が夜闇を揺らした。散弾が扇状に広がり、突撃してきた兵の列が一気に崩れる。これを数回繰り返して兵を削ったが、さすがは上杉軍——引く様子がない。
(これで崩れて引いてくれれば御の字ですが、加賀の一向衆はそうじゃありませんからね)
出立前の主馬の言葉が耳によみがえる。俺は弓を引き、暗がりの中で馬の気配がする方向へ矢を次々と放った。何頭かが倒れる気配がした。さて、これからは前に出ての防衛戦だ。三人が等間隔に並んで前へ出た。
最初に直勝が上杉の先鋒と接触した。越前一向一揆で無敵だった直勝が、上杉の組織的な戦い方に初めて手こずっている。押されているわけではないが、明らかに戦いにくそうだ。敵の圧力は、個の強さではなく、集団としての連携から来ていた。崩しても崩しても、すぐに穴が埋まる。
「……強い。なぜだ。個々の力は殿に遠く及ばないはずなのに、なぜ崩れない」
直勝の呟きが、雨音の中に溶けた。答えはそこにある。あれは個の戦いではなく、組織の戦いだ。
旋回砲を後方へ退かせた後、玄妙が一人で上杉の先鋒を食い止めた。
玄妙は何も言わなかった。
薙刀を構え、ただ、そこに立っていた。
上杉の先鋒十数名が、一瞬止まった。
——この男は、逃げない。
その空気を、敵味方の全員が感じ取った。元は比叡山の僧兵。戦場に神仏はいないと知りながら、それでも最後の一線を退かない男だ。敵兵の足が、ほんの少し重くなった。
俺は増水した手取川のほとりで、暗闇の中、上杉の追撃部隊と直接接触した。
強い。
この強さは、武田の精兵を彷彿とさせた。が、ここから先は一切通さないと決めた。刀を抜き、踏み込む。相手は数で来る。それでも、一人ずつ確実に止めていく。雨が顔を叩き、増水した川の音が低く唸る。四半刻(約三十分)、ただ刀を振り続けた。雨と血の匂いが混じり合い、川音だけが時を刻んだ。結果、我ら三人が壁となり、誰一人通さなかった。戦闘はおよそ半刻——そうして上杉軍は、ようやく矛を収めた。
追撃の足音が遠ざかる。雨は降り続けている。川の向こうでは、織田の大軍がずぶ濡れのまま逃げ延びていた。
「……謙信は深追いしませんね」
主馬が静かに話しかけてきた。
「能登の平定が優先なのだろう。我らを追うより、七尾城を固める方が賢い」
「殿は、謙信という人物を……ご存じなのですか」
少し間があった。
「……会ったことはない。ただ、こういう判断をする男だろうと思っていた」
主馬は沈黙した。それ以上、何も聞かなかった。この軍師は、時に問わないことで多くを語る。
*
「殿、邪魔者がおりまして、これ以上詰めることができませんでした」
上杉の先鋒武将が、謙信の前に膝をついた。
「那須の鬼か……!」
謙信は低くそう言い、足に刺さった矢を静かに見下ろした。暗い夜の中でも、その目は揺れていなかった。
「これも奴の矢かもな」
夜闇の中、その呟きは川音にかき消された。




