表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『那須資晴、二度目の転生』  作者: 山田村


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/26

第21話 暗黒潮流の王




【北海峡のラウト・ヒタムの物語】


 スマトラ島北端、マラッカ海峡。

 「北海峡」と通称されるその海域は、今、濃い霧に塗りつぶされていた。


 霧の奥深く、マングローブが密生する河口のさらに深奥に、海賊集団「ラウト・ヒタム(黒い海)」の拠点は潜んでいた。三十隻を超える細長い高速船が、獲物を待つ鮫のように水面に身を伏せている。その黒い船体は立ち込める霧と同化し、外からはほとんど視認できない。


 頭目のラジャ・アルス・ゲラップ――「暗黒潮流の王」の異名を持つ男は、マングローブの根元に組まれた見張り台に立っていた。

 四十代半ば、左頬には若き日の戦いで刻まれた刀傷が白く走っている。その手にあるのは、ポルトガル製の単眼鏡だ。今日の獲物は、インドのグジャラートから香料を積み、マラッカを目指す商船。その情報は、アチェ王国の「支援者」から事前にもたらされていた。


「霧が濃くなってきたな」

 副頭目のジャマルが、低い声で傍らに立った。

「潮の流れも我々に味方している。ポルトガルの護衛艦はわずかに二隻だ」


 ラジャはゆっくりと頷いた。

「夜襲だ。月が出る前に動くぞ。奴らを浅瀬の暗礁地帯に誘い込め」


 命令は瞬時に伝わった。

 雑役たちが音を立てぬよう細心の注意を払いながら、船の準備を始める。旋回砲に火薬を詰め、火矢の束を船縁に備え付ける。戦闘員たちは火縄銃の火種を整え、腰に短剣や刀を帯びた。彼らの瞳には、獲物を待ちわびる捕食者特有の冷徹な光が宿っていた。


 日没とともに、ラウト・ヒタムの船団は音もなく拠点を離れた。

 三十隻の小船は、まるで一つの巨大な生き物のように統制を保ち、霧の中へと溶け込んでいく。船底を浅く設計された彼らの船にとって、複雑に入り組んだこの海域は、まさに自分たちの庭も同然だった。


 目標の商船は、二隻のガレオン船に守られながら、海峡をゆっくりと進んでいた。

 ラジャが静かに攻撃の合図を送る。


 最初の火矢が闇を裂いた。

 左舷から、次いで右舷から。無数の火の粉が霧の中から忽然と現れ、商船の帆に突き刺さる。瞬く間に炎が帆を駆け上がり、夜の海を照らし出した。


「海賊だ! 出たぞ!」

 敵の見張りが叫ぶ声が、甲板に響き渡る。


 ポルトガルの護衛艦が応戦を試みた時には、すでに手遅れだった。大型船が身動きの取れない浅瀬に差し掛かったところへ、ラウト・ヒタムの小船が次々と躍り出る。護衛艦の側面に取り付いた旋回砲が火を噴き、ガレオン船の舷側を無残に粉砕した。


 ラジャ自らが率いる本隊は、直接商船へと肉薄した。

 次々と鉤縄が打ち込まれ、黒い影のような男たちが船壁を駆け上がる。火縄銃の炸裂音、刀剣がぶつかり合う鈍い音。そして悲鳴が、霧の海へと吸い込まれていった。


 戦いは一方的だった。

 商船の乗組員は、わずか半刻で制圧された。抵抗する者はその場で切り捨てられ、投降した者は縛り上げられて船倉へ放り込まれる。彼らの多くは、バタヴィアやアチェの奴隷市場へと送られる運命だ。


 ラジャが商船の船倉に足を踏み入れると、そこには香料の袋が山積みになっていた。

 胡椒、丁字、ナツメグ。ヨーロッパでは金と同じ価値で取引される宝の山だ。


「全部移せ」

 ラジャが簡潔に命じると、背後からジャマルが近づいてきた。

「ポルトガルの護衛艦、一隻は仕留めましたが、もう一隻が護衛を捨てて逃走しました。……まあ、我が方の損害は軽微です」


「よし」

 ラジャは口角をわずかに上げた。

「アチェの高官には、たっぷりとした分け前を届けてやれ」


 略奪品は、ラウト・ヒタムの掟に従って分配される。頭目が最大の取り分を得て、以下、副頭目、船頭、戦闘員、そして雑役へと続く。捕虜となった者たちもまた、別の船へ移され、秘密の交易路を通じて売り払われていく。


 夜明け前。

 ラウト・ヒタムの船団は、獲物を引き連れて再び霧深いマングローブの迷宮へと消えていった。北海峡には再び静けさが戻ったが、海面にはまだ油の膜と、無残な破船の残骸が漂っていた。


 拿捕した商船の舵を握りながら、ラジャは薄明の中に浮かび上がる海岸線をじっと見つめていた。

 また一日、生き延びた。

 だが、この生活がいつまで続くかは、彼自身にもわからない。ポルトガル、そしてオランダ。西欧の影はこの海域への支配を確実に強めている。アチェ王国の庇護も、いつまで続くか知れたものではない。


「次はアラブ船だ」

 彼は独り言のように呟いた。

「情報によれば、今度はたっぷりと金貨を積んでいるらしい」



 数日後。

 目当てのアラブ船への襲撃は、いつもの手順で抜かりなく行われた。すべては滞りなく、普段通りに進んでいるはずだった。

 だが、ラジャの胸中には拭いきれない胸騒ぎがあった。念のため、普段の倍の時間をかけて点検を行い、細心の注意を払って行動した。


 略奪がほぼ終了した頃、副頭目のジャマルが報告に現れた。

「護衛船二隻は破損し、沈没。我が方の損害は軽微です」


「よし……」

 ラジャは薄く笑みを浮かべた。

「アチェの高官には、十分な分け前を届けさせろ」


 やはり、ただの気のせいだったか。

 いつもと変わらぬ勝利の余韻に浸ろうとした、その時だった。


「頭目! キャラック船が接近してきます!」

 見張りの悲鳴のような声が響いた。続いて、別の船員が転がり込むように叫ぶ。

「大変です! 凄まじい速度で向かってきて、最後尾の船に横付けされました!」


「何だと! 攻撃を仕掛けてきているのか!」

 ラジャは思わず怒鳴り声を上げた。

「敵は何名だ! 応戦しろ!」


「それが……男が一人で暴れているとしか……」

「馬鹿か、貴様! 何名いるのかと聞いているんだ!」

「い、一名です! たった一人で、凄まじい勢いでこちらに向かってきます!」


 ラジャは沈黙した。

 脳裏に、先ほどまでの不吉な予感が蘇る。抑えようのない武者震いが、数十年の時を超えて彼の体を支配した。


 ――ドンッ!


 凄まじい衝撃音と共に船体が大きく傾き、仲間の一人が足を滑らせて甲板に倒れ込んだ。

「来るな……来るな、来るなぁッ!」

 誰かの叫び声が波音に掻き消される。直後、一振りの剣が振り下ろされた。

 鋭い火花が散り、一瞬遅れて、金属音と断末魔が重なって聞こえてくる。


 現れたのは、革鎧に身を包んだ男だった。

 並の男より一回り大きく見える体躯に、研ぎ澄まされた気配。目の前で仲間たちの影が、一人、また一人と物言わぬ肉塊に変えられていく。

(おのれ、奴は疲れを知らんのか……!)


 ここまで届く剣風の音。奴は放たれた矢をすべて叩き落とし、あべこべに仲間の短剣を奪って投げつけ、弓使いを仕留めた。

「なんだ……なんなんだ、あいつは……!」

 部下たちが次々と血溜まりの中に沈んでいく。誇り高き海賊たちの悲鳴が、阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出していた。


「化け物め……」


 すでに他の船は沈黙し、残るはこのアラブ商船とラジャの乗る本船のみとなった。

 ラジャは震える手で銃を構え、その時を待った。


 ――ボゴォッ!


 放った弾丸は、確かに奴の体を捉えたはずだった。

 命中した――。だが、どういうことだ。奴は平然と動き、なおも剣を振るっている。足元には、虫のようにのたうち回る仲間たちの姿。

 怪物は、ゆっくりと視線を上げ、剣先をまっすぐにラジャへと向けた。


「痛っ……!? なんだ、これは!」

 突如、左腕に熱い痛みが走り、鮮血が噴き出した。弾かれた破片か、あるいは奴の放った殺気か。

「……魔人か、貴様は」


 奴が、ついにこの船へと乗り込んできた。

 間近で見るその体躯は、見上げるほどに大きく見えた。副頭目と甲板の生き残りが一斉に斬りかかるが、奴の一振りで四人が宙を舞い、返しの一振りでさらに三人が沈んだ。

 瞬きする間もなかった。


 気がつけば、立っているのはラジャ一人だった。

 死を悟ったラジャは、静かに覚悟を決めた。


「……好きに持ってゆけ」


 彼は自らの首筋をなぞる仕草を見せ、諦念と共に、その場にどっかと腰を下ろした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ