第9話 息子と父の絵の具
朝露に濡れた別邸の庭に、春を告げる冷たい風が吹き抜けていた。
アンヌが公爵家にやってきてから、二週間が過ぎようとしていた。
かつては幽霊屋敷のように静まり返っていた別邸の煙突からは、毎朝定刻に煙が立ち上り、窓辺には薄紅色の帳が揺れている。
本邸の裁縫師が仕立ててくれた服は驚くほど仕立てが良く、肌触りが柔らかかった。
アンヌにあてがわれたのは、淡い若草色の素朴な衣服である。過度な装飾や宝石はなく、袖口が邪魔にならない実用的な意匠だったが、生地は最高級の羊毛で、屋根裏部屋で着ていた麻のぼろ着とは比べ物にならない温もりがあった。
「アンヌ、これ」
居間の絨毯の上から、弾んだ声が届いた。
レオンハルトが、両手に握った小さな木の棒を掲げて見せていた。
顔つきは見違えるほどふっくらとし、頬にはほんのりと健康的な赤みが差している。前髪を整えたことで大きな金色の瞳が際立ち、どこに出しても恥ずかしくない公爵家の幼き若君そのものだった。
「上手に積めましたね。それは高い塔でしょうか」
「塔、高い塔」
レオンハルトは嬉しそうに飛び跳ねた。
二週間前まで唸り声と拒絶の言葉しか口にできなかった4歳の男の子は、今では日常の単語を次々と吸収し、二語文を操るまでになっていた。
子どもの回復力は素晴らしいと、アンヌは愛おしさを噛み締めながら、部屋の隅に置かれた大きな木箱を見つめた。
昨日、本邸の執事頭ハインツを通じて届いたものだ。
ランベール公爵の計らいで届けられた木箱の中には、貴族の跡継ぎに相応しいとされる豪奢な品々が詰め込まれていた。
だが、その中身を見て、アンヌは苦笑せざるを得なかった。
革装丁の重厚な歴史書、難解な神学の教本、金泥で縁取られた家系図、そして精緻な作りの銀の小甲冑。
4歳児が手に取って楽しめるような、色彩豊かな絵本や柔らかい玩具はひとつも入っていなかったのだ。
不器用な閣下らしい配慮だった。
貴族の跡継ぎ教育としては正しいのかもしれない。
けれど、言葉すら満足に獲得していなかったレオンハルトに必要なのは、格式高い古典の朗読ではなく、感情を豊かに動かす色と音だった。
大人に放置され、無機質な部屋で心を閉ざしていた彼には、まず世界が美しく楽しい場所なのだと知る権利がある。
「レオンハルト様、今日はお絵描きをしましょうか」
「お絵描き」
不思議そうに小首を傾げる少年の前に、アンヌは厨房から持ち込んだいくつかの小皿と、本邸から分けてもらった厚手の羊皮紙を広げた。
「絵の具はないけれど、厨房には素敵な色がたくさんあるのよ」
小皿に入っているのは、煮詰めた赤キャベツの汁、擦り下ろした人参の絞り汁、ほうれん草の青汁、そして暖炉から集めて細かく砕いた木炭を少量の油で溶いたものだった。
アンヌが伯爵家の屋根裏で、孤独を紛らわせるために遊んでいた即席の絵の具である。
「これを見ていてね」
アンヌは赤キャベツの汁に、ほんの少しのレモンの果汁を垂らした。
深い青紫色だった液体が、一瞬にして鮮やかな赤紫色へと変化する。
レオンハルトが息を呑み、目を丸くして皿に顔を近づけた。
「すごいでしょう。魔法みたいね。筆がなくても、指で描いていいのよ」
アンヌは人差し指の腹を赤い汁に浸し、羊皮紙の上に押し当てた。
小さな丸い花びらができる。
レオンハルトは自分の指先を見つめ、それから恐る恐る人参の汁に指先を浸した。
ひんやりとした感触に身を震わせながら、アンヌの描いた花の隣に小さな指を押し当てる。
紙の上に残る、自分の印。
レオンハルトは顔を輝かせ、今度は緑色、炭の黒色と、夢中になって指を動かし始めた。
「青、赤、葉っぱ」
点と線が交じり合い、やがて紙の上に、黒い大きな塊と、横に並ぶ小さな塊が現れた。
ぎこちない形。けれど、それは明らかに二匹の狼だった。
「これは何を描いたの」
アンヌが優しく問いかけると、レオンハルトは誇らしげに小さな胸を張った。
「父上とレオン」
大きな黒い狼と、小さな黒い狼。
どれほど突き放され、怯えていたとしても、この子は父親を強く慕い、求めていたのだ。
その健気さにアンヌの目頭が熱くなった、その時だった。
「何をしている」
氷のように澄んだ、低い声が部屋に落ちた。
振り返ると、別邸の扉の前に、黒い軍服を身に纏ったランベール公爵が音もなく立っていた。
「閣下」
アンヌは立ち上がろうとしたが、レオンハルトが肩を竦め、思わず指についた炭の黒い油を自分の服に擦り付けてしまった。
仕立てたばかりの上等な衣服に、黒い染みが広がる。
ランベールの金色の瞳が鋭く細められた。
普通の貴族の親であれば、高価な服を汚したこと、そして跡継ぎが泥遊びのような真似をしていることに激怒する場面だった。
「その服は、昨日仕立てさせたばかりのものだぞ」
ランベールが重い軍靴の音を響かせ、一歩、部屋の中へと踏み込んできた。
レオンハルトは怯え、咄嗟に両手で羊皮紙を隠すようにして、アンヌの背後へと逃げ込もうとした。
だが、アンヌは少年の背中を優しく押し出し、ランベールの前に立ちはだかるようにして凛と頭を下げた。
「申し訳ございません、閣下。お召し物を汚してしまったのは、私の監督不行き届きです。汚れは私が責任を持って落とします」
沈黙が落ちる。
「ですが、レオンハルト様をお叱りにならないでくださいませ。この子は、閣下にお見せしたくて、一生懸命に描いていたのです」
アンヌはレオンハルトの小さな手を包み、隠されていた羊皮紙を持ち上げて、ランベールの前に掲げた。
野菜の汁と炭で描かれた、不格好な二匹の狼。
乾きかけの絵が、窓からの光に照らされて微かに光っている。
ランベールの視線が、その拙い絵に釘付けになった。
金色の瞳が、驚愕と動揺に大きく揺れる。
「これは」
「大きな狼が閣下で、小さな狼がレオンハルト様です」
アンヌは微笑んだ。
「レオンハルト様は、お父様が大好きで、いつだってあなたのように強くて立派になりたいと願っていらっしゃるのですよ」
ランベールは口を固く結び、拳を握りしめた。
戦場で無数の敵を切り伏せてきた男が、4歳の息子が指先で描いた一枚の紙を前にして、息を詰まらせている。
やがて、ランベールはゆっくりと歩み寄り、膝を折った。
背の高い大男が、子どもの目の高さにまで視線を落とす。
ランベールの手が、ぎこちなく伸びた。
レオンハルトが小さく身を強張らせる。
その無骨で傷だらけの大きな手は、息子の頭を叩くためではなく、炭で黒く汚れた小さな頬をそっと拭うために伸ばされた。
「上手いな」
掠れた、ひどく不器用な声だった。
「父上」
レオンハルトがおずおずと見上げる。
「強い狼だ。俺よりも、ずっと強そうだ」
ランベールはそう言うと、絵の描かれた羊皮紙を、割れ物を扱うかのような慎重な手つきで受け取った。
「この絵は、俺の執務室に飾る。構わないか、レオンハルト」
少年の顔に驚きが広がり、春の太陽のような満面の笑みが咲き誇った。
「うん。父上にあげる」
初めて交わされた、父親と息子の本当の会話だった。
ランベールは羊皮紙を胸に抱き、立ち上がると、視線をアンヌへと向けた。
その瞳には、もはや冷酷さも疑念もなかった。
あるのは、計り知れない戸惑いと、それ以上の深い感情だった。
「アンヌ」
「はい、閣下」
「今夜、本邸の執務室へ来い」
ランベールは低く告げた。
「お前に、話さねばならないことがある。この城の真実と、消えた女たちのことだ」
冷たい風の吹き抜ける部屋に、運命の歯車が静かに噛み合う音が響いた。




