第8話 芽吹く光とうごめく亡霊
翌朝、別邸の前に現れたのは、緊張で顔を強張らせた専属医師と、物差しを抱えて青ざめた年配の仕立て屋だった。
「失礼いたします」
恐る恐る敷居を跨いだ二人は、かつて悪魔の巣窟と恐れられていた別邸の光景に言葉を失った。
掃き清められた明るい廊下。
窓辺の陽だまりでは、すっきりと髪を切り揃えられたレオンハルトが、木彫りの狼を机の上で器用に滑らせて遊んでいる。
その隣で、アンヌが穏やかな手つきでお茶を淹れていた。
「ようこそおいでくださいました。先生、レオンハルト様の診察をお願いできますか。少し痩せ気味ですので、胃に負担をかけない栄養のつけ方を伺いたくて」
医師は呆気にとられながらも聴診器を当て、レオンハルトの小さな身体を丁寧に診察した。
レオンハルトは最初こそ強張ったものの、アンヌがそっとその手を握り、胸の音を聞くだけだと囁き続けると、暴れることもなく大人しく従った。
「信じられません。発育はやや遅れておりますが、内臓にも骨にも異常はありません。栄養価の高い食事を続ければ、すぐに他の子と同じようにたくましく育ちます」
医師は感嘆の声を漏らし、仕立て屋もまた、アンヌの凛とした立ち姿とレオンハルトの愛らしさに感銘を受け、上質な羊毛や柔らかな綿の布地を熱心に見立て始めた。
「奥様のお召し物も、旦那様より最も上等で動きやすいものを何着でもと仰せつかっております」
「閣下がそのように仰ったのですか」
雑巾のような古着を着ていた娘に、公爵が直々に最高級の服をあつらえさせる。
執事頭ハインツを通じて瞬く間に本邸の使用人たちへと知れ渡った。
あの方はただの貧乏伯爵の捨て駒ではない、本物の母のように若君を慈しみ、あの冷徹な閣下の心すら動かしたのだと、城内の空気は冷酷な警戒から、静かな忠誠と敬意へと急速に塗り替えられていく。
だが、その平穏な別邸の空気とは対照的に、王都の社交界では醜い計算が渦巻いていた。
フォルシュール伯爵邸の豪奢な居間。
肥満体の父、フォルシュール伯爵は、安酒を煽りながら下品な笑みを浮かべていた。
「あの小生意気なアンヌの奴め。裏帳簿の原本をどこかに隠したまま、公爵家へ逃げ込みおって」
向かいの長椅子で扇を弄ぶ正妻のセシルも、嘲笑を隠そうとしない。
「いい気味です。あのリュネシネージュ公爵城ですもの。何人もの令嬢が消えた魔窟です。今頃はあの凶暴な餓鬼に引き裂かれているか、公爵の逆鱗に触れて地下牢で腐っているに違いありません」
そこへ、苛立った足取りで入ってきたのは、フォルシュール伯爵家の長女であり、アンヌの異母妹であるパトリシアだった。
「お父様、どういうことです。カルヴェリュン侯爵家からのお手紙、破談になったというのは本当ですか」
「何だと」
伯爵が跳ね起きる。
カルヴェリュン侯爵家。
前世でアンヌを道具として買い叩き、子を産ませた後に飢えさせて殺した、冷酷無比な名門だ。
アンヌが公爵家へ嫁いだことで、当然ながらその婚姻話は白紙に戻されたはずだった。
「侯爵家のご当主様が、ひどくお怒りです。我が家が望んでいたのはあの落胤の娘だ、代わりの娘など求めていないと仰いました。なぜあんな薄汚い召使いの娘に、名門侯爵家がそこまで固執するのです」
パトリシアの金切り声に、伯爵とセシルは顔を見合わせた。
カルヴェリュン侯爵家がアンヌを執拗に求めた理由、それは単なる世継ぎの母胎というだけではなかった。
市井に追いやられていたアンヌの生母の血筋、あるいはアンヌ自身が生まれ持つ特異な体質に、侯爵家だけが知る何らかの価値があったのだ。
前世のアンヌは、その真実を知らぬまま搾取され、命を落とした。
「まずいな。カルヴェリュン侯爵家の機嫌を損ねては、我が家の負債の肩代わりが」
伯爵が脂汗を浮かべたその時、執事が青ざめた顔で飛び込んできた。
「旦那様、王都の街で妙な噂が流れております」
「噂だと、何だ」
「リュネシネージュ公爵家の別邸に新しく入った後妻様が、暴君と恐れられた幼い若君を懐柔し、公爵閣下の深い寵愛を受けていると」
伯爵とセシルの喉から、間の抜けた声が漏れた。
死ぬはずだった。
厄介払いとして放り込み、呪われた城の地下で野垂れ死ぬはずだった娘が、社交界の頂点に君臨する公爵の庇護のもとで、盤石の居場所を築きつつある。
「あり得ない。あんな、屋根裏の泥棒猫の娘が、公爵夫人の座に収まるなど」
セシルが扇子をへし折らんばかりに握り締め、憎悪に顔を歪める。
自分たちが足蹴にし、踏み躙ってきた娘が、手の届かない高みへと昇っていくことへの激しい嫉妬。
握られたままの横領の裏帳簿という爆弾への恐怖。
実家の卑しい欲望と、アンヌを手に入れ損ねたカルヴェリュン侯爵家の不気味な執念が、北の城へ向けて毒の牙を向け始めた。
そんな嵐の予兆を、まだ別邸の二人は知らない。
「アンヌ、見て」
別邸の庭先。
アンヌの手を引いたレオンハルトが、誇らしげに小さな指を土の隙間へ向けた。
雪解けの冷たい土を押し退けて、小さな緑の芽が顔を出していた。
「福寿草の新芽ね。春が、もうすぐそこまで来ているのね」
アンヌが微笑み、膝をついて少年の頭をそっと撫でると、レオンハルトは嬉しそうに目を細め、アンヌの首筋に小さな腕を回して抱きついてきた。
胸の中に満ちる、柔らかく確かな温もり。
前世で奪われ、冷たい離れで求め続けていた、我が子の体温。
もう二度と、誰にも奪わせない。
アンヌは少年の背中を優しく抱きしめ返しながら、澄んだ瞳を王都の空へと向けた。
迫り来る実家の悪意も、カルヴェリュン侯爵家の影も、すべて受けて立つ。
この小さな命と、不器用ながら自分たちを守ろうとしてくれるあの男のために。
アンヌの二度目の人生、本当の戦いと家族を守る日々が、いま始まろうとしていた。




