第7話 温かいポトフ
夕闇が別邸を包み込む頃、鍋からは甘い野菜と柔らかな肉の匂いが漂っていた。
暖炉の前に置かれた小さな丸い机には、焼き立ての素朴なパンと、二つの木椀が並んでいる。
レオンハルトは清潔な綿の服を着て、椅子の上に行儀よく座っていた。
アンヌが返した木彫りの狼が、その手に大事そうに握られている。
「レオンハルト様、いただきますのご挨拶をしましょうね」
「いただきます」
舌足らずながらも、アンヌの手の動きを真似て小さな手を胸の前で合わせた。
匙を握り、息を吹きかけて熱を冷ましながら汁物を口に運んだ瞬間、その顔が輝いた。
「甘い。美味しい」
「人参をじっくり煮込んだから甘いのよ。たくさん食べてね」
アンヌが微笑み、自分の食事に口をつけようとしたとき、別邸の玄関扉が静かに開く音がした。
足音を忍ばせているつもりなのだろうが、軍人特有の重く正確な歩幅は隠せていない。
ランベール公爵が上着を脱ぎ、執務着のまま階段を上がってきた。
「父上」
レオンハルトが匙を止めた。昨日ほどの恐怖はないものの、やはり緊張から小さな身体を強張らせる。
ランベールは部屋の入り口で足を止め、信じられないものを見るように部屋の中を見回した。
薄暗い監獄のようだった部屋は橙色の光に包まれ、漂う匂いは本邸の冷え切った厨房のそれとはまるで違う。
そして何より、息子がすっきりと髪を切り揃えられ、服を汚さずに自ら匙を運ぶ姿があった。
「本当に、お前がやったのか」
ランベールの低く掠れた声が落ちる。
「閣下、お疲れ様でございます」
アンヌは立ち上がり、静かに頭を下げた。
「執務の合間にお越しくださったのですか。ちょうど夕食を始めたところです」
ランベールは眉間に深い皺を寄せ、机の上の質素な食事を見下ろした。
本邸の晩餐に出されるような、銀の皿に盛られた豪奢な肉料理や手の込んだ調味はどこにもない。ただの、家庭料理のような煮込みとパンだった。
だが、その湯気は驚くほど優しく、部屋全体を満たしている。
「本邸の使用人どもが騒いでいた」
ランベールは腕を組み、言い訳のように視線を逸らした。
「レオンハルトが暴れもせず、窓辺で玩具を弄んでいたと。幻でも見ているのではないかと確かめに来た」
その不器用な物言いに、アンヌは心の中で微笑んだ。
確かめに来たと言いながら、その顔には息子の安否を気遣う色が滲み出ている。
「閣下、本邸でのご夕食はまだでいらっしゃいますか」
「俺の食事など、どうでもいい。執務室で冷めた汁物を流し込むだけだ」
ランベールの生活が目に浮かぶようだった。
妻を亡くし、城の切り盛りと王都での軍務に追われ、自らの腹を満たすことすら義務として片付けてきたのだろう。冷え切った執務室で、冷たい食事を機械的に喉へ流し込む。
それは、前世で離れに放置され、冷たい残飯すら満足に与えられなかったアンヌ自身の記憶と重なる部分があった。
「冷めた食事では力が出ません。よろしければ、毒味を兼ねて一杯召し上がっていかれませんか」
「毒味だと」
「ええ。公爵家の大切な跡継ぎに、変なものを食べさせていないか、父親として確かめる義務がおありでしょう」
真剣に見つめ返すアンヌの瞳に、ランベールは言葉に詰まった。
沈黙の後、部屋の隅にあった粗末な木製の丸椅子を引き寄せ、机の端に腰を下ろした。
アンヌは厨房からもう一つの木椀を持ってきて、鍋の底からたっぷりの具材とともに熱々の煮込みを注いだ。
ランベールの前に、パンをちぎって添え置く。
大男が小さな丸机に座ると、部屋が一気に手狭に感じられた。
ランベールは無骨な手で木製の匙を取り、一口啜った。
動きが止まる。
派手な香辛料や濃厚な油の味はしない。だが、丁寧に引かれた出汁の旨味と、野菜の甘み、塩加減が絶妙に調和し、疲弊した胃袋に染み渡るような深い味わいだった。
匙が無言のまま進んだ。
「美味いな」
ぽつりと、掠れた呟きが漏れた。
本心からの言葉だった。
その様子を、レオンハルトがじっと横から見つめていた。
自分と同じものを、恐ろしくて強い父親が美味しそうに食べている。
そのことが、幼い心に不思議な安心感と誇らしさを生んだ。
「レオンハルト」
ランベールが息子の視線に気づいて声をかけた。
声の低さに、レオンハルトが小さく肩を竦める。
アンヌはすかさず、レオンハルトの背中にそっと手を添え、ランベールに向かって小声で耳打ちした。
「閣下。髪がさっぱりして似合っていると、仰ってください」
ランベールの顔に、明らかな動揺が走った。
その金色の瞳が、戦場で敵の首を刎ねるよりもはるかに難解な命令を下されたかのように泳いだ。
アンヌは引かない。ただ静かに、公爵を真剣な眼差しで見つめ返す。
ランベールは拳を握り締め、レオンハルトの短い黒髪に視線を落とした。
そして、ぎこちない声で口を開いた。
「髪を切ったのだな」
レオンハルトが息を呑む。
「似合っている。さっぱりして、いい顔だ」
言い終えた瞬間、ランベールは耐えきれないとばかりに耳まで赤く染めた。そして、再び匙を握り直して食事を口に運んだ。
アンヌはあまりの不器用さに、笑いが漏れそうになるのを堪えた。
だが、その言葉の効果は絶大だった。
レオンハルトは目を見張り、自分の前髪を小さな手で触った。
それから、俯き加減に、けれど隠しきれない満面の笑みを浮かべた。
頬を赤く染めて、匙を握り直す。
「うん」
たった一言。
けれど、それは4歳の息子が、生まれて初めて父親の言葉を拒絶せず、受け入れた瞬間だった。
ランベールの背中が、わずかに震えた。
彼は何も言わなかったが、木椀を空にするまで、一度も席を立とうとはしなかった。
食事が終わり、ランベールが執務室へ戻るために立ち上がった時、アンヌは彼を別邸の玄関まで見送った。
「お前には、驚かされるばかりだな」
夜風が吹き抜ける玄関先で、ランベールが振り返った。
その表情からは、今朝執務室で見せたような冷酷な威圧感は完全に消え去っている。
「私は何もしておりません。レオンハルト様が、お父様の言葉をずっと待っていらっしゃっただけです」
「俺は、父親失格だ」
ランベールは自嘲するように目を伏せた。
「あいつが生まれてすぐ妻が死に、俺は戦に駆り出された。戻ってくればあいつは泣き叫び、俺を拒絶した。どう抱きしめればいいのか、どう言葉をかければいいのか、壊してしまいそうで、近づくことすら怖かったのだ」
「知っております」
アンヌは静かに告げた。
「壊したくないからこそ、遠ざけてしまわれるのですね。閣下、子どもは壊れやすい硝子細工ではありません。傷ついても、温かい言葉と食事があれば、何度でも立ち上がれる強い種を持っています」
ランベールは目を見張り、暗闇の中でアンヌの顔を見つめた。
その細い身体のどこに、これほど澄んだ強さがあるのかを測りかねているようだった。
「明日の朝、本邸の専属医師と裁縫師を別邸へ寄越す」
ランベールは咳払いを一つして、ぶっきらぼうに言った。
「息子の診察と、お前の服を仕立てさせる。いつまでも、そのような実家の雑巾のような古着を着ていられては、公爵家の名折れだ」
「雑巾だなんて。夜なべして繕った一張羅ですのに」
アンヌが微笑むと、ランベールは気まずそうに鼻を鳴らし、大股で夜の闇の中へと歩き去っていった。
その広い背中を見送りながら、アンヌは確信していた。
この城は、噂されるような人を呪い殺す氷の城などではない。
ただ、温め方を知らない不器用な狼たちが、寒さに凍えてうずくまっていただけの場所なのだ。




