第6話 あたたかい湯あみとはじめてのおもちゃ
翌朝、アンヌは夜明けとともに目を覚ました。
割り当てられた別邸の客室は質素だったが、伯爵邸の隙間風が吹き込む屋根裏に比べれば格段に恵まれていた。
本邸の管理棟に、朝一番に向かった。
すべて自分の決済で通すというランベール公爵の言質を手に、執事頭のハインツを訪ねる。
「奥様、本当にこれだけでよろしいのですか」
ハインツは差し出された請求書を前に、片眼鏡を押し上げながら驚きを露わにしていた。
過去の後妻候補たちが要求してきたのは、豪奢な衣類、香水、宝石、自分専用の馬車だった。
だが、アンヌが請求したのは全く違う品々だった。
清潔な綿の敷布と手拭いが数組。
レオンハルトの体格に合わせた肌触りの良い普段着と寝間着。
上質な木工用の小刀が一本。
新鮮な乳と卵、滋養のある根菜や果物、そして大量の薪。
「充分です。私を着飾らせるための予算があるなら、すべてレオンハルト様の食事と別邸の修繕に充ててください」
アンヌが毅然と告げると、老執事は言葉を失った。
これまでの女狐たちとは明らかに何かが違う。使用人たちの間に、戸惑いとわずかな敬意が芽生え始めた瞬間だった。
別邸へ資材を運び込ませると、アンヌはさっそく仕事に取り掛かった。
浴室に湯を沸かし、レオンハルトを立ち込める湯気の中へと誘う。
案の定、レオンハルトは湯気を見るなり目を見開き、後ずさりして唸り声をあげた。
「嫌だ。水、怖い」
「大丈夫よ。熱くないか、手を入れてみて」
アンヌは自分の手をお湯に浸し、それからレオンハルトの小さな手をそっと引いて、湯面に触れさせた。
じんわりと伝わる心地よい温もり。
レオンハルトが不思議そうに首を傾げた。
これまでの乱暴な侍女たちは、暴れる彼を無理やり冷たい水に突っ込み、乱暴に擦り洗いしていた。それが恐怖となっていたのだ。
「温かいでしょう。湯浴みは、身体の疲れを溶かしてくれるものよ」
アンヌは優しく声をかけながら、刺激の少ない石鹸を泡立て、レオンハルトの伸び放題だった黒髪と小さな身体を丁寧に洗っていく。
汚れが落ちていくたびに、少年の強張っていた肩の力が抜けていった。
湯上がり、アンヌは鋏を手に取った。
「少しだけ、髪を切りましょう。目にかかって痛いでしょう」
動いたら危ないことを穏やかに言い聞かせ、手早く前髪と襟足を整える。
乱れていた黒髪がすっきりと切り揃えられた。そこにはランベール公爵の面影を色濃く受け継いだ、端正で愛らしい少年の顔が現れた。
濡れた睫毛の間から、大きな金色の瞳が輝いている。
レオンハルトに新しい柔らかな綿の衣類を着せ、鏡を見せてあげる。
呆然と自分の姿を見つめた少年は、それから照れくさそうに頬を染めた。
「綺麗」
「とても素敵よ。立派な若君のようだわ」
アンヌが微笑むと、レオンハルトは身を縮めた。
その後、アンヌは暖炉の前で木工用の小刀を取り出した。
本邸の庭師から譲り受けた乾燥した硬い木片を、丁寧に削っていく。
レオンハルトが不思議そうに、少し離れた絨毯の上からアンヌの手元を凝視していた。
この子には、自分の意思で触れ、動かし、確かめられる玩具が必要だ。
かつて教会で孤児たちの世話を手伝った経験を生かし、4歳児の手のひらに収まるサイズに角を丸めて削り出していく。
できたのは、丸みを帯びた小さな木製の狼と小鳥だった。
「どうぞ」
アンヌが木片を差し出すと、レオンハルトは恐る恐る近づき、両手で小さな木彫りの狼を受け取った。
滑らかな木の肌触り。
自分だけの玩具。
「狼」
レオンハルトがたどたどしく呟くと、アンヌは頷いた。
「そう、狼よ。強いのよ」
アンヌが小鳥の木片を歩かせてみせると、レオンハルトは息を呑み、小さな手で狼を握り直した。
初めて、子どもの無邪気な声が小さな唇から溢れ出た。
絨毯の上で狼と小鳥をぶつけ合わせながら、レオンハルトは夢中になって遊び始めた。
その横顔には、昨日までの凶暴な面影など微塵もない。愛されることを知ったばかりの無垢な4歳の男の子だった。
アンヌは安堵し、夕食の準備に取り掛かった。
今日はお湯で戻した干し肉と、甘い人参の煮込み料理だ。
その時、別邸の玄関先で話し合う気配がした。
「見たか」
「窓から見えた。あのレオンハルト様が、大人しく座って玩具で遊んでいた」
「髪も綺麗に切り揃えられて、別人のようだ」
新しく来られた奥様は、一体何者なのだろうか。
様子を見に来た使用人たちのささやき声だった。
アンヌは気づかないふりをして、鍋の灰汁を掬い取った。
周囲の評価など、どうでもよかった。
大切なのは、この小さな命が、二度と前世の自分のように寒さと飢えの中で怯えずに済むことだ。
煮込んでいると、服の裾を引かれた。
見下ろすと、レオンハルトが木彫りの狼を掲げ、アンヌを見上げていた。
「アンヌ」
昨日よりもずっと滑らかに、名前を呼んでくれる。
レオンハルトは、木彫りの狼をそっとアンヌの前掛けの隠しに押し込んできた。
「あげる」
「私にくださるの」
レオンハルトは恥ずかしそうに視線を泳がせながら、小さな頭を縦に振った。
宝物を手渡すような、真剣な眼差しだった。
アンヌはその場にしゃがみ込み、ポケットの中の温かい木片を握りしめる。
目頭が熱くなるのを堪えながら、笑みを返した。
「レオンハルト様、ありがとうございます。私の、一番の宝物にいたしますね」
少年は、花がほころぶような、生まれて初めての無邪気な笑顔を見せた。




