第5話 不器用な黒狼の変化
扉口に仁王立ちするランベール公爵の姿は、威圧感そのものだった。
戦場へ赴くかのような鋭い眼光、固く引き結ばれた薄い唇。
今朝彼は、自ら首を刎ねても構わないと言い放って別邸へ向かった無謀な娘が、血まみれになって倒れているか、あるいは泣き叫んで逃げ出してくる光景を半ば覚悟していた。
だが、ランベールの足が、部屋に踏み込んだ瞬間止まった。
鼻を突くはずの澱んだカビ臭さは消え失せ、代わりに漂っていたのは、薪が爆ぜる心地よい木の香りと、温かい汁物の残り香だった。
薄暗かった部屋には、夕暮れ前の柔らかな光が差し込み、埃だらけだった床や家具は磨き上げられている。
そして何より。
「父上」
机の脇に立ち、レオンハルトが口の周りを汚したまま、ランベールを見て怯えたように身を縮めた。
だが、かつてのように物を投げつけたり、狂ったように叫び散らしたりはしなかった。
その手には凶器の代わりに、空っぽになった木製の匙が握られていた。
「レオンハルト」
ランベールの金色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
いつもなら父親が近づいただけで獣のように威嚇し、手がつけられなくなる息子が、ただ静かに立ち尽くしている。
アンヌは床から立ち上がり、手早く前掛け代わりにしていた古布を整えると、静かに頭を下げた。
「公爵閣下、お帰りなさいませ。ご子息の昼食と、別邸の清掃がちょうど終わったところでございます」
ランベールの視線が、アンヌへと移る。
怪我はない。血も流していない。それどころか、彼女のまとう空気は、先ほど執務室で対峙した時よりもどこか穏やかですらあった。
「何をした」
ランベールの低く沈んだ声が落ちる。
「あの女たちが何十人も匙を投げ、逃げ出した。あれを、お前は何を使って大人しくさせた。眠り薬でも盛ったのか」
疑念に満ちた言葉。
普通の娘であれば、主の理不尽な物言いに傷つき、涙を浮かべるだろう。
だがアンヌは、淡々と首を横に振った。
「薬など使っておりません。ただ、お腹が空いていらっしゃったので、温かい粥を差し上げました」
「それだけで、あれが食うはずがない。レオンハルトは、毒が入っていると喚いて皿を割り、近づく者を噛み千切るのだ」
「毒味をいたしました」
アンヌはランベールの目をまっすぐに見据えた。
「目の前で私が一口食べ、安全であることをお見せしました。そして、無理に食べなくていいとお伝えしただけです」
「それだけだと」
ランベールが言葉を失う。
アンヌは、ランベールの強張った表情を観察した。
冷徹無比と恐れられる男。だが、その瞳の奥にあるのは、息子への冷酷さではなく、どう接すればいいのか皆目見当がつかないという、痛々しいほどの戸惑いと不器用さだった。
この方も、同じだ。
妻を亡くし、城の守りと軍務に追われ、幼い息子の育て方など教わる暇もなかったのだろう。
近寄れば息子が暴れ、怯え、叫ぶ。その姿を見るのが辛くて、傷つけたくなくて、距離を置くしかできないのだ。
凶暴だから近づくなという言葉は、他者を遠ざけるためだけでなく、これ以上息子を傷つけないための、彼なりの不器用な防壁だった。
「閣下。レオンハルト様は、生まれつき凶暴なわけではございません」
アンヌは静かに、けれど毅然とした声で言った。
「この子は、ただ怖かったのです。信じては裏切られ、傷つくことが。言葉がまだあまり話せないのも、知能の問題ではありません。周囲の大人から十分な語りかけを受けず、恐怖の中で感情を押し殺してきた結果です」
ランベールの喉元が、かすかに上下する。
冷徹な仮面に、明確な動揺の色が走った。
その時、レオンハルトが短い足で駆け寄ってきた。
父親の元へではなく、アンヌの背後へ。
そして、アンヌの古びた上着の裾を、小さな手で握りしめた。
ランベールの目が再び丸くなった。
他人に触れることすら拒絶していた息子が、今日会ったばかりの女に、自ら庇護を求めて隠れている。
「レオンハルト様、大丈夫ですよ」
アンヌは腰を落とし、レオンハルトの頭にそっと触れようとした。しかし、触れる直前で手を止めた。急に頭を撫でられると、子どもは叩かれると勘違いして怯えることがあったからだ。
代わりに、少年の目線の高さで優しく微笑んだ。
「お父様は、あなたを怒りに来たのではありません。あなたが無事かどうか、心配で見に来てくださったのですよ」
レオンハルトはアンヌの背中から、恐る恐る片目だけを出して父親を見上げた。
ランベールは、差し出す手を持て余すように拳を握り締め、息子から視線を逸らしそうになる。
どう言葉をかけていいのか、本当に分からないのだ。
「閣下」
アンヌが小声で促す。
「まずは、粥を全部食べられて立派だったと、それだけで結構です」
ランベールは眉間に深い溝を刻み、激しい葛藤に耐えるように口をつぐんでいた。
戦場で何万の軍勢を率いる男が、わずか4歳の我が子を前にして、冷や汗を流している。
やがて、ランベールは意を決したように息を吐き出した。
「粥を、全部食べたのか」
低く硬い声。先ほどのような刃のような鋭さは抜けていた。
レオンハルトは肩を揺らしたが、アンヌの温かい気配に勇気を得たのか、小さな頭を縦に振った。
「そうか」
ランベールはそれ以上、気の利いた言葉を見つけられない。
だが、その金色の瞳は、先ほどまでとは比べ物にならないほど柔らかく揺れていた。
ランベールは身を翻し、扉の方へと向かった。
去り際、アンヌにだけ聞こえるような低い声で呟く。
「今夜から、お前の寝所を別邸の一室に移すことを許可する。執事頭のハインツに、必要な家財や食材があれば申し付けろ。すべて俺の決済で通す」
「閣下、ありがとうございます」
ランベールは一度だけ立ち止まり、背中越しに言った。
「お前が何者なのか、まだ完全に信用したわけではない。だが、息子を腹一杯にしてくれたことだけは、礼を言う」
公爵は、足音を響かせ去っていった。
嵐のような父親が去った後、部屋には再び静寂が戻った。
アンヌが振り返ると、レオンハルトはまだ裾を握りしめている。
その小さな手は、もう震えていなかった。
「レオンハルト様、よく頑張りましたね」
アンヌが微笑みかけると、レオンハルトは恥ずかしそうに顔を埋め、それから、小さな声で初めて彼女の名前を呼んだ。
「アンヌ」




