第4話 お腹の虫と傷
別邸の厨房は、予想通りひどい有様だった。
かまどには冷え切った灰がこびりつき、水瓶の水は澱み、棚には数日前に配膳されたと思われる固く干からびた黒パンと、しなびた根菜が転がっていた。
本邸の料理長も、別邸の食事など適当でいいと思っているのだろう。
だが、アンヌにとってはこの程度の劣悪な環境は日常茶飯事だった。
伯爵家の屋根裏で暮らしていた頃は、家畜の餌のような穀物や、腐りかけの野菜の皮で飢えをしのいできたのだ。
腕まくりをして、手早く井戸から澄んだ水を汲み上げ、かまどに火を熾す。
硬くなったパンは小さくちぎって汁物で煮込み、柔らかい粥に仕立てる。
4歳の喉に引っかからないように、野菜の泥を丁寧に落とし、極細の微塵切りにする。
塩と少量の香草、わずかな塩漬け肉の端切れでじっくりと出汁を取り、素材の自然な甘みを引き出す。
冷え切っていた別邸の厨房に、温かく香ばしい湯気が立ち始めた。
木製の盆に、丁寧に煮込んだ粥と、熱湯で消毒した木製の匙、白湯を入れた器を載せる。
アンヌはそれを抱えて、再び二階の奥部屋へと戻った。
部屋の扉は、先ほど少しだけ隙間を開けておいたそのままだった。
そっと押し開けて中に入ると、レオンハルトは先ほどと同じ場所、飾り棚と壁の隙間に、小さく丸まってうずくまっていた。
けれど、部屋の空気は確実に変わっている。
暖炉から立ち上る炎が爆ぜ、部屋全体をほんのりと温めていた。
そしてアンヌが持ち込んだ盆から漂う湯気が、狭い部屋いっぱいに広がる。
レオンハルトの鼻が微かに動いた。
薄汚れた黒髪の隙間から覗く金色の双眸が、盆の上の湯気立つ木椀をじっと見つめる。
静まり返った部屋に、大きな腹の虫の音が響き渡る。
4歳の少年は顔を真っ赤にして、両手で自分のお腹を強く押さえた。
恥ずかしさと、敵に弱みを見せてしまった屈辱感からか、瞳にみるみる涙を浮かべる。
「いらない」
掠れた声で、必死に拒絶の言葉を紡ぐ。
「毒だ。食べない」
毒。
その言葉を聞いて、アンヌの胸の奥が痛んだ。
この4歳の幼子に、毒が入っているかもしれないと疑わせるような経験を、過去に誰かが与えたのだ。あるいは言うことを聞かないと毒を飲ませると脅されたのかもしれない。
アンヌは少年に歩み寄るのをやめた。
部屋の中央にある小さな丸い机に盆を静かに置くと、木製の匙を取り、自分の口元へ運んだ。
レオンハルトの目の前で、息を吹きかけて冷まし、粥を一口食べる。
「美味しい。ちょうどいい温かさよ」
アンヌは飲み込み、匙を清潔な布で拭いて木椀の脇に置いた。
「毒は入っていないわ。それに、無理に食べなくても大丈夫。お腹が空いたらここに置いておくから、いつでも好きなときに食べてね」
アンヌは少年に近づくことも抱きしめることもせず、部屋の隅の散らかった本や割れた陶器の残りを片付け始めた。
かつて教会で手伝いをしていた頃、激しい心の傷を抱えた子どもと接するには鉄則があった。
無理に距離を縮めようとしないこと。
警戒心の強い野良猫と同じだ。こちらから手を伸ばせば引っ掻かれる。相手が危害を加えないと確信するまで、安全な距離を保ち、ただそこに居続けることが何より大切だった。
アンヌは床に膝をつき、絨毯の上の埃を丁寧に掃き清めていく。
作業に没頭する中、袖がずり下がり、細い腕が露わになった。
その腕には、白く引き攣れた古い火傷の痕や、硬く痕になった無数の痣がびっしりと刻まれていた。
フォルシュール伯爵家で、継母や妹たち、そして心ない使用人から受けた暴力と放置の生々しい証拠だった。
背中に視線を感じ、振り返る。棚の隙間からレオンハルトが上半身を乗り出し、驚愕の表情でアンヌの腕を見つめていた。
「それ」
レオンハルトの小さな指が、震えながらアンヌの腕を指差した。
「痛いの」
たどたどしい、けれどこれまでの威嚇とは全く違う、純粋な疑問のこもった声だった。
アンヌは自分の腕を見下ろし、それから柔らかく微笑んだ。
「これ。もう痛くないわよ。昔、痛いことがたくさんあったけれど、いまはもう治ったの」
レオンハルトは、自分の小さな手のひらを見つめた。
その小さな手にも、物を投げたり暴れたりしたときにできた切り傷や擦り傷がたくさんある。
少年は、アンヌの顔と、その傷だらけの腕を何度も見比べた。
この人も、痛いのを知っているのだろうか。
自分を閉じ込め、怒鳴り、あるいは甘ったるい嘘をついてきた大人たちの肌は、白くて綺麗で、温かい服を着ていた。
けれど目の前の女の腕は、自分よりもずっとひどい傷だらけだ。
アンヌはそれ以上何も言わず、床の雑巾がけを再開した。
食べなさいとも、おいでとも言わない。
部屋には、雑巾が床を擦る音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが流れていた。
やがて、小さな足音がした。
棚の隙間から、レオンハルトが恐る恐る這い出てきた。
野生の子鹿のように周囲を警戒しながら、一歩、また一歩と、机の方へ進む。
アンヌは作業の手を止めず、視線も合わせず、少年の気配を見守った。
机の前に立ったレオンハルトは、湯気の立つ木椀を見上げた。
喉が鳴る。
震える小さな手で匙を握ると、粥をすくい、慎重に口元へ運んだ。
一口。
レオンハルトの金色の瞳が、驚きで見開かれた。
柔らかく煮込まれたパン、じんわりと広がる野菜の甘みと肉の塩気。何日も冷え切っていた4歳の胃袋を優しく温めていく。
「甘い」
掠れた声がこぼれた。
二口目からは、もう止まらなかった。
匙をぎこちなく動かし、こぼしながらも、貪るように木椀にかじりつく。
大粒の涙が零れ落ちて、粥の中に落ちる。
空っぽだった木椀が、あっという間に綺麗になった。
レオンハルトは最後の一滴まで平らげて匙を置くと、口の周りを汚したまま、部屋の隅で雑巾を絞るアンヌをじっと見つめた。
「美味しかったかしら」
アンヌが顔を上げて穏やかに尋ねると、レオンハルトは肩を竦めた。
そして、気まずそうに目を逸らし、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
「ごちそうさま」
途切れ途切れの、確かな感謝の言葉だった。
アンヌの胸の奥が、熱いもので満たされた。
前世で、一度も我が子から聞くことができなかった声。
抱きしめることはまだできない。けれど確実に、この凍りついた部屋の氷がほんの少しだけ溶け始めた音が聞こえた。
その時、別邸の玄関の扉が乱暴に開く音が響いた。
冷たい軍靴の足音が、迷いなく階段を上がってくる。
重々しい足音が部屋の前で止まり、扉が勢いよく開けられた。
「無事か、アンヌ」
そこに立っていたのは、眉間に深い皺を刻み、漆黒の外套を翻したランベール公爵だった。




