第3話 空っぽの部屋の猛獣
あのような悪魔のような餓鬼の世話を志願するなんて、正気ではない。
どうせあの女も、これまでの女狐たちと同じだ。母の愛を演じて公爵夫人の座に収まろうという魂胆に違いない。
本邸の裏手、鬱蒼とした雑木林の小道を歩く私の背後から、案内役の若い侍女たちのひそひそ声が聞こえていた。
聞こえないふりをして歩みを進める。
公爵家の敷地内、本邸から徒歩で十分ほど離れた林の奥に、その別邸はあった。
かつては離宮や客舎として使われていたのだろう、立派な石造りの建物だが、手入れは行き届いておらず、庭の噴水には枯れ葉が溜まり、窓ガラスには埃がこびりついている。
「私たちはここまでです。中には入りたくありませんので」
侍女は鍵の束を私に押し付けると、逃げるように踵を返して去っていった。
重い扉を開けると、ツンとしたカビと澱んだ空気の匂いが鼻をついた。
人の気配がない。
かつては乳母や侍従が配置されていたのだろうが、いまや誰一人常駐していない。食事の配膳と最低限の清掃だけ、怯え切った下働きの使用人が義務的にこなして即座に逃げ帰っているのがありありと分かった。
ランベール公爵の跡継ぎ、レオンハルト。
わずか4歳の男の子。
階段を上がり、二階の最も奥の部屋へと向かう。
扉の前には、床に叩きつけられて割れた陶器の破片と、乾いた汁物の跡がそのまま放置されていた。
私は深く息を吸い、静かに扉を押し開けた。
部屋の中を見渡した瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
広すぎる部屋。カーテンは閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。
床の絨毯は汚れ、暖炉の火は消えていた。
そして何より異常だったのは、この部屋に子どものいる気配が一切ないことだ。
玩具、絵本、積み木、そして人形もない。
あるのは、無機質な大きな寝台と、殺風景な机だけ。
幼子が暮らす部屋とは到底思えない、まるで独房のような寒々しさだった。
部屋の隅で、微かに軋む音がした。
見ると、巨大な飾り棚と壁のわずかな隙間に、小さな影がうずくまっていた。
小柄な身体に薄汚れた寝間着を着ている。
ランベール公爵と同じ漆黒の髪は伸び放題で乱れて絡まり、そこから覗く金色の大きな瞳が、狂気のような敵意を帯びて私を睨みつけていた。
喉の奥から絞り出すような、威嚇の唸り声。
小さな手が、手元にあった厚い本を掴み、力任せに私めがけて投げつけてきた。
足元に落ちる。4歳の手首には重すぎる辞書のような本だった。
「あっち、行け」
掠れた、たどたどしい声。
発音はひどく不明瞭で、言葉を紡ぐこと自体に慣れていないのがすぐに分かった。
レオンハルトは呼吸を荒げながら、手近にあった硝子の文鎮を両手で必死に握りしめ、構えている。
全身が小刻みに震えていた。怒りのためではない。恐怖のためだった。
私にはかつて、教会で孤児たちの世話を手伝った経験があった。
子どもの発育や言葉の獲得については、よく知っていた。
4歳といえば、本来なら質問を重ね、自分の気持ちを言葉で表現できるようになる時期だ。
それなのに、この子は単語を絞り出すのがやっとだった。
それは生まれつき知能が足りないからではない。
誰も、この子に話しかけてあげなかったのだ。
胸が張り裂けそうになった。
公爵の亡き妻であるセリーヌが亡くなった後、この子のもとにやってきた女たちは皆、公爵夫人という地位と財産が目当てだった。
レオンハルトを愛して語りかけることなどせず、公爵の見ていないところでは邪魔者扱いして放置した。
次々と変わる乳母や使用人たちも、公爵の逆鱗や権力争いを恐れ、この子を凶暴な厄介者として腫れ物扱いし、事務的に食事を置くだけで会話を交わそうとしなかった。
誰も言葉を教えてくれない。
誰も自分の名前を呼んでくれない。
愛情を求め、抱きしめてほしくて泣いていたはずの小さな心は、放置され、拒絶され続けるうちに凍りついた。
言葉を交わす相手がいない世界で、感情を伝える術を持たないまま、傷つけられないために牙を剥くことしかできなかったのだ。
「投げたら、危ないわ」
私は静かに、けれど穏やかな声で言った。
恐怖の色も、怯えも、大人がよく使うわざとらしい猫なで声も一切ない。平坦で優しい調子を心がけた。
レオンハルトが目を見張る。
唸り声をあげても、物を投げても、目の前の私が悲鳴を上げて逃げ出さず、怒鳴り散らしもしないことに驚いているようだった。
私は一歩、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
レオンハルトが肩を跳ね上げ、文鎮を構え直す。
「来るな。化け物」
おそらく、かつて心ない使用人から投げつけられた罵倒の言葉なのだろう。
意味も完全には理解していないまま、自分を傷つけようとする相手を追い払うための武器として、必死にその言葉を投げつけている。
「来ないでほしいのね。怖がらせてごめんなさい」
私は近づくのをやめ、その場に静かにしゃがみ込んだ。
大人の威圧感を与えないよう、子どもの目線よりもずっと低くなるように背を丸める。
「でも、それを投げたら、あなたの小さな手が痛んでしまうわ」
レオンハルトは呆然と口を開けた。
今まで接してきたどの大人とも違う反応に、混乱しているようだった。
「私はアンヌ。今日から、この部屋を暖かくして、あなたのご飯を作りに来たの」
「まま」
レオンハルトの口から、掠れた単語が零れ落ちた。
そして次の瞬間、その小さな顔が絶望と怒りで歪む。
これまで何人もの女が。
「今日から私が母親だ」
近づいては、裏切り、冷たく放置していった記憶が蘇ったのだろう。レオンハルトの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「嘘だ。いらない、まま、違う」
私はゆっくりと、穏やかに首を横に振った。
「いいえ。私はあなたの母親ではないわ」
レオンハルトのしゃくり上げる呼吸が止まった。
「私はあなたのお母様のセリーヌ様の代わりにはなれないし、なるつもりもない。公爵夫人になりたいわけでもないの」
私は粗末な袖をまくり、床に散らばった陶器の破片を、慣れた手つきで拾い集め始めた。
細い手首には、かつて実家で受けた無数の古い火傷や痣の痕が、痛々しく刻まれている。
「私はただ、美味しいご飯を作って、この部屋を掃除するお手伝いさん。だから、お喋りしなくてもいいし、無理にいい子でいなくてもいいのよ」
破片を拾い終えた私は立ち上がり、レオンハルトに背を向けた。
そして窓へ歩み寄り、埃を被った重いカーテンを一気に開け放った。
午後の柔らかな光が、冷え切った部屋に差し込む。
「まずは、暖炉に火をつけましょうね。それから、お腹が空いているでしょう。温かい汁物を作ってくるわ」
背後で、レオンハルトが物陰に蹲ったまま、文鎮を握る力を緩める気配がした。




