第2話 黒邸の冷たい契約
フォルシュール伯爵家を出る際、私に持たされた荷物は、擦り切れた革鞄ひとつだけだった。
華美なドレスも、持参金の宝石もない。屋根裏で夜なべして繕った古着数着と、母の形見である錆びた銀の指貫だけだった。
見送る父も継母も、私と目を合わせようとはしなかった。
私が向かう先が、社交界で最も忌み嫌われ、恐れられている男の館だからである。
リュネシネージュ公爵。
当主であるランベール・フォン・リュネシネージュ公爵は、戦場を血で染め抜いてきた冷徹無比の軍人貴族だった。
だが、彼が社交界で真に恐れられている理由は、冷徹さだけではない。
あそこへ嫁いだ女は、二度と生きて門を出られない。
何人もの嫁候補が、あの屋敷へ入ったきり忽然と姿を消している。
地下牢に沈められたのか、それとも公爵の手で始末されたのか。
社交界で囁かれる花嫁失踪の黒い噂。
さらに、屋敷には公爵の亡き妻であるセリーヌが遺した幼い跡継ぎの息子がいるが、その子は常軌を逸した凶暴さで、近づく侍女や家庭教師を次々と追い出しているという。
リュネシネージュ公爵家への輿入れは、死刑台行きを意味すると誰もが知っている。
だが、馬車に揺られる私の胸にあったのは怯えではなく、研ぎ澄まされた覚悟だった。
何人消えていようと構わない。前世で味わった、我が子を奪われ、飢えと寒さの中で見殺しにされる地獄に比べれば耐えられる。
馬車が到着したのは、王都の外れ、鬱蒼とした森を背負う広大な敷地だった。
黒鉄の巨大な門の向こうにそびえ立つのは、リュネシネージュ公爵邸、黒漆喰と石造りの威圧的な本邸である。
馬車を降りた私を出迎えたのは、整列した華やかな従僕たちではなく、冷え切った眼差しを向ける老執事だった。
「ようこそおいでくださいました、フォルシュール伯爵令嬢」
老執事は形式通りの礼を執ったが、その声には温もりも歓迎の色もなかった。
私の粗末な身なりと小さな革鞄を一瞥し、すぐに警戒の光を帯びる。
「旦那様がお待ちです。すぐに執務室へ」
案内された本邸の内部は、贅を尽くした調度品が並んでいるものの、血の通っていない墓所のように静まり返っていた。
すれ違う使用人たちの目は冷たく、強張っている。
この空気は、ただの冷遇ではない。
前世の婚家のような見下しと嘲笑ではない。ここにあるのは、他者に対する徹底的な警戒と不信だった。
重厚な執務室の扉が開かれる。
「旦那様、フォルシュール伯爵家より、アンヌ様をお連れいたしました」
部屋の奥、巨大な執務机の前に、その男は立っていた。
ランベール・フォン・リュネシネージュ公爵。
漆黒の髪に、射抜くような鋭い金色の双眸。彫りの深い精悍な顔立ちには、刃物のような冷徹さが張り付いている。仕立ての良い黒の上着の上からでも分かる強靭な体躯は、常に戦場にある軍人そのものだった。
ランベールは手元の羊皮紙からゆっくりと顔を上げ、私を冷酷な瞳で見下ろした。
その威圧感は凄まじく、普通の令嬢であれば膝から崩れ落ちて震え上がるほどだった。
「お前が、伯爵の落胤か」
低く、氷を擦り合わせたような声音が執務室に響く。
「初めまして、ランベール公爵閣下。アンヌと申します」
私は視線を逸らさず、完璧な淑女の礼を返した。
みすぼらしい平民のようなドレスを着ていようと、背筋は凛と伸ばした。
ランベールの眉がわずかに動いた。
恐怖で青ざめるでもなく、媚びを売るでもない私の態度を測るように、冷たい沈黙が落ちる。
「実家から話は聞いているだろう。この屋敷へ足を踏み入れた女たちの末路を」
ランベールは机の上に両手を組み、淡々と告げた。
「過去に三年で3人。父や親族が送り込んできた女たちは、例外なくこの敷地から姿を消した。社交界では、俺が飽きて切り捨てたか、地下牢で惨殺したと噂されているようだがな」
脅迫とも取れる言葉。だが、私は瞬き一つしなかった。
「噂は存じ上げております」
「ならば、なぜ来た。伯爵家の裏帳簿を盾にしてまで、自らこの死地へ志願したと手紙にあったが」
ランベールの金色の瞳が細められ、危険な光を宿す。
「言っておくが、俺はお前に愛を与える気はない。妻としての特権も、この屋敷の女主人としての権限も渡すつもりはない。お前に用意できるのは、最低限の衣食住と、冷え切った部屋の一つだけだ。それでもここに残るというのか」
前世の記憶が胸をよぎる。
愛など、最初から求めていない。女主人の権限も、豪華な宝飾品もいらない。
私が求めているのは、尊厳と、温もりを分かち合える居場所だけだった。
「閣下、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
私は怯むことなく、ランベールの目をまっすぐに見つめ返した。
「何だ」
「閣下には、亡き奥様のセリーヌ様との間に幼いご子息がいらっしゃると伺いました。そのお子様は、今どこにいらっしゃいますか」
予想外の問いだったのだろう。ランベールの表情に、微かな亀裂が走った。
私は、瞳の奥に、冷徹さとは別の、深く暗い影が差すのを見逃さなかった。
「息子は、敷地内の別邸にいる」
ランベールの声が、一段と低く沈んだ。
「本邸には近づかせない。あれは狂暴だ。誰の手にも負えない。侍女の手を噛み、食事の盆をひっくり返し、近づく者をすべて敵と見なして威嚇する。お前が関わる必要はない。近づくな。怪我をするだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で確信に変わるものがあった。
狂暴なのではない。
恐れているのだ。
次々と入れ替わる不審な後妻たちの悪意や企みに晒され、小さな体で必死に自分を守ろうと爪を立てているだけなのだ。
痛いほど、わかった。
私もそうだった。伯爵邸の屋根裏で、誰のことも信じられず、いつ叩かれるかと怯えながら、拳を握りしめて震えていた日々。
そして前世で、我が子の泣き声を耳にしながら、一度も抱きしめてやれなかったこと。
私は静かに、けれど揺るぎない声で告げた。
「承知いたしました。愛も、贅沢も、女主人の権限も求めません。ですが閣下、私と一つだけ契約を結んでいただきたいのです」
「契約だと」
「はい。私に、別邸のご子息のお世話を任せてください。食事の用意も、身の回りのことも、すべて私がいたします」
ランベールが怪訝そうに見つめる中、私は言った。
「もし私がご子息に危害を加えたり、公爵家に不利益をもたらすような真似をいたしましたら、その時は、あの消えた女たちと同じように、私の首を刎ねていただいて構いません」
私の声だけが、冷え切った執務室に静かに響き渡っていた。




