第1話 目覚めと二度目の取引
骨の浮き出た指先が、敷布を掴む力さえ残っていなかったのを覚えている。
喉の渇きはとうに感覚を麻痺させ、胃袋は自らを消化するかのように鈍く痛んでいた。鍵の掛けられた重い樫の木の扉。差し入れの盆が最後に置かれたのが何日前だったのか、薄れゆく意識の中では数えることすらできなかった。
「一度だけで、よかった」
壁一枚隔てた向こう、本邸のきらびやかな廊下から風に乗って聞こえてきた、赤ん坊のか細い泣き声。
十月十日、我が身を削って腹の中で育て、命がけで産み落とした我が子。
けれどその産声を上げた瞬間、舅と姑の手によって赤子は乱暴に奪い去られた。
「孤児の卑しい血が混ざるだけでも忌々しいものを。母親面などさせるものか」
「跡継ぎさえ手に入れば、お前の役目は終わりです」
寝台の上で泣き叫び、我が子を返してくれと乞うた私に、冷酷な夫は視線すら合わせなかった。
「騒ぐな、見苦しい。両親を煩わせるなと言ったはずだ」
夫にとって私は、義務として機械的に体を重ねるだけの、世継ぎを生み出すための容れ物に過ぎなかった。両親や使用人たちから、妻は精神を病んで子を害そうとした、育児を拒絶して暴れていると嘘を吹き込まれ、それを疑いもせず私を離れに幽閉した。
会わせてもらえない。抱かせてももらえない。
使用人たちの冷笑と無視。減らされ、やがて途絶えた食事。高熱を出して床に伏せても、医者の一人すら呼ばれなかった。
抱きしめてあげられなくて、ごめんなさい。
私、アンヌ、25歳は、小さな温もりをその胸に抱くことすら叶わず、飢餓と衰弱の果てに命を落とした。
はずだった。
激しく息を吸い込み、跳ね起きる。
肺を満たしたのは、埃と湿った木材の匂いだった。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのある低く傾斜した天井と、剥き出しの梁。隙間風が細く吹き抜け、粗末な麻の毛布が膝の上に落ちている。
私は震える両手を目の前に掲げた。
皮下脂肪を失い、死人のように紫色に変色していたはずの手指。そこには、赤切れや豆こそ痛々しいものの、確かな血の通った皮膚と、まだ若々しい肉がついていた。
「ここは、どこなのだろうか」
屋根裏部屋。
物置として使われていた、陽の当たらない寒々しい一角。
私が5歳の時から、名門侯爵家に道具として売り飛ばされるまで暮らしていた、実父の家――フォルシュール伯爵邸の屋根裏だった。
私は、伯爵が屋敷の使用人に強引に手を出して産ませた子どもだった。
正妻が身籠ったことを知って激怒し、身重の母は着の身着のままで屋敷を追い出された。母は市井の片隅で、針仕事や洗濯の下請けで身を粉にし、貧しいながらも溢れんばかりの愛情で私を育ててくれた。
だが、その無理が祟り、母は私が幼いときに病で息を引き取った。
「伯爵の血を引く娘が市井で野垂れ死んだなどと、社交界で噂されては外聞が悪い」
世間体だけを気にした伯爵によって、私は引き取られた。
しかし待っていたのは娘としての待遇などではない。正妻と異母妹からは泥棒猫の娘と蔑まれ、使用人以下の扱いを受けた。
朝は誰よりも早く起きて暖炉の灰を掻き出し、泥だらけの床を磨き、夜遅くまで洗濯板に向かう日々。
それだけではなかった。
私が文字の読み書きと数字の計算に異常な才覚を見せるや否や、伯爵は無給で使える都合のいい事務員として酷使し始めた。
放漫経営で火の車だった領地の帳簿整理、小作人との小競り合いの調停文書の作成、税の計算。社交界で遊び歩く父や義母、異母妹、義弟に代わり、深夜の屋根裏で蝋燭の火を頼りに、私が裏でその実務のすべてを回していたのだ。
奴隷のような日々から逃れられると信じて縋ったのが、名門侯爵家からの縁談だった。
だが、待っていたのは前世のあの惨劇だった。
私は、戻ってきたのだろうか。
壁に刻まれた、日数を数えるための傷跡に目をやる。
日付を確かめた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
20歳。
あの婚姻の話が、正式に持ち上がったまさにその日の朝だった。
乱暴に扉が蹴り開けられたのは、その直後のことだ。
入ってきたのは、意地の悪い笑みを浮かべた中年の召使い頭だった。
「いつまで惰眠を貪っているのです、卑しい娘。旦那様がお呼びです。すぐに身なりを整えて応接室へ来なさい」
私は何も言わず、静かに立ち上がった。
かつてなら怯えて俯いていたはずの瞳に、今は冷徹な光が宿っているのが自分でもわかった。
階下の応接室に入ると、豪奢な革張りの長椅子に、肥満体の父、フォルシュール伯爵と、冷笑を浮かべた正妻のセシルが腰掛けていた。
「座りなさい、アンヌ」
伯爵は私の顔を見ようともせず、手元の書類を机に打ち付けた。
「お前のような薄汚い娘にも、ようやく我が家に恩を返す機会が巡ってきた。カルヴェリュン侯爵家から、お前を妻に迎えたいと正式な打診があったのだ」
前世と寸分違わぬ言葉。
カルヴェリュン侯爵家。外見ばかりを取り繕い、裏では側室の子や平民出の娘を買い叩いては世継ぎを産ませ、不要になれば使い捨てる冷酷な家系。
「光栄なことでしょう」
正妻のセシルが扇子で口元を隠しながら、嘲るように言った。
「貴族の籍にも入れてもらえないお前を、名門侯爵家の奥方にしてくださるというのだからね。持参金も結納金もたっぷり弾んでくださるそうよ」
奥方などではない。ただの使い捨ての母胎だ。
前世の記憶が鮮明に蘇り、胃の腑が凍りつくような嫌悪感がせり上がる。あそこへ行けば、また同じだ。我が子を奪われ、飢えさせられ、冷たい床で死ぬ。
二度と、あのような結末は選ばない。
私は静かに息を整え、机の上に散らばる書類の端に目を留めた。
侯爵家からの豪奢な羊皮紙の隣に、もう一通、乱暴に隅へ追いやられた無骨な書状があった。
差出人の紋章は、双頭の黒狼。
「お父様」
私は淡々と、しかしよく通る声で口を開いた。
「そちらの、カルヴェリュン侯爵家からの書状の下にある、黒い封蝋の手紙は何でしょうか」
伯爵は忌々しそうに眉をひそめた。
「これか。北方のリュネシネージュ公爵家からの打診だ。あそこの当主、ランベール公爵の後妻探しの手紙だな。だがこんなものは破棄する」
リュネシネージュ公爵家。
前世の記憶を手繰り寄せる。戦場で冷酷無比な武功を上げ、“北の黒狼”と恐れられている大領主。数年前に正妻を流行り病で亡くし、幼い跡継ぎの息子が一人いるはずだった。
そして何より、社交界で最も忌み嫌われている悪名高い噂があった。
嫁いだ女が、何人も行方不明になっている呪われた城。
「破棄なさるのですか」
「当たり前だ」
伯爵は吐き捨てるように言った。
「あそこへ嫁いだ女はことごとく姿を消しているのだぞ。地下牢で惨殺されただの、亡霊の生贄にされただのと物騒な噂が絶えん。しかも先妻の産んだ凶暴な悪童がいて、近づく侍女が次々と発狂して逃げ出す魔境だ。結納金に色をつけてくるわけでもない、我が家に何の得もない」
セシルもわざとらしく身震いしてみせた。
「カルヴェリュン侯爵家なら、息子の近衛騎士団入りの推薦状も書いてくださるそうよ。わざわざ命を捨てにいくような真似、させるわけがないでしょう」
私の胸の奥で、静かに何かが噛み合った。
幼い子どもがいる。
母親を亡くし、次々とやってくる怪しい後妻たちの影に怯え、荒れて、周囲から腫れ物のように扱われている小さな命。
前世で、一度もその温もりを抱かせてもらえなかった我が子の泣き声が、耳の奥で微かに反響した。
あの子は守れなかった。抱きしめてあげることもできなかった。
けれど、いまなら。
「お父様、お義母様」
私は背筋を伸ばし、淀みのない声で告げた。
「私は、リュネシネージュ公爵家へ嫁ぎます」
部屋の空気が凍りついた。
伯爵は目を見開き、セシルは扇を取り落としそうになりながら私を凝視した。
「何を馬鹿なことを言っている。あそこは死にに行くようなものだ。それに、お前に拒否権などない」
「カルヴェリュン侯爵家への輿入れは、破談になります」
私は冷徹に言い放った。父が息を呑む。
「お父様、先月あなたが隠蔽した、東部領地の穀物横領の裏帳簿、あれの正本を清書したのは私です。もし私をカルヴェリュン侯爵家へ無理やり売り飛ばすおつもりなら、嫁ぐその足で王都の査問会議へ原本を持ち込みますが、よろしいですか」
伯爵の顔が一瞬で土気色に染まった。
私がただの無力な子どもではなく、この屋敷の金流の急所をすべて握っていることを、伯爵は今この瞬間に思い出したのだ。
「私をリュネシネージュ公爵家へ後妻として差し出してください。あちらには、厄介払いができたと言えばいい。その代わり、今後一切フォルシュール伯爵家は私に関わらないこと。私を実家から除籍し、持参金も一切不要と手紙に書き添えてください」
「誰のおかげで今まで飯を食えていたと思っている」
怒りで震える父を、私は冷たい目で見据えた。
「死ぬ気で働いた労働の対価にしては、あまりにお粗末な食事と屋根裏でしたけれど。返答を。北へ行く手配を進めてくださいますね」
震える伯爵と、恐れをなして口を噤む継母。
私は踵を返し、埃っぽい屋根裏部屋へと戻る階段を一段ずつ踏みしめた。
胸の奥には、消えた花嫁たちの噂に対する恐怖など欠片もなかった。
あるのは、燃えるような静かな意志だけだった。
今度こそ、誰の言いなりにもならない。自分の足で立つ。
北の果てで待つという、傷つき荒れたその幼い子を、絶対に独りにはさせない。
前世で我が子を奪われて死んだ母として。
私は窓の外、遠い北の空を見つめて強く拳を握りしめた。




