第10話 執務室の告白
夜のとばりが下り、別邸のレオンハルトが安らかな寝息を立て始めたのを見届けてから、アンヌは本邸へと足を運んだ。
本邸の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、等間隔に置かれた燭台の頼りない灯りだけが揺れている。
重厚な執務室の前に立ち、ノックを三度した。
「入れ」
低く硬質な声に促されて中に入ると、部屋の中央の執務机には書類の山が積まれていた。その傍らには、昼間レオンハルトが描いたあの野菜の絵が、上等な木枠の額縁に収められて飾られている。まだ墨や汁の匂いが乾ききっていない紙を、ランベールは自らの手で額装したのだ。
「座れ」
ランベールは立ち上がり、湯気の立つ陶器の器を差し出してきた。
甘い香りが立ち上る。
「夜分に呼び立ててすまない。レオンハルトを一人にさせる時間を長く取るわけにはいかない、手短に話す」
アンヌは器を受け取り、革張りの長椅子に腰を下ろした。
「公爵閣下、私にお話しくださる真実とは何でしょうか」
ランベールは机の縁に腰を預け、腕を組んだ。
金色の瞳が、夜の闇よりも深く沈んでいる。
「社交界でお前も耳にしたはずだ。この城へ嫁いだ女たちが次々と消えたという噂を。あれは噂などではない。事実だ」
アンヌは息を潜めた。怯えからではない。彼の全身から滲み出る、張り詰めた悲痛な気配を感じ取ったからだ。
「三年で3人。父の代からの重臣や親族が、跡継ぎのためと送り込んできた女たちだ。結論から言えば、俺が地下牢で惨殺したわけでも、亡霊の生贄にしたわけでもない。だが、俺がこの手で城から放逐した」
自嘲するように唇を歪めた。
「最初の女は、王都の派閥貴族の間諜だった。俺の留守中、寝室の金庫から北方の防衛図面を盗み出そうとしたところを取り押さえ、国外へ追放した。2人目は、公爵家の財産を着服し、宝石を横流ししていた。これも即座に修道院送りにした」
拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
「3人目の女は、レオンハルトに手を上げた」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「言うことを聞かない悪魔の子だと罵り、俺の見ていないところで食事を抜くよう使用人に命じ、従わなければ暗い地下の物置へ閉じ込めていた。俺が遠征から戻った時、あいつは部屋の隅で、寒さと飢えで震え上がっていた。その女は即座に捕縛し、北の果ての鉱山領へ永久追放とした」
アンヌの脳裏を前世の記憶が、激しく殴りつけた。
冷たい離れ、鍵のかけられた扉、届かない食事、母親面をするなと嘲笑ったあの姑と使用人たち。
レオンハルト様も、同じ目に遭っていたのだ。
胸の奥が張り裂けそうになる。
4歳の小さな子が、なぜあんなにも大人を恐れ、毒を疑い、部屋の隅の暗がりへと逃げ込んでいたのか。すべての事象が残酷なまでに噛み合った。
「噂を否定しなかったのは、俺の都合だ」
乾いた声で続ける。
「冷酷な公爵が女を消したという悪名が広まれば、地位や財産目当てで近づいてくる害虫のような女どもを遠ざけられると考えた。息子の盾にするつもりだったのだ。だが、結果としてその恐怖の噂が、屋敷の使用人たちを萎縮させ、息子をさらに化け物として孤立させる原因を作ってしまった」
顔を手で覆う。
「俺が招いた結果だ。不甲斐ない父親の無知と傲慢が、息子の心を殺しかけていたのだ」
戦場では無敵を誇る男が、ただ一人の父親として、自らの過ちを悔い、血を流すように打ち明けている。
アンヌは静かに立ち上がり、机の前へと歩み寄った。
そして、ためらうことなく、その強張ったランベールの手の上に、自らの手を重ねた。
「アンヌ」
驚いて顔を上げたランベールの目に、アンヌの揺るぎない眼差しが映る。
「閣下。あなたは間違ってなどいません」
アンヌの声は静かだが凛としていた。
「息子を守るために牙を剥く狼を、誰が責められるでしょうか。手口が少し不器用だっただけです。悪意を持って近づいてきた者たちを排除したあなたの判断は、父親として、当主として、何一つ恥じることではありません」
ランベールが息を呑む。
「俺はあいつを一人にしてしまった」
「ですから、私が参りました」
アンヌは柔らかく、けれど力強く微笑んだ。
「私は、痛みの味も、暗い部屋の寒さも、誰よりも知っています。だからこそ、レオンハルト様に寄り添うことができます。閣下が一人で背負ってきたその重荷の半分を、私が引き受けます」
ランベールの金色の瞳が大きく見開かれた。
いままで出会ってきたどんな人間とも違う。
財産も、地位も、着飾る衣服も求めず、ただ己の痛みと子どもの痛みに向き合い、真っ向から自分を受け止めようとするこの小柄な女性。
「なぜだ」
ランベールの声が微かに震えていた。
「なぜ、そこまでしてくれる。伯爵家でお前がどんな扱いを受けていたのかは調べがついている。実家に復讐するためか。それとも」
「復讐など、一文の得にもなりません」
アンヌは首を横に振った。
「私はただ、あの温もりを二度と手放したくないだけです。守れるはずの命を、目の前で失いたくないだけなのです」
レオンハルトの笑顔が、前世で腕の中に抱けなかった我が子の幻と重なる。
二度目の人生を与えられた意味が、完全に定まった気がした。
ランベールは沈黙の後、アンヌの手をそっと握り返した。
その手は無骨で傷だらけだったが、驚くほど温かかった。
「アンヌ。お前に、公爵家の全権を委ねたい」
「閣下」
「形だけの後妻ではない。レオンハルトの正式な保護者として、このリュネシネージュ公爵家の真の女主人として、お前に城の鍵と内政の決裁権を渡す。受けてくれるか」
それは求婚よりも重く、絶対の信頼を誓う軍人の契約だった。
アンヌは背筋を伸ばし、深く一礼した。
「謹んで、お受けいたします。公爵閣下」
二人の間に確固たる絆が結ばれたその瞬間、血相を変えたハインツが、ノックもなしに部屋の扉を開けて飛び込んできた。
「旦那様、門番より急報です」
老執事の額には、冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
「王都のカルヴェリュン侯爵家より使者が参りました。フォルシュール伯爵令嬢アンヌは、我が家と先に婚約が成立していた不義の女であるとして、身柄の引き渡しを要求してきております」
静まり返った深夜の執務室に、前世の因縁が再び影を落とし始めた。




