第11話 黒狼の夜更けの使者への威圧
夜更けの冷気が、執務室の床を這うように満ちていた。
「不義の女だと」
ランベール公爵の口から漏れたのは、低く唸るような地響きの声だった。
暖炉の橙色の炎を背にしたその巨体から、戦場で敵を震え上がらせる本物の殺気が立ち上る。
老執事ハインツは額の冷や汗を拭うこともできず、直立不動のまま頭を下げていた。
「カルヴェリュン侯爵家からの使者は、王都警備兵を2名引き連れ、門前にて声を荒らげております。フォルシュール伯爵家との間で、すでに内談の書状を交わしていたにもかかわらず、公爵家が強引に娘を連れ去ったと主張しておりまして」
「身勝手な言いがかりを」
アンヌは冷静に眉をひそめた。
前世の記憶が蘇る。あの強欲なカルヴェリュン侯爵家が、一度狙いをつけた獲物をそう簡単に手放すはずがなかった。
実家のフォルシュール伯爵が持参金や借金帳消しの餌に釣られ、アンヌが公爵家へ嫁ぐ以前に勝手な約束を取り付けていたのだろう。
アンヌはランベールに向き直り、静かに言った。
「閣下、私が応対いたします。実家との経緯は私が最も把握しております」
「ならん」
ランベールは間髪入れずに遮った。
その金色の瞳には、先ほどまでの悲痛な影は消え失せ、冷徹な守護者の光が宿っていた。
「お前は先ほど、この家の真の女主人として鍵を預かると誓ったばかりだ。リュネシネージュの妻を、門前の下卑た犬に直接晒すような真似はさせない」
ランベールは壁に掛けられた儀礼用の長剣を手に取り、腰の帯に差した。
漆黒の軍用外套を勢いよく翻す。
「ついて来い、アンヌ。お前に害をなす者がどうなるか、その目で見ておくといい」
大股で廊下を進むランベールの背中を、アンヌはハインツとともに追った。
公爵邸の正面玄関へ出ると、夜の凍てつく風が吹き抜け、門の前には豪奢な馬車と、松明を持った数人の男たちが騒ぎ立てていた。
使者としてやってきたのは、カルヴェリュン侯爵家の紋章をつけた派手な外套を羽織る、小太りの法務官だった。
「ようやくお出ましですか、ランベール公爵閣下」
使者は傲慢な笑みを浮かべ、手に持った一枚の羊皮紙を誇示するように掲げた。
「夜分遅くに失礼仕る。しかしながら、これは王国の法に関わる重大な事態でしてな。我がカルヴェリュン侯爵家は、フォルシュール伯爵家よりアンヌ嬢を正妻として迎える誓約を交わしていたのです。それを貴公が強引に掠め取ったとあっては、貴族院の査問会でもただでは済みませんぞ」
使者の視線が、ランベールの背後に立つアンヌを捉えた。
みすぼらしい古着ではなく、公爵家の最高級の羊毛をまとい、背筋を伸ばして立つ彼女の姿に、使者は一瞬目を見張ったが、すぐに下品な嘲笑を浮かべた。
「アンヌ嬢、悪名高き公爵に脅されてここへ来たのであれば、我がカルヴェリュン家が保護して差し上げましょう。速やかにこちらの馬車へ」
「黙れ」
ただ一言。
その声音の重さに、使者の言葉が喉の奥で詰まった。
ランベールは一歩、門の前へと進み出た。
夜闇の中で金色の双眸が爛々と光り、周囲の気温が数度下がったかのような錯覚を覚える。
「カルヴェリュンの使い番ごときが、誰の敷地に土足で踏み込んでいると思っている」
「我らは王国の法に基づき引き渡しを求めているのであり」
「法だと」
ランベールは冷笑した。
「フォルシュール伯爵が勝手に交わした内談など、紙屑に過ぎん。アンヌ嬢は伯爵家より正式に除籍の手続きを取り、公爵家へ入籍する旨の国王陛下への上奏文は、3日前に受理されている」
「陛下の、上奏文」
使者の顔から血の気が引いた。
地方の一貴族同士の婚姻の約束など、国王直々の勅許と受理の前には何の効力も持たない。
ランベールは、アンヌが別邸に入ったその日のうちに、裏で王宮への根回しを完璧に完了させていたのだ。
「さらに言えば」
ランベールの声が一段と低く、刃のように研ぎ澄まされた。
「アンヌは、我がリュネシネージュ公爵家の正式な女主人であり、跡継ぎレオンハルトの母たる存在だ。その妻に対し、不義の女、掠め取られたと侮辱を重ねた貴様の首は、ここで刎ね飛ばされても文句は言えまい」
ランベールが腰の長剣の柄に手をかけた。
刀の鍔が鳴った瞬間、門前にいた警備兵たちが青ざめ、慌てて一歩後ずさった。
実戦を知らない王都の役人が敵う相手ではない。男が放つ剥き出しの覇気は、それだけで人間の足を竦ませるに足るものだった。
「滅相もない。我らはただ、カルヴェリュン侯爵閣下の言いつけを」
使者は膝を震わせ、後退りした。
「カルヴェリュンに伝えろ」
ランベールは剣から手を離さず、氷のような視線で見下ろした。
「俺の家族に指一本でも触れようとするならば、次は公爵家の全軍を率いて、貴様の屋敷の門を叩き割ってやると教え込んでおけ」
使者は転がるように馬車へと飛び乗り、御者に叫び散らしながら夜の闇の中へと逃げ帰っていった。
蹄の音が遠ざかり、再び静寂が公爵邸を包み込む。
ランベールは静かに息を吐き、剣の柄から手を離した。
そして振り返り、アンヌを見下ろした。
「怖がらせたか」
先ほどの圧倒的な威圧感とは打って変わり、どこか気まずそうに目を伏せる。
アンヌはゆっくりと首を横に振った。
胸の奥に広がっていたのは恐怖ではなく、かつて一度も味わったことのない熱い安堵だった。
前世では、誰一人として味方はいなかった。
理不尽な言いがかりをつけられ、罵られ、離れに幽閉された時も、夫は冷たく背を向けただけだった。
それなのに、この男は出会ってわずか2週間の自分を家族と呼び、王都の大貴族を相手に正面から盾となって守り抜いてくれた。
「いいえ、閣下。心より感謝申し上げます」
アンヌが深く頭を下げると、ランベールは所在なげに顎を掻いた。
「礼などいらん。それより、カルヴェリュン侯爵家がお前にここまで執着する理由に、心当たりはあるか」
ランベールの問いに、アンヌの表情が引き締まった。
「表向きは、貧乏伯爵家への貸し付けと、私の持参金の回収でしょう。ですが」
アンヌは生前の母の言葉を、そして前世で侯爵家が漏らしていた奇妙な言葉の端々を思い出していた。
「私の亡き母は、市井に身を隠す前、ある没落した古い家系の血を引いておりました。カルヴェリュン侯爵家は、私の身元や血筋に、何か別の目的を見出しているのかもしれません」
ランベールの金色の瞳が鋭く光った。
「なるほどな。カルヴェリュンの背後関係と、お前の母の素性を徹底的に洗わせる。ハインツ、王都の情報網を動かせ」
「畏まりました、旦那様」
夜風の中、二人の視線が交差する。
もはや二人は、ただの冷酷な公爵と厄介者の後妻ではなかった。
互いの背中を預け合い、大切な子どもと家を守るための、確かな共闘関係がここに結ばれたのだ。
別邸へ戻ると、二階の部屋でレオンハルトが目を擦りながら待っていた。
「アンヌ」
外の騒がしさに不安になったのか、小さな手で木彫りの狼を抱きしめている。
「ただいま、レオンハルト様。もう何も心配いりませんよ」
アンヌが駆け寄って優しく抱きしめると、少年はほっとしたようにその胸に顔を埋めた。
窓の外では、春の夜空に冷たくも清らかな月が輝いていた。
どんな陰謀が迫ろうとも、この温もりだけは絶対に手放さない。
アンヌは少年の小さな背中を優しく撫でながら、静かに、けれど固く心を決めていた。




