第12話 朝のパン焼きと隠された血筋
朝露に濡れた別邸の庭に、春を告げる冷たい風が吹き抜けていた。
アンヌが公爵家にやってきてから、2週間が過ぎようとしていた。
かつては幽霊屋敷のように静まり返っていた別邸の煙突からは、毎朝定刻に煙が立ち上り、窓辺には薄紅色の帳が揺れている。
本邸の裁縫師が仕立ててくれた服は驚くほど仕立てが良く、肌触りが柔らかかった。
アンヌにあてがわれたのは、淡い若草色の素朴な衣服である。過度な装飾や宝石はなく、袖口が邪魔にならない実用的な意匠だったが、生地は最高級の羊毛で、屋根裏部屋で着ていた麻のぼろ着とは比べ物にならない温もりがあった。
「アンヌ、これ」
居間の絨毯の上から、弾んだ声が届く。
レオンハルトが、両手に握った小さな木の棒を掲げて見せていた。
顔つきは見違えるほどふっくらとし、頬にはほんのりと健康的な赤みが差している。前髪を整えたことで大きな金色の瞳が際立ち、どこに出しても恥ずかしくない公爵家の幼き若君そのものだった。
「上手に積めましたね。それは高い塔でしょうか」
「塔、高い塔」
レオンハルトは嬉しそうに飛び跳ねた。
2週間前まで唸り声と拒絶の言葉しか口にできなかった4歳の男の子は、今では日常の単語を次々と吸収し、二語文を操るまでになっていた。
かつて教会で孤児たちの世話を手伝った経験と、毎日欠かさず続けた手遊びや読み聞かせ、そして否定せず待つ接し方が実を結んでいた。
焼きたての丸パンと、乳で煮込んだ燕麦の粥、彩り鮮やかな林檎の煮付けを並べ終えた頃、玄関の扉が開いた。
現れたのはランベールだった。
普段の厳しい軍服ではなく、肩の力を抜いた深緑の上着を羽織っている。
「父上」
レオンハルトが嬉しそうに駆け寄り、ランベールの膝にしがみついた。
ランベールは一瞬たじろぎながらも、その大きな手で息子の背中をそっと支え、抱き上げた。以前のようなぎこちなさは薄れ、父親としての温かな眼差しがそこに宿っている。
「おはよう、レオンハルト。良い匂いがするな」
「パン。レオン、お皿を運んだの」
「そうか、偉いな」
ランベールに頭を撫でられ、レオンハルトは誇らしげに胸を張った。
食卓を囲み、穏やかな朝食の時間が流れる。
食後のお茶をアンヌが差し出した時、ランベールが懐から一通の羊皮紙を取り出した。昨夜指示した、カルヴェリュン侯爵家とアンヌの生母に関する調査書だった。
「アンヌ、お前の母上のことだ」
ランベールの引き締まった声に、アンヌは背筋を正した。
「母のことについて、何かわかったのですか」
「ああ。お前の母上、マリーゼ・ヴァルベールは、市井のただの針子ではなかった。かつて王国の黎明期に聖樹の守護者と呼ばれ、断絶した名門、ヴァルベール公爵家の直系の末裔だ」
「ヴァルベール公爵家」
アンヌは息を呑んだ。
母が生前、大切にしていた古びた銀の指貫。そこには擦り切れた樹木の紋章が刻まれていた。ただの安物のお守りだと思っていたものが、王国の古い歴史に連なる証だったのだ。
「ヴァルベールの血を引く者は、古来より特殊な力、土地を浄化し、豊かな実りをもたらす精霊の加護を強く宿すと言われてきた。だが一族は権力闘争を嫌って歴史の表舞台から姿を消した。カルヴェリュン侯爵家が狙っていたのは、まさにその血だ」
ランベールは苦々しげに言葉を継いだ。
「カルヴェリュン家の本拠である南部領地は、ここ数年、原因不明の土地の痩せ衰えと飢饉に瀕している。奴らは土地を再生させる奇跡の鍵として、ヴァルベールの血を引くお前を生贄の苗床として手に入れようとしていたのだ」
前世の記憶が、氷のように背筋を駆け抜けた。
だからこそ、執拗に子を産むことだけに固執していたのだ。
道具のように扱われ、産んだ瞬間に子を取り上げられたあの地獄。
カルヴェリュン侯爵家にとって、アンヌ自身の人格などどうでもよかったのだ。欲しいのは、土地を潤す力を持つ血だけ。用が済めば隔離して飢えさせ、口封じに衰弱死させる。前世で味わった無念と死の真相が、あまりに冷酷な形で白日の下に晒された。
「カルヴェリュンは、お前を諦めないはずだ」
ランベールが冷徹な光を帯びた瞳でアンヌを見据えた。
「王都の貴族院を使って圧力をかけてくるか、実家のフォルシュール伯爵を使って揺さぶりをかけてくるだろう。だが、案ずるな。お前とレオンハルトは、俺がこの命に代えても守る」
「閣下」
アンヌは胸を衝かれた。
前世では誰も守ってくれなかった。誰も信じてくれなかった。
だが今、目の前にいる男は、すべてを知った上で盾となり、己の誇りをかけて立ちはだかってくれている。
「いいえ、閣下。守られるばかりには甘えません」
アンヌは瞳を澄ませ、毅然と微笑んだ。
「母から受け継いだ血が土地を癒やすものなら、私はこのリュネシネージュの地と、家のために使います。そして、実家やカルヴェリュン侯爵家が仕掛けてくる悪意には、私の知恵と力でお返しいたします」
伯爵邸で何年も叩き込まれた内政の実務と、前世の記憶。
無力に泣き寝入りしたかつての自分は、もうどこにもいなかった。
朝食を終えた後、本邸の家政婦長と数名の侍女が別邸を訪れた。
以前のような蔑みや怯えの眼差しは完全に消え去り、そこにあったのは深い敬意だった。
「奥様、本邸の春の帳簿整理と、温室の管理についてご相談がございます。旦那様より、すべて奥様のご指示を仰ぐようにと」
「ええ、喜んで。まずは、子ども部屋の改装とお庭の手入れから進めましょうか」
アンヌが温かく微笑みかけると、侍女たちは安堵したように頭を下げた。
別邸から本邸へ。
アンヌの確かな歩みが、凍りついていた公爵家全体を少しずつ、確実に溶かし始めた。




