第13話 帳簿と陽だまりの庭
本邸の執務室の隣にある小さな図書室に、山積みにされた羊皮紙が運び込まれていた。
アンヌが公爵邸の内政を取り仕切るにあたり、最初に着手したのは過去5年分の管理帳簿の精査だった。
アンヌが羽ペンを走らせる隣で、執事頭のハインツが目を丸くして立ち尽くしている。
「奥様、計算が速すぎます。専任の会計官でも、この分量を検算するには丸3日はかかります」
「伯爵邸で、父や義母たちの代わりに毎晩つけさせられていましたから。ハインツ、それにしても無駄が多いわね」
アンヌは一冊の帳簿を指先で軽く叩いた。
「この肉と薪の仕入れ値、相場より2割ほど高いわね。特に、3年前に去ったとされる2人目の夫人、あの女性が連れてきた王都の商会からの仕入れが、今もそのまま継続されているわ」
ハインツは息を呑んだ。
「旦那様が軍務で不在がちだったため、慣例としてそのままになっておりました。まさか、まだ中抜きが続いていたとは」
「すぐにこの商会との契約を打ち切って、地元の信頼できる組合に切り替えましょう。浮いた予算は、冬の間に寒さに耐えてくれた下働きの使用人たちの手当と、別邸と本邸を結ぶ渡り廊下の修繕に充ててください」
「直ちに手配いたします」
ハインツは深く腰を折り、感嘆の眼差しを向けた。
ただ優しいだけの女性ではない。無駄を許さず、搾取を見抜き、現場で働く者たちへ正当な還元を行う。その手腕は、長年この屋敷を支えてきた老執事をも唸らせる本物の女主人そのものだった。
アンヌは、午前中の仕事を片付けると、軽やかな足取りで庭園へと向かった。
今日は、本邸の中庭でレオンハルトと約束していた外での食事の日だった。
抜けるような青空の下、手入れが行き届き始めた芝生の上に、大きな敷物が広げられている。
籠の中には、朝焼き上げたパンで作った小さな挟みパンと、茹で卵、甘く煮た木苺の菓子が並んでいた。
「レオン、これ。卵の殻、剥いた」
レオンハルトが誇らしげに、少し形が崩れた茹で卵を両手で差し出してきた。
「上手に剥けましたね。ありがとう、レオンハルト様」
「アンヌの分」
屈託のない笑顔で笑う息子の姿に、アンヌの胸は温かい幸福感で満たされる。
そこへ、執務の合間を縫ってランベールが姿を現した。上着を脱ぎ、白いシャツの袖を捲り上げた姿は、近寄りがたい男というよりは、休日の父親そのものだった。
「待たせたな」
「父上、ここ。座って」
レオンハルトが敷物を手で叩いて呼ぶと、ランベールの引き締まった口元が緩んだ。
大男がぎこちなく芝生の上に腰を下ろし、息子の手からパンを受け取る。
「美味いな。外で食う飯が、これほど美味いとは思わなかった」
「お日様の光を浴びながら食べると、特別な味がするでしょう」
アンヌが微笑みかけると、ランベールは金色の瞳を柔らかく細め、静かに呟いた。
「この屋敷が、これほど明るくなったのは初めてだ。お前が来てから、すべてが良い方へ変わり始めている」
「私は、当たり前のことをしているだけです」
「その当たり前が、俺にはできなかった。感謝している、アンヌ」
言葉少なだが、心からの響きを持つその言葉に、アンヌは胸を熱くした。
前世で誰にも見向きもされず、冷たい床で朽ち果てていった25年の孤独が、この陽だまりの中で静かに溶けていくようだった。
だが、その穏やかな午後の平穏を切り裂くように、一羽の軍用伝書鳩が公爵邸の通信塔へと舞い降りた。
使者から急報を受け取ったランベールの表情が、一瞬にして冷徹な軍人のそれへと凍りつく。
「何が起きたのですか、閣下」
アンヌが尋ねると、ランベールは手元の密書を握りつぶし、低く唸るような声で言った。
「王都の貴族院で、フォルシュール伯爵が正式に異議申し立てを起こした。長女アンヌは心神喪失の恐れがあり、公爵家へ無理やり連れ去られた疑いがある。実父として身柄の一時引き渡しと、貴族院による保護を求めると主張している」
アンヌは冷ややかに目を細めた。
「やはり、動いてきましたね」
「背後にカルヴェリュン侯爵がいるのは明白だ。王都警備の権限を盾に、公爵邸へ査察官を送り込む大義名分を作ろうとしている」
実家の強欲な父と、前世で自分を殺した元婚家。
彼らはアンヌが握る横領の裏帳簿を奪い返し、その血筋を手に入れるため、なりふり構わぬ手段に出てきたのだ。
「閣下」
アンヌはレオンハルトの頭を優しく撫でながら、静かに、けれど揺るぎない声で言った。
「私に考えがあります。彼らに、二度と手出しができないほどの灸を据えてやりましょう」
その瞳には、かつて虐げられていた落胤の弱々しさは微塵もなかった。
アンヌは、大切な家族と居場所を守るため、前世の記憶と自らの才覚を総動員した反撃の狼煙を上げようとしていた。




