第14話 査察官の帳簿への来訪
翌々日の昼下がり、公爵邸の正門前に王家の紋章を掲げた馬車が乗り付けた。
降り立ったのは、貴族院から派遣された主席査察官と、十数名の武装警備兵。
その背後には、アンヌの実父であるフォルシュール伯爵が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて控えていた。
「リュネシネージュ公爵閣下にお目通りを」
査察官が仰々しく羊皮紙を広げ、声を張り上げた。
「フォルシュール伯爵の申し立てに基づき、アンヌ令嬢の心神喪失および不当拘束の疑いがあるため、身柄保護ならびに邸内の調査を行う」
本邸の玄関扉が静かに開いた。
現れたランベール公爵は、黒い軍服を隙なく着こなしている。
そしてその隣には、淡い若草色の衣服をまとい、髪を美しく結い上げたアンヌが、凛とした足取りで並び立っていた。
フォルシュール伯爵の喉から、間の抜けた声が漏れた。
実家が思い描いていたのは、呪われた氷の城で恐怖に震え、やつれ果てた娘の姿だったはずだ。
だが目の前に立つアンヌは、肌に艶やかな血色が宿り、その双眸には王都の高位貴族すら気圧されるほどの気品と揺るぎない理性が湛えられていた。
心神喪失などという戯言が通用する佇まいではない。
「ごきげんよう、お父様。貴族院の皆様も、遠路はるばるご苦労様です」
アンヌは優雅に会釈をし、淀みのない澄んだ声で告げた。
「私が心神喪失ですと。ご覧の通り、至って健康で、公爵家の女主人としての務めを滞りなく果たしております」
査察官がたじろぎ、フォルシュール伯爵を睨みつける。
伯爵は慌てて額の脂汗を拭いながら、喚き散らした。
「騙されてはならん。この娘は実家にいた頃から虚言癖があり、領地の書類を盗み出して逃亡したのだ。公爵、その娘を速やかに引き渡せ」
「虚言癖、ですか」
アンヌは冷やかな微笑を浮かべ、手元に抱えていた一冊の重厚な帳簿を掲げた。
「お父様、こちらの書類の内容も、私の虚言とおっしゃるのですか」
その帳簿の表紙を目にした瞬間、フォルシュール伯爵の顔から完全に血の気が引いた。
土気色を通り越し、紫色の斑点が浮かぶほどに激しく動揺する。
「なぜ、それを貴様が」
「私が王都を出る際、査問会議への提出用として原本を信頼できる機関に預けておきました。こちらはその正確な控えです。東部直轄領における、過去3年間で計8万エールに及ぶ穀物配給の不正横領。帳簿を偽造して私腹を肥やしていた証拠の数々です」
アンヌは一歩、査察官の前へと歩み出た。
「査察官殿。私は公爵家に嫁ぐ直前まで、伯爵邸でこれらの実務帳簿の記帳をすべて命じられておりました。筆跡鑑定、証書の照合、いつでも受けて立つ所存です。貴族院が正当な調査を行いたいとおっしゃるなら、私の身柄保護ではなく、国家反逆にも等しい横領の告発を受理されるのが先決ではありませんか」
「8万エールもの横領だと」
査察官の目が血走った。
それは平民の飢饉救済のために王家から下賜された特別予算の額と完全に一致していたからだ。
「違う、捏造だ。その小娘の出鱈目だ」
見苦しく叫ぶ伯爵の前に、ランベールが一歩踏み出した。
空気が鳴るほどの重圧。
ランベールの金色の瞳が、冷淡さをもって伯爵を見下ろす。
「我が妻を侮辱し、あまつさえ王家の血税に手をつけた大罪人を、俺はこの敷地から生きて帰す義理はない」
ランベールが手を掲げると、本邸の屋根や回廊から数十名の精鋭騎士が一斉に弓を引き絞り、冷たい切っ先を査察官と警備兵へと向けた。
査察官は腰を抜かしかけ、震える手でアンヌの差し出した控え帳簿を抱え込んだ。
「公爵閣下、本日のところは引き揚げます。この帳簿は直ちに貴族院の最高法廷へ提出し、フォルシュール伯爵の査察を最優先といたします」
「待て、査察官殿。話が違う」
取り乱す伯爵の襟首を警備兵が強引に掴み、馬車へと押し戻す。
かつて屋根裏部屋で娘を踏みにじり、都合のいい道具として使い潰そうとした父は、自らが犯した罪の証拠によって、無様に連行されていった。
馬車の車輪の音が遠ざかり、門前に静寂が戻る。
ランベールは兵たちに合図して弓を引かせると、隣のアンヌを見下ろし、感嘆の息を吐き出した。
「アンヌ、見事な手並みだったな」
「いいえ。閣下が後ろ盾として立っていてくださったからこそ、怯まずに言い放つことができました」
アンヌが微笑み返すと、ランベールの引き締まった口元が微かに緩んだ。
だが、アンヌの視線は、馬車が去っていった王都の空の先へと向けられていた。
実家の父を追い詰めるのは、あくまで序曲に過ぎない。
本丸は、カルヴェリュン侯爵家だ。
前世で自分を衰弱死させ、今もなお自分の血を狙って暗躍する巨悪の根源。
彼らがこの程度の反撃で引き下がるはずがないことは、アンヌが一番よく知っていた。
その時、渡り廊下の奥から足音が近づいてきた。
ハインツに手を引かれたレオンハルトが、不安そうな顔を明るくして駆け寄ってくる。
「レオンハルト様」
アンヌはその場にしゃがみ込み、飛び込んできた小さな身体をしっかりと両腕で受け止めた。
胸いっぱいに広がる、温かく柔らかい体温。
「悪い人たち、もう行っちゃった」
レオンハルトが大きな金色の瞳を瞬かせて尋ねる。
「ええ。もう誰も、あなたやこの家を脅かしたりできないわ」
アンヌは少年の背中を優しく抱きしめながら、ランベールと視線を交わした。
もう二度と、前世のような悲劇は繰り返さない。
家族の絆を手に入れた彼女たちの反撃は、ここからさらに加速していく。




