第15話 没落の足音と夜会の招待状
フォルシュール伯爵家の崩壊は、瞬く間だった。
アンヌが差し出した裏帳簿の控えは、貴族院法廷において動かぬ証拠となった。王家から下賜された穀物配給金の横領、小作人への不当な重税、さらには近隣領主への贈収賄工作。長年、深夜の屋根裏でアンヌに計算させ、隠蔽させてきた悪行のすべてが、そのまま実父を絞め上げる縄となったのだ。
1週間も経たぬうちに、フォルシュール伯爵の爵位剥奪と全財産の差し押さえが決定した。
正妻や異母妹のパトリシアも豪華な屋敷を追い出され、平民として王都の外れで下請けの針仕事をしなければ生きていけない身分へと転落した。
連行される際、実家の者たちが喚き散らしたという罵倒の言葉を、アンヌは本邸の居間でハインツから聞いても、眉ひとつ動かさなかった。
「自らが蒔いた種を刈り取っただけです。もう、私の家族ではありません」
淡々と器を置くアンヌの横顔には、復讐を遂げた高揚感も、肉親を失った悲哀もなかった。あるのは、過去の亡霊を完全に断ち切った落ち着いた覚悟だけだった。
「アンヌ、見て。これ、父上の馬」
絨毯の上から、無邪気な声が響く。
レオンハルトが、ランベールに買ってもらった小さな木製の軍馬を走らせていた。
怯えは微塵もなく、言葉の表現の幅が広がって、いまでは父親の乗る大きな黒馬の真似をして元気に駆け回っている。
「レオンハルト様、上手に走らせていますね。転ばないようにしてくださいね」
「うん」
陽だまりの中で笑い合う二人のもとへ、ランベールが重々しい足取りで入ってきた。
その手には、金泥で縁取られた豪奢な黒い封筒が握られている。
「王宮からだ」
ランベールは苦い表情で、その手紙を机に置いた。
差出人の紋章には、王冠と絡み合う蛇の意匠があった。カルヴェリュン侯爵家が後見人を務める、第一王子の派閥が主催する春の夜会への招待状だった。
「アンヌ宛ての特命状がついている」
ランベールの低い声に、微かな怒りが滲む。
「リュネシネージュ公爵夫人の正式なお披露目として、貴族院一同が心待ちにしているとある。奴らは実家の手駒を失ったことで、公衆の面前にお前を引っ張り出し、社交界の場で直接罠にかける腹づもりだ」
カルヴェリュン侯爵家にとって、アンヌの母が遺したヴァルベール公爵家の血は、飢饉に喘ぐ自領を救うための最後の希望である。
実家を使った揺さぶりが失敗した以上、王宮の権威を盾にしてアンヌを公の場に引きずり出し、孤立させて隙を突くつもりなのだ。
「出席を拒否することもできる」
ランベールがアンヌの手を強く握りしめた。
「妻は体調が優れないと一筆書けば、俺が力づくで押し通す。お前をあのような下卑た貴族どもの見世物にする必要はない」
だが、アンヌはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、閣下。逃げ隠れしては、かえって弱みを見せることになります。公爵夫人は人前に出られないほど狂気じみている、やはり公爵に監禁されていると、事実無根の噂を立てられるでしょう」
アンヌはランベールの金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「それに、私を道具のように使い潰そうとし、いままたレオンハルト様とあなたから平穏を奪おうとするカルヴェリュン侯爵を、野放しにはできません。正面から受けて立ちます」
ランベールは、その凛とした響きに目を見張った。
かつて屋根裏で虐げられていたとは信じられないほどの威厳と気骨。
ランベールは口元を固く引き結んだ後、深く笑った。戦場で強敵と対峙する時のような、獰猛で頼もしい笑みだった。
「承知した。ならば、誰一人としてお前を侮れぬよう、最高の準備を整える」
翌日から、公爵邸は慌ただしさに包まれた。
ランベールが王都中の一流職人を本邸へ呼び寄せたのだ。
「公爵夫人の夜会への初披露だ。布地は最高峰の夜空色の絹。刺繍には星屑の銀糸を使え。宝石は、リュネシネージュ家に代々伝わる氷狼の涙を加工させろ」
ランベール自らが陣頭指揮を執り、次々と指示を飛ばす。
普段は無骨で着飾ることに興味のない男が、アンヌのためとなると一切の妥協を許さない。
採寸の間中、レオンハルトも隣で目を輝かせながら、アンヌはまるでお姫様のようだと手を叩いていた。
そして迎えた、夜会当日の夕暮れ。
控室の鏡の前に立ったアンヌの姿に、部屋中の侍女たちが息を呑んだ。
深い夜空色の衣服は、歩くたびに銀糸が夜露のように微かに煌めく。
胸元には、氷狼の涙と、呼ばれる凍てつくような透明感を持つ巨大な青い魔石。
美しく結い上げられた豊かな髪と、毅然とした涼やかな眼差し。
それは、貧乏伯爵の薄汚れた落胤などではなく、紛れもなく北方を統べる公爵家の、誇り高き女主人の姿だった。
控えめなノックとともに扉が開き、正装の軍礼服に身を包んだランベールが入ってきた。
黒と銀の外套を翻し、威風堂々とした姿の彼が、アンヌを見た瞬間、足を止めた。
金色の瞳が大きく揺れ、言葉を失ったように立ち尽くす。
「閣下、いかがでしょうか。おかしなところはございませんか」
アンヌがおずおずと尋ねると、ランベールは大股で歩み寄ってきた。
そして、アンヌの前に片膝をつき、その白い手袋越しに恭しく口づけを落とした。
「息を呑むほど美しい。我が妻ながら、見惚れてしまった」
熱を帯びた低い囁きに、アンヌの耳たぶが赤く染まる。
「レオンハルト、城の守りを頼むぞ」
ランベールが振り返ると、留守番を任されたレオンハルトが、小さな木剣を胸に当てて誇らしげに頷いた。
「うん、レオンはお留守番。アンヌ、父上、いってらっしゃい」
「行って参りますね、レオンハルト様」
アンヌは少年に優しい笑みを残し、ランベールの差し出した逞しい腕に自らの手を添えた。
前世で自分を奈落へ突き落とした、カルヴェリュン侯爵家の待つ王宮へ。
今度は奪われる側としてではない。
アンヌは、愛する家族を護る牙を持ち、過去の因縁をすべて断ち切るために、堂々と馬車へと乗り込んだ。




