第16話 首飾りと元夫の幻影
王宮の大広間は、無数のシャンデリアが放つ光彩と、甘やかな香水の匂いに満ちていた。
着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑し、弦楽四重奏の調べが優雅に流れている。
だが、その華やかな喧騒は、正面の扉が開かれた瞬間にぴたりと止まった。
近衛兵による高らかな先導の声が響き渡る。
「リュネシネージュ公爵、ランベール閣下。ならびに、アンヌ公爵夫人、ご入場」
広間に集う貴族たちの視線が一斉に注がれた。
そこにいたのは、悪名高き呪われた城でやつれ果て、恐怖に震えているはずの哀れな後妻の姿ではない。
夜空色の最高級の絹をまとい、背筋を凛と伸ばした麗人が、堂々と歩みを進めていた。
歩くたびに銀糸の刺繍が夜露のように微かに煌めき、豊かな髪は気品高く結い上げられている。
そして何より、人々の目を奪ったのは、その胸元で青白く透き通った光を放つ巨大な宝飾だった。
「あれは、リュネシネージュ家に代々伝わる、氷狼の涙、ではないか」
「北方の大鉱脈の奥底でしか採掘されないという、伝説の守護石」
「代々の正妻にしか受け継ぎを許されない家宝を、あのような身元の怪しい後妻に下賜されるとは」
ざわめきが波紋のように広がる中、アンヌの耳にはそれらの雑音は届いていなかった。
胸元の石は驚くほどひんやりとしており、アンヌの肌に触れるたび、張り詰めた思考を氷のように澄み渡らせてくれる。
隣を歩くランベールが、エスコートする腕にわずかに力を込め、アンヌにだけ聞こえる低音で囁いた。
「堂々としていればいい。誰一人として、お前を貶めることは許さん」
「はい、閣下」
アンヌが微かに微笑みを返した時、人垣を割って一人の男が歩み出てきた。
仕立ての良い豪奢な礼服。整った目鼻立ちには、育ちの良さと傲慢さが滲み出ている。
カルヴェリュン侯爵家の現当主であり、第一王子の筆頭側近、ジュリアン・フォン・カルヴェリュン侯爵だった。
その姿を目にした瞬間、アンヌの視界が歪んだ。
視界の端に、かつての冷たい離れの光景が重なる。
寝台の上で泣き叫び、奪われた我が子を返してくれと乞うた自分。
その足元で、冷酷に視線を逸らし、見苦しい、両親を煩わせるなと言い放った男の顔。
前世でアンヌを世継ぎの容れ物として買い叩き、飢えと衰弱の果てに見殺しにした元夫の冷酷な瞳が、目の前の男の顔と完全に重なり合っていた。
指先が冷たく凍りつき、胸の奥からせり上がる激しい憎悪と嫌悪感に、呼吸が止まりそうになる。
その時、胸元の、氷狼の涙が、冴えわたるような冷たい輝きを放った。
皮膚を通して伝わる、絶対零度の清冽な波動。
凍りつきかけたアンヌの意識を、守護石の冷気が一瞬で現世へと引き戻す。
幻影は霧散した。
いま目の前にいるのは、アンヌを踏みにじった前世の夫ではない。
アンヌを手に入れ損ね、焦りと強欲に駆られて立ち尽くす、ただの愚かな男に過ぎない。
そして何より、今のアンヌの隣には、自分を家族として守り抜く最強の男が立っている。
アンヌの瞳に、冷徹で揺るぎない光が宿った。
「これは、リュネシネージュ公爵閣下。ようこそお越しくださいました」
カルヴェリュン侯爵は慇懃な礼を執ったが、その目は侮蔑と品定めを隠そうともせず、アンヌの全身を舐めるように見つめていた。
「そして、初めまして、公爵夫人。まさかこのような場所で、フォルシュール伯爵家の令嬢とお目にかかれるとは。実父殿が横領の罪で連行されたと聞き、心を痛めておりましたが、案外とお元気そうで何よりです」
公衆の面前で実家の犯罪を突きつけ、アンヌの出自を暴いて辱めようとする下品な挑発だった。
周囲の貴族たちが息を呑み、息を潜めて事の成り行きを見守る。
ランベールが眉をひそめ、腰の佩刀に手を伸ばしかけた。
だが、その逞しい腕を、アンヌがそっと手袋越しに制した。
アンヌは一歩前へ出ると、完璧な淑女のカーテシーを返した。
その微笑みには、一片の動揺も、怯えもなかった。
「お初にお目にかかります、カルヴェリュン侯爵閣下。お気遣い恐れ入ります。実父の不始末につきましては、国の法に基づき厳正に対処されたものと存じます。横領された穀物配給金の補填に関しましても、すでに我がリュネシネージュ公爵家が王家へ申し入れ、全額の立て替えを完了しておりますので、どうぞご安心くださいませ」
カルヴェリュンの顔が引き攣った。
実家の罪を恥じるどころか、公爵家の圧倒的な財力と当主の権限を後ろ盾にして、自らの手で完全に落とし前をつけたのだと宣言されたからである。
さらにアンヌは、カルヴェリュンの喉元へ、澄んだ声で刃を突き立てた。
「それよりも侯爵閣下、南部領地の作況はいかがでございますか。今年の春も土壌の痩せ衰えが深刻で、領民への食糧支援が滞っていると聞き及んでおります。他家の身内を気にかける余裕がおありなら、まずはご自身の足元の飢饉に心を砕かれた方が、貴族院にとっても有益かと存じますけれど」
広間の空気が凍りついた。
貴族院が隠蔽し続けてきたカルヴェリュン領の飢饉の事実を、公の場で白日の下に晒したのだ。
「貴様」
カルヴェリュンが怒りに顔を紅潮させ、拳を握りしめた。
その瞬間、ランベールがアンヌの肩を抱き寄せ、氷壁のような冷たい威圧感でカルヴェリュンを見下ろした。
「我が妻の言葉に、何か不服でもあるのか、カルヴェリュン侯爵」
金色の双眸が放つ剥き出しの殺気に、カルヴェリュンは息を呑み、思わず半歩後ずさった。
戦場で無数の敵を屠ってきた男の前に、口先だけの宮廷貴族が立ち塞がれるはずもない。
「いいえ。滅相もございません」
カルヴェリュンは忌々しそうに吐き捨て、逃げるように背を向けた。
周囲を取り囲む貴族たちの瞳に、アンヌへの侮蔑の色はもはや微塵も残っていなかった。
悪名高き公爵を従え、宮廷の権力者を一言で退けた誇り高き女主人の姿に、広間は息を呑むような感嘆と畏怖で満たされていた。
「見事だったぞ、アンヌ」
ランベールが低く囁くと、アンヌは胸元の、氷狼の涙に、そっと手を添え微笑み返した。
前世の幻影は、もう二度と私を縛ることはできない。
「行くぞ、アンヌ」
ランベールが静かにアンヌの肩を抱き寄せた。
その口元には、妻が敵を完膚なきまでに叩き潰したのを見た、隠しきれない誇りと深い愛情が滲んでいた。
「あのような腐れ外道に、これ以上言葉を費やす必要はない」
二人は青ざめて立ち尽くす侯爵に背を向け、威風堂々と王族への拝謁へと進んだ。
社交界の亡霊たちを言葉の刃で切り裂いたアンヌの胸には、確信が宿っていた。
過去の地獄は、もう二度と自分を縛ることはできない。
自分にはいま、背中を預け合える夫と、帰りを待つ愛しい息子がいるのだから。




